第40回 リュートが綴る物語―R・トレメイン『音楽と沈黙』(執筆者・佐竹裕)
私事で恐縮ながら、現在の海外の小説への偏愛を形づくるのに自分が多大な影響を受けたと思われるふたりの人物がいる。
ひとりは、中学時代の担任だった教師のT氏。強烈な個性の持ち主で、ホームルーム中に感極まって涙を流したり、じつはクラシックの音楽家でもあり、当時人気だったTV番組「題名のない音楽会」にもリュートを抱えて吟遊詩人として出演し、素晴らしい歌声を披露したりしていた。
病弱で多感で夢見がちだったその頃の小生にとって小説は格好の逃げ道だったのだけれど、このT先生たるや、依怙贔屓というか極端というか、本好きの生徒ということだけで何かと優遇してくれていたような部分が多々あったように思えた。おかげで誰はばかることなく、いつでもどこでも読書に没頭できたのも事実。
もうひとりは、“乱視読者”の異名を持つ英米文学者・若島正氏。もともと数学者だったというユニークな経歴を持つ若島氏には、小生がかつて編集者だった時代に「殺す時間」「失われた小説を求めて」という名物連載でお世話になったのだが、この連載エッセイで氏が取り上げられた未訳作品のひとつひとつが、とにかく面白そうでたまらなかったのだ!
その後、このエッセイがきっかけとなって多くの作品が日本で日の目を見ることになった。マイクル・ディブディン、ギルバート・アデア、エリック・マコーマック、スティーヴン・ドビンズといった、その後、邦訳が複数紹介されるようになった作家たち、シオドア・ローザック『フリッカー、映画の魔(Fricker)』(1991年)、ドナ・タート『シークレット・ヒストリー(The Secret History)』(1992年/近刊の新潮文庫からの再刊タイトルは『黙約』)、チャールズ・ウィルフォード『拾った女(Pick-Up)』(1954年)など、まさに乱視読者のすぐれた視線が見つけ出した傑作たち……。この連載の一部は氏のいくつかの著作に収録されたりしていたが、現在では『殺しの時間 乱視読者のミステリ散歩』(2006年)でまとめて読むことができる。少々毛色の変わった趣味の海外文学の編集者にとっては隠れバイブルと言っていいだろう。いまなお、ここで取り上げられた作品で邦訳作業が進行中のものがいくつもあるという。
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とはいっても、正直いってミステリー作品ではなく歴史ロマンスといったジャンルに分類されるべき作品なのだけれどね。広義の意味でのエンターテインメントとしてご理解いただけたら幸いです。国も作風も違えど、『ここがホームシック・レストラン(Dinner at Homesick Restaurant)』(1982年)や、映画『偶然の旅行者(The Accidental Tourist)』(1988年)の原作『アクシデンタル・ツーリスト(The Accidental Tourist)』(1985年)で知られるベストセラー作家アン・タイラーのような、主流文学(純文学?)の香りも漂わせたエンターテインメントといった印象で、そこに歴史小説の魅力を加えた作風といった位置づけだろうか。
おそらく乱視読者の目をまず引いたのは、国王が謁見室の真下にある地下室に宮廷楽団を待機させて音楽を奏でさせたという、17世紀デンマークでの史実の部分だったのではないか。
王に招かれた客人たちは、どこからともなく聴こえてくる妙なる調べに驚愕するという趣向で、じつは床の一部が開いて地下からのパイプを通して演奏を響かせるのだ。しかも楽団はフランス、イタリア、ドイツ、デンマーク、ノルウェーと、近隣の国々から集められた凄腕の演奏家ばかりなのだけれど、冬には暗く凍えそうな地下で長時間の演奏を強いられるのだから、楽士たちにとってはたまったものじゃない。高野史緒の『ムジカ・マキーナ』(1995年)ばりに、芸術を追求していくと人間は恐ろしい領域に踏み込んでしまうもののようだ。
デンマーク国王のクレスチャン4世は、60年にもわたって善政を敷いた名君として知られている実在の人物。彼の幼少時から1630年までを幾人かの登場人物の視点を通して綴られていくのがこの物語なのである。主人公のひとりである若者ピーターは、イギリス人のリュート奏者。そう、中学時代の恩師T氏が奏でていた楽器の弾き手である。リュートは日本でいう琵琶に似たギター状の弦楽器で、主に中世ヨーロッパで広く使用されていた。クレスチャンに求められ、はるばるイギリスからコペンハーゲンにあるローセンボウ城へとやってきたピーターは、謁見室「冬の間」での地下楽団に加わると同時に、国王の寵愛を受ける。というのも、彼の容貌が、国王の今は亡き親友ブロアと似ていたから。
クレスチャンにはキアステンという溺愛する妻がいるのだけれども、貴族の生まれではないために正式な女王にはなれない。王の深い愛にもかかわらず彼女はかけらも王を愛しておらず、じつはドイツ人の愛人がいることを隠しているのだ。
奔放でわがままで残酷なキアステンに仕える侍女が、美しく心優しいエミリア。彼女に一目惚れしたピーターは一途に想いを打ち明け二人は愛し合うようになるのだけれども、エミリアを可愛がるキアステンが、この仲を裂こうと画策する。
