第22回『透明人間の告白』の巻(執筆者・東京創元社S)
- 作者: H・F・セイント,高見浩
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2011/12/03
- メディア: 文庫
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- 作者: H・F・セイント,高見浩
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2011/12/03
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みなさんこんにちは。毎回このご挨拶パートで何を書こうか悩んでしまう東京創元社Sです。前振りって大事だと思うんですが、難しいですね。
さて、今回の課題本はH・F・セイント『透明人間の告白』です。前回に引き続き、書店在庫のある本(創元用語では「生きている本」といいます)なので、紹介文を書くほうも気合いが入るってもんです。興味を持たれたかたはぜひお買い求めくださいね(にっこり)。
●あらすじ●
34歳の平凡な証券アナリスト、ニックは、科学研究所の事故に巻き込まれ、透明人間になってしまう。透明な体で食物を食べるとどうなる? 会社勤めはどうする? 生活費は? 次々に直面する難問に加え、秘密諜報員に追跡される事態に……〈本の雑誌社が選ぶ30年間のベスト30〉第1位に輝いた不朽の名作。(上巻のあらすじより)
椎名誠さんによる本書の名解説(なぜか上巻についている)に、こんな一文がありました。「おそらく世界中の人が『もし自分が透明人間になれたら』という夢を一度は抱いたことがあるのではないかと思う」これを読んで「えっ、そうなの?」と思ってしまいました。私は一度も透明人間になりたいと思ったことはありませんねぇ。なれるわけないじゃん、とかひねくれたことを考えてしまうタチだからでしょうか。それにしても、本書を読んでますます透明人間にはなりたくないなぁ……と思うようになりました。
なぜかというと、本書は“透明人間の日常”をことこまかに描いた作品だからなのです。主人公のニックはある事故がきっかけでいきなり透明人間になってしまうのですが、それからがもう大変。体が透明になったからといって、ご飯は食べなければ生きていけないし、いきなり仕事を辞めるわけにもいきません。このあたりの描写が非常にリアリティがあってめちゃくちゃおもしろかったです。
体が透明になっても、飲んだり食べたりしたものまで透明になるわけではありません。と、いうことは。例えば、私の大好きなネギトロ巻きを食べたとしたら、それが咀嚼され、食道、胃を通って消化されるまでが完全に見えてしまうのです。うーん、想像してみると、ちょっとキモチワルイ光景ですね、ほんとに。ニックもそのことに気づいて、なるべく透明なものを摂取しようとします。そりゃそうですね、せっかく透明になっても、胃の中の食物が見えていたんじゃ、そこにおかしな生き物がいるってばれちゃいますから!!
ニックが透明な食べ物を得るために、スーパーに電話して品物を配達してくれるように頼むシーンがあるんですが、ここがとにかくユーモラスで大爆笑しました。本書の魅力のひとつに、高見浩先生の翻訳文がとても読みやすくて、どことなくおかしみがあることが挙げられると思います。その証拠に、笑える箇所がいくつもあります。また、登場人物たちの会話がまるで声が聞こえてくるかのように生き生きとしていて、ずっと読んでいたくなります。訳文の力もあって、人間味と良い意味での滑稽さがある物語になっています。誰でも楽しめる作品ですよ〜。
あとは、透明人間だからといって気配まで消すことができるわけではないので、子どもたちに襲われてしまったシーンもよかった……。そういう緊迫感あふれるシーンもとってもおもしろくて、ぐいぐい読まされてしまいます。特に、ニックをスパイとして利用しようとする秘密諜報員の追跡がすさまじくて、どういう展開になるか先が読めないのもスバラシイ。“透明人間の日常”と同時に、“透明人間の冒険”を描いている作品なのです。
また、ちょっとせつないシーンの演出もうまいんですよ〜。透明になってしまって、親しい人間に会ったり触れたりすることができない。食べ物を確保することも、寝るところも自分でなんとかしなくてはならない。透明になるということは、孤独であるとイコールなんですね。本書を読んで、“ひとりで生きること”がいかに大変かという点に気づかされました。ニックが透明人間として生きるしかないと腹をくくって、秘密諜報員に追跡されないように自分と外部の人間との接点となっているものを残らず燃やすシーンは、読んでいてとてもせつなかったです。お酒を飲みながら、手紙、日記、小切手や写真を燃やしていく場面は胸が詰まりました。ここを読んで、やっぱり透明人間にはなりたくないなぁ、と思ったのでした。
さて、ほめてばかりだとつまらないレビューになってしまいますので、そろそろツッコミのお時間にさせていただきたいと思います(笑)。うん、この作品、とてもおもしろかったんですよ。でもね、こう、女子的にはどうしても許し難いもろもろもいっぱいありましてね……。
ニック。この主人公がもう、とにかく気に入らないというか、「ほんと信じられないこの変態野郎!!」って罵りたい気分でいっぱいです(きっぱり)。透明人間になったから、やっぱり見てしまうわけですよ、秘書の女性のお着替え&トイレの最中やら、恋人同士のなんたらのシーンを……。いや、確かにニックだけが悪いわけじゃない。そこに彼がいることは気づかれないわけだからしょうがない。でもさぁ、じゃあ目をつぶっておくとかしとこうよ! なんでそんなにじっと見つめて、詳細に描写するのよこの変態野郎!!
