クリスティーに異形の正義を探る―― 『アガサ・クリスティー完全攻略』書評(執筆者:巽昌章)

 

アガサ・クリスティー完全攻略

アガサ・クリスティー完全攻略

 
  クリスティーには妙に分かりにくいところがある。トリックが面白い、論理が緻密といった紋切り型の言葉でとらえるわけにはいかず、かといって、古きよき英国を親しみやすく描いたなどと呼ぶには、その凄みはあまりに悪魔的である。だから、とりあえずこういっておこう。クリスティーという作家が体現しているのは、小説を支配し尽くすことのおそろしさなのだと。小説は書きようで、同じ出来事を明るくも暗くも書くことができ、読者を笑わせたり泣かせたりすることができる。大衆作家クリスティーは、多くの読者に愛されながら、その「書きようでなんとでもなる」という単純な可能性を、おそろしいほどに突き詰めたのだった。彼女の仕組む謎解きの特色もそこにあるだろう。
 
 むろん、こんな抽象的な言い方では何を言ったことにもならない。大事なのは個々の作品をしっかり読んで、「書きよう」を探ることである。霜月蒼アガサ・クリスティー完全攻略』はまさにその愚直な実践であり、いたるところにこの作家の「書きよう」が発散する凄みを発見している。霜月氏はもともとハードボイルドやノワールを好んで取り上げる評論家だが、そんな人が、いわば畑違いのクリスティー徒手空拳で挑んだことからくるミスマッチの面白さがここにはある。しかし、それは決して見当外れということではなくて、対象との間に距離を感じているからこそ、ここまで作家の「書きよう」とその魅力に肉薄できたのだろうと思わせる。
 たとえば、第一作『スタイルズ荘の怪事件』について、霜月氏はこう述べる。
 

『スタイルズ荘の怪事件』は、言い換えれば推理を紡いでゆくプロセス自体をストーリーとした小説なのである。謎は冒頭で提出されたものに限られず複数提出される。冒頭の謎が、推理や手がかりの収集を経て、別の謎に姿を変えもする。容疑者たちのイメージも尋問や対話によって変動する。あるいは一見なんでもない描写に伏線や手がかりを仕込む。こうすることでクリスティーは「本格ミステリという物語」を確立した。(p.12)
(編集部注:太字部分はじっさいには傍点)


 こういう書き方は意外にできないものだ。私たちは、謎や推理やトリックが小説の部分品として「ある」と考えがちなので、それらを流動するプロセスとして眺め、プロセス自体が物語を形成するとみなすところにはなかなか行き着けないからだ。この一節は、クリスティーにとどまらず、本格推理長編の「初心」をうまく言い当てたものだと思う。
 
 こうした霜月氏の持ち味がもっともよくあらわれているのは、クリスティーの小説を貫くテーマを正義という言葉でとらえようとしているところである。とりわけ、正義をもたらす峻烈な「復讐の女神」としてのミス・マープル像を提示したくだりは、この本の眼目と言ってよいだろう。といっても、霜月氏はクリスティーが勧善懲悪だからすばらしいなどと述べているのではない。本書を読み終えたときに残るのは、むしろ、クリスティーにとって正義とは何だったのだろうという問いである。クリスティーの正義は、あるときには狂気と一体のグロテスクな姿をのぞかせ、あるときには必殺仕掛人的な痛快さをもたらす。しかも、そうした様々な正義の姿を演出しているのは、悪魔のように小説を支配し、思うがままに読者を操ることのできた作家ではないか。私たちはクリスティーが作品の随所に残した「正義」の刻印をたどって、彼女の考えにたどり着こうとするが、そのとき、その刻印ははたして信用すべき手掛かりなのだろうか、正義も悪もこの天才の筆先の戯れではないのかという背筋の寒くなるような疑惑を道連れにせざるをえない。
 
 こうしたクリスティーという作家の得体の知れなさを痛感させるのが、オリエント急行の殺人』そして誰もいなくなったが双子のようだという指摘である。一方はまずまず勧善懲悪、他方は暗澹たるバッドエンドと印象は正反対なのに、霜月氏の言うとおり、この二冊は確かに似ている。テーマを共有しながら、それを軸にして対照的な姿を与えられているのだ。だが、このふたつを一組としてとらえ、さらに戦後の諸作品へとつなげてゆくことによって、クリスティーの作品世界は不気味なひろがりをみせることだろう。絶海の孤島に殺人者の狂気を封じ込めたかのような『そして誰もいなくなった』。事件が終われば乗客たちは広い世界へと散ってゆく『オリエント急行』。だが、もし両者が双子であり、悪魔的な作家の「書きよう」によって異なる姿を見せているのだとすれば、開かれたこの世と悪夢の孤島は等価なのかもしれず、殺人者に宿る狂気もまたこの世のいたるところに潜んでいるかもしれないのである。
 

巽 昌章(たつみ まさあき)

 京都大学推理小説研究会出身。推理小説評論家と称しているが、ほとんど開店休業状態。
 

論理の蜘蛛の巣の中で

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そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

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オリエント急行の殺人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

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