第三回 『死体のC』
前回、「キンジー・ミルホーンシリーズは好きじゃないんだよなー……」とぶっちゃけたところ、「スー・グラフトンは『死体のC』で一皮むけるのだよ。」というアドバイスを、とある先輩ミステリ評論家からいただいた。むむ、それならどう「一皮むける」のか、確かめてやろうじゃないの。
- 作者: スー・グラフトン,嵯峨静江
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1987/10/01
- メディア: 文庫
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なんだこれは。この前二作とは異なるこの暗いトーンは。まるで『さむけ』や『ウィチャリー家の女』といったロス・マクドナルド作品のような、憂鬱な雰囲気が物語全編に漂う。その要因は、冒頭の物悲しいキンジーの言葉によって、提示される。
ボビー・キャラハンとは、その週の月曜に会った。木曜には、彼はすでに死んでいた。だれかが自分を殺そうとしているという彼の言葉どおりになったわけだが、われわれはだれひとり犯行をくいとめて彼をすくうことはできなかった。
依頼人の死。それはプロの探偵にとって仕事の失敗を意味するものである。つまり物語の幕開けから作者グラフトンは、『C』は探偵キンジーの挫折をテーマにした小説であると宣言しているのだ。前作『B』ではプロ意識の萌芽が描かれていたが、本作では「プロ失格」の烙印を押されたキンジーがいかに再び事件に立ち向かうか、に焦点が当てられているわけなのですね。
もちろん、ボビーに対する個人的な好意から弔い合戦に臨む気持ちもキンジーにはあるのだが、その好意は『A』のときのような恋愛感情というより、幼い子を守ろうとする母性といった方が近い。健気で清潔感がある一方、どこか暗い影を背負っているボビーをまだまだ未熟な「子供」としてキンジーは見守る。そんな息子のような存在であったからこそ、ボビーの死に対して今までの作品では見せたことのない憤りと悲しみをあらわにして、彼女は真相を突き止めようとするのだ。前回私は「女性が探偵を営む上での葛藤が書かれていなくて不満だ!」と言ったが、そうか、キンジーというキャラクターの魅力はもっと別のところ、すなわち「優しさ」や「母性」といったものにあるんじゃあないのか?そう考えると、「女私立探偵=世の中の偏見に強く立ち向かう姿が描かれていなければならない」なんてでしか私はキンジー・ミルホーンを評価していなかったのかもしれない。
だからといって「キンジー・ミルホーン」シリーズが好きになったかというと、そうでもないんですよねえ。例えば、シリーズに登場する10代後半から20代前半の若い男性の描き方。殺人罪で服役した母親を持つ青年だろうが、マリファナを隠し持っているようなヤンキーだろうが、みーんな「素直で純朴な良い子たち」なのだ。本作のボビーもその例外ではなく、事故で傷だらけになろうともマッチョでイケメンオーラ全開だし、クスリ漬けになった義理の妹にも愛情をそそぐような、実にイイ奴。もしかしたらグラフトンの理想の若い男性像なのかもしれないけれど、登場する若者が皆、判で押したように似たキャラばっかりで、ちょっとうんざりするの。いくらなんでも、世の中こんなに純粋な若い男ばかり溢れているわきゃないでしょう。えっ、そりゃおまえの単なるイケメンへの嫉妬じゃないのかって?失礼な!
また、今回ヘンリーじいさんが、近所に新しく引っ越してきた口やかましい女性に惚れこんでしまう話がボビーの事件と並行して描かれるのだが、このエピソードで一体何を言いたかったのかが全くの意味不明。そもそも、賢そうなヘンリーがあんな橋田壽賀子ドラマに出てくるような女にどうして熱を上げてしまったのか、ボビーの死よりもこっちの方が私には謎だった。
とまあ不満はいくつかあるものの、ダークで重い展開の中に「母性」というキンジーの新たな一面を垣間見ることができた。その意味では確かに『C』でシリーズは「一皮むけた」のかも知れない。こうした発見が今後もあるのなら、もう少しキンジー・ミルホーンにお付き合いしてもよいかも。
挟名紅治(はざな・くれはる)
ミステリー愛好家。「ミステリマガジン」で作品解題などをたまに書いています。つい昨日まで英国クラシックばかりを読んでいたかと思えば、北欧の警察小説シリーズをいきなり追っかけ始めるなど、読書傾向が気まぐれに変化します。本サイトの企画が初めての連載。どうぞお手柔らかにお願いします。