そもそも、冒頭からなんかニックに感情移入しにくかったというか、駄目男臭を感じ取っていたんですね。そうしたら、案の定ですよ。私が好きなのは「コンプレックス持ちハイスペック男子」であって、「愛すべきゲス野郎」ではないんだ!!(拙文「コンプレックス持ちハイスペック男子」が活躍! 新たなる名探偵の誕生を描く『ゴッサムの神々――ニューヨーク最初の警官』について」をご参照ください☆)そもそもニックが透明人間になっちゃったのだって、けっこう自業自得だからね!? とある研究所で、防火サイレン的な警報が鳴っているのに無視しちゃって、その結果事故に巻き込まれたのがきっかけだからね!? なんていうかもう、常に「しょうもないなぁ……」と思う行動を取る人物で、まったく好きになれませんでした!!!(笑) でも読む人が違えば、ニック大好き! という人もいるのでしょう……きっと……どこかに……。
さて、愛あるツッコミ(というか罵り?)が炸裂してしまいましたが、作品自体は非常におもしろかったですので、気になったかたはぜひ読んでみてください。ミステリや冒険小説、SFなどたくさんの要素が詰まったステキ小説です。楽しい読書になることは間違いないと思います!
【北上次郎のひとこと】 |
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マッキヴァーン『ジャグラー』はセントラル・パークをジャングルに見立てて敵を追い詰めていく話だったし、ブライアン・コフィ(ディーン・R・クーンツ)『マンハッタン魔の北壁』は高層ビルの壁面を冬山に見立てる冒険小説だった。大都会も見方を変えれば大自然なのだ、という発想といっていい。これらに比べて本書『透明人間の告白』は、周囲を変えず、主人公を変えることで大都会のサバイバル物語にしたのである。つまり主人公を透明にすることで、生きることの、生活することの困難を描き出すのだ。この逆転の発想が実に新鮮であった。 |
東京創元社S |
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入社5年目の小柄な編集者。日々ミステリを中心に翻訳書の編集にいそしむ。好きな食べ物は駄菓子のラムネ。2匹のフェレット飼いです。9月の東東京読書会が無事に終わりました。次は来年を予定しております。ぜひご参加ください。TwitterID:@little_hs |
ジャグラー―ニューヨーク25時 (1980年) (Hayakawa novels)
- 作者: ウィリアム・P.マッギヴァーン,井上一夫
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1980/03
- メディア: 単行本
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- 作者: ディーン・R・クーンツ,沢川進
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1993/04
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第21回『超音速漂流』の巻(執筆者・東京創元社S)
みなさんこんにちは。お久しぶりのラムネです。6月18日の第3回東東京読書会で、この連載でも取り上げられている『鷲は舞い降りた』(ジャック・ヒギンズ)を課題にしたところ、とても好評で嬉しかったです。この連載では他にもおもしろい冒険小説をたくさん紹介していますので、ぜひ読書会などで読んでいただけると嬉しいです。
- 作者: ネルソンデミル,トマスブロック,Nelson DeMille,Thomas Block,村上博基
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2001/12/07
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まずはあらすじを……
誤射されたミサイルがジャンボ旅客機を直撃した。機長は死亡し、乗客が酸欠により凶暴化するなか、無傷の生存者たちは必死で生還をめざすが、地上では事故の隠蔽のために生存者もろとも機を墜とそうとする計画が進行していた。82年に出版され、今や古典となった航空サスペンスの名作が、全面的加筆を施され、決定版として登場。(本のあらすじより)