かくして、王と妻、王に雇われる楽士と妻の侍女、この2組が絡み合う愛の駆け引きを中心に物語は進んでいく。加えて、貧窮する国家の再建のために奔走する王の現地視察による懊悩、エミリアと家族との確執と不思議な能力を秘めた末弟との姉弟愛、富の力のみを信じる皇太后の黄金への異様な執着、現在の生活を失いたくないキアステンの母の予想だにしない策謀、国王と親友ブロアとの友情とその終焉……と、てんこ盛りの人間ドラマが、デンマーク、イングランド、アイルランドという国をまたがって展開していく。
いやはや、そのドラマ展開が、それぞれの視点で素早く切り替えられて目まぐるしく進められていくものだから、これはもう歴史ロマンスというより恋愛サスペンスと称していいほどなのである。
国王クレスチャン4世ばかりでなく、その甥にあたる英国王チャールズ1世も、キアステン・モンクも、その後釜となる愛妾ヴィーベケ・クルーセも、実在した歴史上の人物。史実の隙間を縫って、まるで見てきたかのような臨場感とリアリティとで縦横無尽に物語を紡いでいくトレメインの手腕は、みごととしか言いようがないだろう。
イギリスの作曲家でありリュート奏者でもあったジョン・ダウランドも実在した人物で、実際には本作の時代を数年遡った1598年から8年間、デンマーク王クレスチャン4世にリュート奏者として仕えていたという。青年楽士ピーターの造型はおそらくこの高名な作曲家を参考にしているのかもしれない。このダウランド作曲による「涙のパヴァーヌ(Lachrimae)」は、まさに本作のテーマ曲だと言えるのだ。国王クレスチャンを、自らの心を慰めるため、作中、何度となくピーターはこの曲を奏でる。
その旋律に歌詞をつけた「流れよ我が涙(Flow, My tears)」としても知られている楽曲だけれど、フィリップ・K・ディックの代表作のひとつ『流れよわが涙、と警官は言った(Flow My Tears, The Policeman Said)』(1974年)のタイトルがここからとられたことも、つとに有名。パヴァーヌという楽曲ジャンルそのものの起源についてはというと諸説あるのだけど、もともとスペインで生まれた舞踊のための曲が派生したものとも言われている。キース・ロバーツの『パヴァーヌ(Pavane)』(1968年)は、16世紀イギリスを舞台とし女王エリザベス1世に焦点をあてた改変世界ものSFの傑作で、女王がこの舞曲を愛していたと伝えられることからタイトルとなっている。もちろん、ラヴェルの歴史的名曲「亡き王女のためのパヴァーヌ(Pavane pour une infante defunte)」なども頭に浮かぶことだろう。ほかにも、作中にはやはり高名な作曲家でヴァイオル(伊名ヴィオラ・ダ・ガンバ)奏者のアルフォンソ・フェッラボスコ2世の楽曲や、ジプシー音楽への言及も頻出する。
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この後、ロバートは国王の愛人と偽装結婚させられ断じて妻に手を出してはならないと命じられるが、妻に恋してしまうことに。王の道化となって富と名誉と贅沢な暮らしを手にし堕落していった男が、大きな挫折を知って本来の自分の歩むべき道を見つけるという、一種の成長小説にもなっている、これまた巻措くあたわずの一気読み本。ひねりを加えた悪漢小説の一種として、フラナリー・オコナーの名作『賢い血(Wise Blood)』(1952年)すら想起させる。
マイケル・ホフマン監督、ロバート・ダウニー・Jr主演で1995年に映画化され、日本では『恋の闇 愛の光(Restoration)』というタイトルで公開された。ちなみに、不思議な力を宿した赤ん坊を描いたトレメインのファンタジー短篇を原作とした、『Rickey リッキー(Rickey)』(2009年)という映画化作品もあるという。
いやはや、T先生と若島先生の存在なくして、こんな作家の作品と出会い、その味わいを理解できることもなかったのかと思うと感慨ひとしお。いつかはリュート演奏をマスターして、吟遊詩人の跡を継ぎたいとも思う、今日この頃なのでした。
◆YouTube音源
●"Lachrimae" by Hopkinson Smith
*アメリカのクラシック・ギタリスト、ホプキンスン・スミスによるジョン・ダウランド作曲「涙のパヴァーヌ」。BRQヴァンター・フェスティヴァルでのリュート演奏。
●"Fantasie" by Jan Akkermann
*ジョン・ダウランド作曲「ファンタジー」。オランダのプログレ・バンド出身ギタリスト、ヤン・アッカーマンによる1974年のTVショーでのリュート演奏。
●"Fantasie" by Jan Akkermann
*ライラ・ヴィオルという珍しい楽器による、アルフォンソ・フェッラボスコ2世作曲「アルメイン(Almaine)」。演奏はスペインのヴィオル奏者フェルナンド・マリン。
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佐竹 裕(さたけ ゆう) |
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1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。 |
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