千街晶之氏特別寄稿書評『アガサ・クリスティー完全攻略』刊行によせて
「翻訳ミステリー大賞シンジケート」の名物連載であり、書籍化が期待されていた霜月蒼氏の『アガサ・クリスティー攻略作戦』が、ついに『アガサ・クリスティー完全攻略』として講談社から函入りの美麗本で刊行された。クリスティーの作品99冊すべてに目を通し、その書評を書くという、前例のない大変な企画である。
- 作者: 霜月蒼
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/05/14
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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著者の霜月蒼氏はミステリファンならお馴染みの批評家だが、その守備範囲はハードボイルド、ノワール、冒険小説、ホラーといったあたりが中心だ。その霜月氏が、英国本格ミステリの女王アガサ・クリスティーという、今までの評論活動とは縁遠い存在に着目し、その全作品に目を通すという取り合わせの妙味が、この企画の成功の理由のひとつだ。ガチガチの本格ファンにすら、戯曲や旅行記まで含めてクリスティーの全作品を読んでいるというひとがどれだけ存在するだろう(かなりのファンを自負している私ですら読み残しがある)。エラリイ・クイーンやジョン・ディクスン・カーのファンと較べると、クリスティーのファンは熱く語りたがるタイプが少ないため、広く読まれているわりにクリスティーの魅力というのはなかなか伝わりにくい。更に、霜月氏も指摘しているように、クリスティーを語る従来の言葉の多くが、彼女の作品のミステリとしての核心に触れるものではなかったというのも否めない。その点、本格を守備範囲としていない霜月氏が、自分なりにクリスティーの魅力を見出し、それを自分の言葉で表現していこうとする一種のドキュメンタリーとしても本書は貴重なのだ。
本書のもうひとつの成功の理由は、(ポアロやマープルといったシリーズ別になっているところはあるとはいえ)クリスティーの作品をほぼ発表順に追っている点だろう。私もそうだが、早い時点でクリスティーの作品に馴染んでいる読者は、まず代表作を読み、そこから他の作品へと手を広げてゆくものではないだろうか。本書の場合、霜月氏は発表順に読んでゆくことによって、クリスティーの作家としての成長、あるいは変化を捉えることが出来た。例えば『杉の柩』を『アクロイド殺し』と『三幕の殺人』の延長線上にある試みだとする見方はかつて存在しなかったのではないか。
また、『ナイルに死す』などの有名作品の美点を巧みに指摘しつつ、あまり話題にならない『死との約束』(一応、映画になってはいるけれど)や『死の猟犬』や『忘られぬ死』などを傑作として称揚しているあたりも、従来のクリスティー論にないユニークな部分だし、『ひらいたトランプ』などの失敗作からもクリスティーという作家の本質を捉えようと試みている点も注目すべきだ。霜月氏のすべての意見に賛同し得るわけではないにせよ(特に『予告殺人』への低評価には同意し難い。ネタばらしになるため具体的には書けないが、私見ではこの作品の美点は、謎解きの構成や犯人の意外性にあるのではなく、殺人者の心理的な歪みが生み出す怖さと悲劇性にあると考えるからだ)、美点の的確な指摘と欠点への容赦ない裁断は読んでいて清々しい。
霜月氏ならではの視点だと思ったのが、ミス・マープルをキャシー・マロリーや草薙素子の源流としての「正義のヒーロー」と捉える見方である。これには虚を衝かれたが、確かに『ポケットにライ麦を』などにおけるマープルは仮借のない怒りで正義を実現しようとするキャラクターだった。噂話が好きな田舎のおばあさん的なイメージで想起されがちなマープルの新たな魅力を浮かび上がらせたのは、ハードボイルドや冒険小説に親しんでいる霜月氏の、ヒーローというもののありようへの日常的な思索の賜物なのだろう。
霜月氏ならでは――といえば、個人的に本書で印象的だったのは、ミステリとしての構造に対する怜悧な分析とは別に、『五匹の子豚』という小説の真の凄みを指摘するくだりである。こういったところで氏の文章は無類のイメージ喚起力を発揮する。続く『ホロー荘の殺人』の、ガーダ・クリストウの仄暗い肖像を浮かび上がらせる筆さばきも同様だ。分析の鋭さや蓄積された知識を武器とする批評家はいくらでもいるが、霜月氏のように、文章力でダークなイメージを喚起し得る批評家は極めて稀だということは、いくら強調してもしすぎるということはない。
さて、数ある書評の中で最も衝撃的なのが、クリスティー晩年の怪作『フランクフルトへの乗客』についての文章である(本書では5つ星満点で各作品に★★★★とか★★といった採点がされているのに、この作品だけ「BOMB!」なのだ)。「昔読んだけど、なんだかよくわからないしそんなに面白くもなかった」程度の記憶しか残っていなかった私などは、「え、『フランクフルトへの乗客』ってそんなに凄まじい話だったっけ?」と再読したくなったほどだ。霜月氏の紹介によるとこの作品は「ブラックパワーもアフリカの独立運動も学生運動もヒッピーもネオナチもひとくくり」に扱い「現代芸術や現代思想すらも悪の組織による陰謀のツール」と見なす誇大妄想的な陰謀論と、「差別主義を老白人たちのヒロイズムとして描いた」ヘイト・スピーチ的な「狂気の書」であり、そこから浮かび上がるクリスティーの姿は「敵を虐殺したあとの廃墟にレース編みのクロスをあしらって心底から幸せそうに微笑む老女」に他ならない。
ただし、この評からは、晩年のクリスティーがどうしてそのような小説を書いてしまったのかはわからない(『愛国殺人』の評に記されているように、クリスティーがしばしば底の浅い床屋政談に走りがちだったとしても)。例えば、『第三の女』における若者文化の理解ある描き方と『フランクフルトへの乗客』の若者憎悪のあいだに何があったのか(両作の発表年はたった4年しか違わないのだが)。『カーテン』や『ポケットにライ麦を』などに顕著だと霜月氏が指摘するクリスティーの清冽で健康な正義感と、『フランクフルトへの乗客』の狂気の域に達した独善とは実は紙一重なのか。霜月氏はそのあたりについては答えてくれないので、本書から読者が思い浮かべるクリスティー像は分裂したものにならざるを得ない。個々の作品の評で構成されている本なので仕方がないとも言えるのだが、そのあたりに少々踏み込んでくれたなら、本書は更に読み応えのある批評になり得たのではないか。
ついでなので、気になった細かい点に触れておくと、22ページでロナルド・ノックスを「ノックス卿」と記しているけれども、普通こういう表記はしないのではないか(ノックスは高位聖職者だが貴族ではない)。また149ページには、「舞台を岡山なり箱根なりに移せば、そのまんま横溝作品になる」というくだりがあるけれども、岡山はともかく、箱根はあまり横溝正史作品の舞台というイメージはない。『犬神家の一族』に言及している点から推測すると、長野と混同しているように思えるのだが。
最後は少々不満も書いたけれども、本書が広く読まれるべき良質な批評書であることは、「翻訳ミステリー大賞シンジケート」の読者にとっては改めて説くまでもないことだろう。何より、これほどクリスティーの作品を読みたくなる(再読したくなる)ガイドはかつて存在しなかった。本書によって、クリスティー作品の魅力に開眼する読者が増えることを期待したい。
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