本を読む前にこのあらすじを読んだときにまず思ったのが、「まじっすか?」というひと言でした。だってジャンボ機にロケットが直撃って!! なんじゃそりゃー! ですよ。いやはや、世の中にはとんでもないことを思いつくひとがいるものですね。で、ちょっとこれはB級っぽいのかな〜と思っておそるおそる読み始めたところ、度肝を抜かれることに。め、めっちゃシリアス……! そうなんです、この作品のすごいところは、トンデモな舞台設定とあらすじを、極めてリアルに、真面目に描いているところなんです。
この作品はふたりの著者による共作なのですが(もともとはブロック名義で刊行され、改訂版がでた際に共著だと明らかになったそうです)、ブロックさんのほうがパイロット&航空誌ライターという経歴の持ち主なのです。それだからか、作中の航空機関係の描写が非常にリアル! 臨場感あふれまくりでした。それでいて素人にもわかりやすくて、サクサク読めるのが素晴らしい。間違いなく一気読みしたほうがいい作品です。
また、本書の魅力のひとつが、「敵がいっぱいいる」ことだと思います。まずは“空の上”という、絶対に逃げられない空間だということ。ミサイルが直撃したジャンボ機は、なんだかすごい性能のもので、高度6万フィートとか、よくわからないけど非常に高いところを飛んでいます。そこにいきなりミサイルによって大穴が空いてしまったものだから、さあ大変。追突したときの衝撃はおろか、しっかり管理されている気圧などが大幅に狂ってしまいます。そしてさらには酸素が奪われてしまう……。ミサイルがぶつかってからの一連のパニックは、もう阿鼻叫喚のひと言でした。
そして、「酸素がなくなる」というのがいかに恐ろしいことか……。酸素が脳にいきわたらないまま一定時間が経過すると、脳細胞が壊れてしまいますね。本書でも、乗客やフライトアテンダントの人々のほとんどに、酸素の欠乏による脳挫傷が起こっています。それも、呼吸や運動神経など生命を維持する器官だけは無事で、思考を司る部分だけが破壊されてしまったり……。そのような被害を受けた人々は、もやは、“人間”ではなくなってしまいます。魂の抜けた、とても恐ろしい生き物と化し、何かのきっかけで無傷の人々を襲い始めます。これが、あらすじにもあった、第二の「敵」です。
もう、この凶暴化したひとたちっていうのが、とにかく怖くって。こういう言い方はアレなんですが、まるでゾンビの大群が襲いかかってくるようなものですよ。こーわーいー!! もともとこの作品は、「旅客機が高々度で減圧事故を起こし、その結果乗客乗員がどうなるかということを小説にできないだろうか」という疑問がきっかけで執筆されたそうです。で、あるからしてこの部分の描写に力が入るのは当然のこと。もう、これ冒険小説じゃないですよ! ホラーだよ!!! いやもう、閉鎖された空間で明確な思考ができないひとたちに襲われるとか、怖がりの自分には勘弁してくださいって感じです(泣)。
でもって、さらにまだ敵がいるんですよね、これが。第三の敵、それは「この恐ろしい出来事自体を“なかったこと”にしようと企む人々」です。この第三の敵を設定したことが、本書を傑作たらしめている要因のひとつだと断言したいです。
まず、ミサイルを誤射してしまった軍の連中。もうこいつらが、とにかくひどい! 完全な過失だったからこそ、事件を隠蔽しようと画策します。でもまぁ、彼らにしてみればそりゃ隠したくもなるでしょうから、「この外道!! 地獄へ落ちやがれ!!」とかののしりながら読むくらいですむんですが、もっと許せないのは、このジャンボ機の航空会社! プラス保険会社!! こいつらがもう、外道の極みなのです!!
事件を起こした側が隠蔽しようとするのはまだわかります。でも、本来なら乗客を守るべき航空会社が、“こんなことが表沙汰になったら一巻の終わりだ”ということで、なんとか生き延びて帰還しようとする人々を見殺しにしようとするなんて! なんたる……! 怒りで本を持つ手も震えるってもんです。おまけに、航空会社だけではく、保険会社までもが隠蔽に加担している! 確かに、恐ろしい数のひとが亡くなっており、さらには脳に一生直らない障害を負ってしまったひとが何百人もいるのです。いったい保険の支払いはいくらになることやら……。そう判断した保険会社の人間は、航空会社の悪人と結託して、飛行機を墜落させようとします。いっそ全員死亡のほうが払うお金がすくないからって!! もうほんと、なんたること……!
