アガサ・クリスティー攻略作戦【番外編】(執筆者・霜月蒼)

 


 翻訳ミステリー大賞シンジケート開設とともにはじまった霜月蒼さんの人気連載「アガサ・クリスティー攻略作戦」が、このたび全面的な増補・改訂のうえ講談社からアガサ・クリスティー完全攻略』として刊行されました。
 刊行を記念して、著者の霜月さんに(ここでしか読めない)本書の舞台裏を語っていただきました。
 
 なお同書の刊行にあわせて当サイトでの「アガサ・クリスティー攻略作戦」の公開を終了いたしましたこと、ご了承ください。これまでのみなさまのご愛読に深く感謝するとともに、今後とも当サイトをよろしくお願いいたします。(事務局)
 
 
 2009年10月の本サイトの開設から、3年半にわたって連載したアガサ・クリスティー攻略作戦》が、一冊の本にまとまり、このほど発売となりました。


 題して――


アガサ・クリスティー完全攻略』講談社


アガサ・クリスティー完全攻略

アガサ・クリスティー完全攻略



 日本語で翻訳刊行されたアガサ・クリスティー作品99作の全レビューを収録しています。


 いま思い返せば、ずいぶんと大それたプロジェクトに手をつけてしまったものだと思います。なにぶんアガサ・クリスティーは、コナン・ドイルと並んで、もっとも有名で、もっとも読まれているミステリ作家なのです。そんな巨峰に、クリスティー作品をたった7作しか読んだことのなかった人間が挑んだわけです。当然、読者は自分よりもクリスティーにくわしいと思わなくてはならない。そんななかで、自分に何が言えるだろう? そんな読者に何を届けることができるだろう? それを問いながらの連載でした。


 その問いに対する答えは、「霜月蒼」という人間のミステリ観、小説観に嘘をつかず、真正面から挑むことしかない――そう考えました。とりあえずは黄金時代の本格ミステリと呼ばれるものは大体読んでいる。けれども自分の軸となるのは1960年代以降の現代ミステリであり、偏愛するのはハードボイルド・ミステリであり冒険小説であって、レビューを書いていたのは主にノワールと呼ばれるクライム・フィクションです。「アガサ・クリスティー的なるもの」と対極にあるものばかり。でも、これこそが武器なのではないか、と思ったのです。


 どんな種類のミステリであれ、いま現在書かれ、読まれている作品は、否応なしにクリスティー以降のミステリを通過した目で書かれ、読まれているはずです。いま、ここで紐解かれるクリスティー作品は、当然、そうした目によって読まれることになります。しかるに、クリスティー作品を語る言葉たちは、江戸川乱歩の昔から、それほど変わっていないように思われました。あるいは、お茶やスコーンや田園生活といった周辺のことばかりが語られているように思われました。そういうことなら自分にもできることがある。


 いま、ここにあるリアルタイムのミステリ作品として、クリスティー作品にセメントマッチを挑む。先入観を疑い、定番の文言に逃げず、歴史的な作品であるからといって下駄をはかせず、枝葉の話によそ見せずにガチで戦う。そうすることで、ひょっとすると、現在の言葉でクリスティーを語ることができるかもしれない。それは言い換えれば、現在の読者に届く言葉によるクリスティー作品レビューになるということです。それが成功したかどうかは、これを読んだ方々にご判断いただくべきことですが。


 そんなわけで、毎度、「本当におれがクリスティーをレビューしていいのか?」という恐怖に駆られつつも(あるいはそれゆえに)、全力投球で書いていきました。先のことを考えてネタをとっておくような贅沢は許されないと思っていたので、「クリスティーとは**である」みたいな論が、読書量の蓄積にともなって、随時更新されるということにもなりました。ある作品を語るうちに連想したトピックは全部、その回にぶちこみました。ですから、ハードボイルド論が登場することもあれば、冒険小説/スリラー論やホラー論、ノワール論などが展開されることもありました。これは意図的なものでもあります。現代の海外ミステリのすばらしさ、おもしろさを伝えていきたいと思っているからです。ある分野では、クリスティーよりもすぐれた現代作家がいるし、クリスティーのこの作品が気に入ったなら、きっと楽しんでもらえるだろう現代ミステリもある。本書巻末には、本文中で紹介したクリスティー以外の作品のリストを収録してあります。傑作しか本文中で引き合いに出さない、と決めていましたから、いわばこの本は、99作のクリスティー作品に加え、それと関連する多数の傑作ミステリをご紹介するブックガイドとしても使えるのではないかと思っています。


 なお、書籍化にあたって、大幅な加筆訂正を加えました。もちろん論旨などは変わっていませんが、一気にぶっ書いた原稿が多かったため、論理が濁ったりスキップしたりした部分を修正しています。本サイトで公開されていたのは無料のデモ・ヴァージョンで、書籍のほうはアルバム・ヴァージョン、といった感じでしょうか。「アルバムよりデモのほうが全然よかったぜ、セルアウトしやがって」とヤキの回った音楽ファンみたいなことをおっしゃらずに、書籍版に目を通していただけますと幸いです。


 長きにわたったクリスティー攻略で私が得た最大の収穫は、


クリスティーって無茶苦茶おもしろいんじゃんか! なんで早く教えてくれなかったんだよ!


 ということでした。現代でもまったく古びていない傑作が膨大にある。ノワールとしてすぐれた作品もあれば、カラフルにおもしろい作品も、呆れるほど緻密な作品も、笑わずにいられないコメディもありました。クリスティー作品をあまり読んでいない、という方には、ぜひ本書を手引きに、クリスティーという天才の小説に触れていただきたいと思います。本書、ネタバレをほぼ完全に回避した親切設計です。


 そして、個人的野心としては、アガサ・クリスティーの熱心なファンの方にとっても、何か新しい視座を提供できていたら光栄です。


 最後に。この本が成立したのは、翻訳ミステリー大賞シンジケートの読者のみなさまのおかげでもあります。ときおりいただくコメントや感想ツイートに励まされ、最後までたどりつくことができました。途中、何度か心が折れかけつつも完走できたのは、そんな激励ゆえです。御礼申し上げます。ありがとうございました。