航空機には、いくつかの偶然が働いて、酸欠を免れて脳挫傷を負わなかった人々がいました。でもそれも、ほんの数人でしたが……。それでも彼らは希望を捨てずに、小型飛行機の操縦経験があるビジネスマン、ジョン・ベリーを中心に飛行機を無事に着陸させようとします。さまざまな「敵」に妨害されつつも、生きることを諦めない彼らの行動力は、ほんとうにすごいと思いました。そして物語のクライマックス、生きるか死ぬかの紙一重の場面での奮闘は、まさに手に汗握って読みました!
このクライマックスのシーンで特に印象的だったのが、事件から“生き抜こうとする人々”と、“隠蔽&抹殺しようとする人々”をきっちり対比させていることです。かなり細かく場面転換されており、「絶対に諦めない!」という思いが伝わってくるパラグラフのすぐあとに、「頼む、死んでくれ!」と死を願う描写があるという不思議さ。しかしこの対比のすさまじさゆえに、「どうなるの!?」という気持ちを抑えきれなくなり、ページをめくる手がとまらなくなるのです。いやはや、とにかく緊迫感のある小説でした。
冒険小説か、というのは正直疑問なのですが(笑)、とにかく誰にでもオススメできる素晴らしい物語でした。もう、これをいままで読んだことがなかった自分をののしりたいですね! とにかくおもしろい! 傑作ですので、ぜひお手にとってみてください。あ、でもくれぐれも飛行機に乗る直前には読んじゃダメですよ!
(追記:本書は文春文庫で2回刊行されており、今回はいま書店で手に入る改訂新版を読んでいます。昔の版とは結末がちょっと違うらしいです。某アマゾンさんのレビューにその違いが書いてあるものがあるので、ネタバレを気にされる方はお気をつけください。
【北上次郎のひとこと】 |
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航空パニック小説のパターンとして多いのは、機内はめちゃくちゃな状態になっていても、交信による地上の協力やなにかの援助を受けて生還するというものが多い。ところがこれは、そのパターンを破って、援助どころかすべてが漂流機の敵にまわる設定だから、いやはやスリル満点。トマス・ブロックはこのあとも、『亜宇宙漂流』や『盗まれた空母』などの航空サスペンスを書いているが、残念ながらこのデビュー作を超えるものはない。辛うじて読ませるのは、パイロットを失った航空機を描く『影なきハイジャッカー』くらいか。 |
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入社5年目の小柄な編集者。日々ミステリを中心に翻訳書の編集にいそしむ。好きな食べ物は駄菓子のラムネ。2匹のフェレット飼いです。この連載が21回に至ってびっくりしています。不定期連載になりつつあって申し訳ございませんが、いつもご愛読ありがとうございます。TwitterID:@little_hs |
- 作者: トマス・ブロック,鎌田三平
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- 発売日: 1983/06
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- 作者: トマス・ブロック,鎌田三平
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- 作者: トマスブロック,栃原啓
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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第二十回『暗殺者』の巻(執筆者・東京創元社S)
第二十回『暗殺者』の巻
みなさんこんにちは! まいど「冒険小説ラムネ」のお時間がやってまいりました。前回の『大洞窟』の回では、恐怖の「Mシーン」に関するたくさんの同意の声をいただき、たいへんうれしかったです。でもほんと、『大洞窟』はおもしろい小説ですのでぜひ読んでみてくださいね。
さて、今回はロバート・ラドラム『暗殺者』です! まずはあらすじを……。
- 作者: ロバート・ラドラム,山本光伸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1983/12
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- 作者: ロバート・ラドラム,山本光伸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1983/12
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僕はいったい誰なんだ? 嵐の海から瀕死の重傷で救助された男は、いっさいの過去の記憶をなくしていた。残されたわずかな手掛かり――整形手術された顔、コンタクト・レンズ使用痕、頭髪の染色あと、そして身体に埋めこまれていた銀行の口座番号――は、彼を恐ろしい事実へと導いていく。自分の正体を知るための執拗な彼の努力は、彼の命を狙う者たちをも引き寄せることとなった……。(上巻のあらすじより)
まずは、下巻にあった解説でなかなかおもしろいキャッチコピーが紹介されていたので引用したいと思います。
「ラドラムの作品には、ほかのミステリ作家6人が束になってもかなわないほどのスリルとサスペンスが詰め込まれている」
……なぜに6人? 中途半端だなぁ。そこは思いきって10人とか20人とか言っちゃいましょうよ! これだけおもしろいんだからOKですよ! ……というのが、解説まで読み終わったときの最初の感想でした。ものすっごく展開の速い映画みたいな作品です! おもしろかった〜。とにかくスリリングで、読者をぐいぐいひっぱっていく感じです。読み始めたら止まらないので、テスト前とか締め切り前とか確定申告前とかに読まないほうがいいと思います(笑)。
あらすじを読んでおわかりかと思いますが、今回は「記憶喪失もの」です! まぁミステリ的によくある設定と言えばそうなんですが、このお話はそれに真正面から挑戦し、かつオリジナリティもあるのがとてもいいと思います。なぜなら、主人公は嵐の海から助け出され、一切の記憶を失っていましたが、その顔には整形痕があり、どうやら変装をなりわいとしていたらしいということがわかるからです。うーん、これはいい設定! たとえ記憶をなくしていたとしても、そのとき着ていた服や身体にある特徴などから、どんな人物かある程度推定できると思うのです。ほら、例が極端で恐縮ですけど、かの名探偵ホームズは見ただけで出身地とか当てちゃうじゃないですか。しかしこの主人公にはそれが通用しない。顔や髪の色だけでなく、コンタクト・レンズで目の色も自在に変えていたようなのです。過去を示す手がかりがまったくないわけで、それが主人公の記憶を探るというこの小説の核を成す魅力になっています。
おまけにこの主人公――のちのち判明する名前はボーンと言います――が、とにかくハイスペック! 格闘は強いし、悪事に通じていて、他人を騙して大金をせしめるのも簡単。自分がどんな人間か、何ができるのかさっぱりわからないのに、なぜかさまざまなことができてしまう。これって怖いですよね〜。理由はわからないのに自然に悪い事ができちゃうというのは、すごく怖いと思います。「なんでこんなことができてしまうんだろう……いったい今までどんなことをして生きてきたんだ!?」とパニックになること間違いなし。それでも、ボーンは過去を探し続けるしかない。そして読者はちょっとずつあきらかになっていく能力や記憶の断片から、彼の正体を推理していきます。そこがとにかくおもしろい!
この「記憶がないんだけど、いろいろなことができる」という設定の説得力がすごいんです。特に好きなのは、ボーンが自分の身体に埋まっていた銀行口座の件を調べるためにチューリヒに行こうとするときに起こす事件です。パスポートを偽造するためにお金が必要になるわけですが、とあるお金持ちの侯爵を脅迫して、莫大な金額を手に入れてしまう。他にも、自分の顔を知っているホテルマンをうまく誘導して名前を聞き出したりする手口がとにかく鮮やか! そういう細かい描写――演技力があり、自分をいつわることに慣れているという人物が説得力を持って描かれています。
そう、この作品ってなんだか演劇的要素が強いなぁと思っていたんですよ。うまく言いにくいんですが、さっき述べたような演技シーンがけっこうあって、そこの描写にリアリティがあるんです。例えば、自分の正体の手がかりがとあるブティックにあるらしい! となったら、そこへ出かけていき、愛人の洋服を見繕うお金持ちのふりをして店員から情報を得たりします。それがかなり自然にできていて、「こういう要素(話し方とか、相手のとの呼吸の合わせ方)をおさえておけば、疑いを持たれない」という描写に説得力があるんですね。なんでかな〜と思っていたら、解説で著者がもともとは演劇畑の人間だったと知って腑に落ちました。俳優、声優、演出家、劇場主の経験があるそうな。そりゃ演技が得意な人間を書くのがうまいわけだわ……。ボーンはまるでカメレオンみたいだ、と作中で言われているんですが、そういうディティールの読みごたえがすばらしかったです。何か設定をつけるからには、やっぱりそれにリアリティがないといかんと思うのですよね。
そう、あとヒロインがよかった! ヒロインのマリーはカナダ人の経済学者。けっこう気の強いキャリアウーマンという感じのひとで、ボーンとは最悪の出会いをはたします。なんと、ボーンはピンチに巻き込まれた際、彼女を人質にとってしまうんですね! が、ボーンがマリーを開放したあとで彼女がピンチに陥った瞬間に、さっそうと駆けつけるのです! そんでもって悪の手から助け出し、お約束どおり愛し合ってしまうふたり! 少女マンガか! 出会いが最悪だったからこそ盛り上がる恋ってやつか! それってどうなのよ! ……私は割とこういうお約束展開に反撥を覚えてしまうタイプなので、最初は盛大にツッコミを入れてしまいました。だってさぁ、いくら命を助けてもらったからって、最初に人質にとられて、殴られたりしてるんですよ? それがなんでなかったことにされているわけ? ってなもんですよ。が、マリーさんがあまりにもボーンを愛しているので、もういいや……という気分に。ボーンでさえ彼女の言っていることが信じられなくて「俺のことは気にしないで、さっさとカナダへ帰ったほうがいいよ」と言っているのに、「帰らないわ! あなたは私の命を救ってくれたのよ!」と、こうですからね(注・引用ではありません)。けっこう長い“いかに私があなたを信頼するようになったか”という説明も披露してくれて、それによって無理矢理納得させられてしまった感じです。この思い込みの強さがヒロイン力というものか……! おまけに彼女がボーンに言う言葉がすごいんですわ。
「あなたはかえる。わたしが王子様にしてあげるわ」(編集部注:下線部は本文テキストでは傍点)
この台詞を読んだ瞬間に、「ボーンよ! お前はこのマリーさんにくっついていればなんとかなる! きっと記憶を取り戻してくれるはずだ!」と思いました。うーむ、強い女性キャラクターは好きなんですが、このマリーさんはなんかちょっと普通とは違っている気がしましたね!
はっ! なんだか冒険小説的なおもしろさをなにひとつ語っていない! でも正直、魅力が多すぎて大変なんですよ! 伝説的な凄腕の暗殺者がボーンを狙っていて次から次へとピンチが訪れるし、彼の正体も二転三転するし、アクションシーンも多くて息もつかせぬ展開って感じだし。とにかく作者の「読者を俺の手のひらで転がして楽しませてやるぜ」的気概を感じる作品でした。こんな感想よりは作品を手にとったほうが手っ取り早く魅力を知ることができると思いますので、未読の方はぜひ。やめられない、とまらない、とにかくサクサク読めるいい本でした!
【北上次郎のひとこと】 |
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この『暗殺者』が面白いからといって、ほかの作品を手に取るとたぶんがっかりするだろう。ラドラムは傑作の少ない作家なので、運良くそういう傑作に当たればいいが、外れを引く可能性のほうが多い。ラドラムの傑作は『暗殺者』以外に、『ホルクロフトの盟約』と『マタレーズ暗殺集団』のみ。この3作は素晴らしいが、あとは残念ながら「張りぼての陰謀話+大ボラ話」に終始している。 |
東京創元社S |
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入社4年目の小柄な編集者。日々ミステリを中心に翻訳書の編集にいそしむ。好きな食べ物は駄菓子のラムネ。2匹のフェレット飼いです。花粉症がつらい今日このごろです。TwitterID:@little_hs |
- 作者: ロバート・ラドラム,山本光伸
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- 作者: ロバート・ラドラム,山本光伸
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- 作者: ロバート・ラドラム,篠原慎
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- 作者: ロバート・ラドラム,篠原慎
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- 作者: ロバートラドラム,篠原慎
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- 作者: ロバート・ラドラム,篠原慎
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- 作者: ロバートラドラム,篠原慎
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- 作者: ロバート・ラドラム,篠原慎
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- 作者: ロバート・ラドラム,篠原慎
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- 作者: ロバート・ラドラム,篠原慎
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- 作者: クリストファーハイド,田中靖
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第十九回『大洞窟』の巻(執筆者・東京創元社S)
みなさんこんにちは。あけましておめでとうございます。2013年も「冒険小説ラムネ」をどうぞよろしくお願いいたします。
- 作者: クリストファーハイド,田中靖
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ユーゴスラヴィアのカルスト台地の地底深く、4万年前にネアンデルタール人が壁画を残した大洞窟がみつかった。世紀の大発見に、国際調査団が勇躍現地に赴くが、ときならぬ大地震で閉じこめられてしまう。漆黒の闇のなかで、土砂流、水没洞、大瀑布、毒虫などと闘いながら続ける地獄めぐり。彼らが再び陽光を見る日はあるのか? (本のあらすじより)
この本の何がすごいかって、そりゃあまず帯ですよ……。水色の帯に黒字で大きく「毒虫、大瀑布、土砂流、水没洞」って書いてあるのです。む、虫かぁ……(ドン引き)。私はお化けとスプラッタと虫が怖いんですよ!! なので正直、この本を読み始めるのにそうとう覚悟が必要でした。でも帯の一番最初に「毒虫」とあるということは、冒険小説ファンの心を躍らせるキャッチコピーなんでしょうね、これ……。そして大瀑布とかよりも虫のほうが優先される、と。一応編集者なものでこういう点が気になってしまいます。でもこういうコピーは書けないなぁ……。
というわけで、いつもより読み始めるのに時間がかかったのですが、いざ読み始めてみたらめっっっちゃ面白かったです!! 人間読まず嫌いはいかんな、としみじみ思いましたよ。
まず設定に惹かれました。地底深くの洞窟というのも珍しいですし、さらにこの洞窟にはネアンデルタール人が描いた壁画があって(世界史で習ったラスコーの壁画などを思い浮かべてくださいまし)、非常に神秘的で美しい空間になっています。しかし、そんな魅力的な洞窟の調査をはじめたところ、大地震で壁が崩れてしまい、閉じこめられてしまうことに!! いいですね〜、こういう閉じこめ設定! 果たして調査のメンバーは無事に地上へ戻れるのか!? という切実さが感じられる冒険です。おまけに地底とはいえ川が流れていたり、滝や崖があったり、バラエティ豊かです。崖を登るシーンなんて、山岳ものか!? というくらい迫力のあるすばらしい描写でした。地下を舞台にしたお話なのに登攀シーンがあるなんてこれいかに。私は鍾乳洞くらいしか入ったことがないので、知らない点ばかりで新鮮でした。洞窟調査って大変なんですね〜。いやま、こんな物語みたいなことはそうそう起きないと思いますが(笑)。
次に、冒険をする13人のメンバーが「国際調査団」であるのもとてもいい設定だと思いました。舞台であるユーゴスラヴィアの地元民はもちろん、アメリカ、イギリス、フランス、そしてなんと日本人までいるのです!! 登場人物表見たときびっくりしましたよ。ふたりの日本人についてはのちのち言及しますが、多国籍なひとびとが集まっているため、とにかくハプニングが起こりやすい、というのが面白いです。また、この作品は主人公をひとりに絞りにくい、いわば群像劇みたいな体裁で書かれているのもとてもいいと思います。視点人物が何人もおり、さらに登場人物ひとりひとりにドラマがあります。彼らがなぜこの洞窟に調査に来たのか、メンバー同士のことをどう思っているのか、そういうものがしっかり書き込まれているので読みごたえがあります。おまけに、誰か主人公かわかりにくいので、逆を言えば「誰が死ぬのか」がわかりにくいんですね〜(にっこり)。過酷な状況で13人全員が生き残れるはずもなく、誰からリタイアしていくのか予測しながら読むわけですが、それがまったくわからないのがとてもいい!! ……なんか私、すっごい酷いこと言っているような気がしますが、あくまでもフィクションですから! 予測不可能な展開ものが大好きなので……。
えーと、そういう性格の悪い読み方をしていた天罰でしょうかね、来ちゃったんですよ……。あのおぞましい、私の大嫌いなあの虫が出てくるシーンが!! 毒虫って、毒虫って、よりにもよってこいつのことかぁーーーー!!! Gよりも苦手なあのMがやって来るなんてな!! そう、あいつですよ! 足がいっぱいある! ぐねぐねしてる!! あのMですよ!! うう、言葉にもしたくない……。私はあいつが大の苦手でして。それなのに! それなのにこの作品であんな、あんな風に出てくるなんて!! い、いやあああああーーーーーー!!!
(しばらくお待ちください)
ふう、お見苦しいことになってしまい失礼しました(?)。あまりにものすごいシーンだったので、しばらくペットのフェレットを抱きしめておりました。フェレットかわいいですよ!! 犬とか猫より飼いやすいですし!!(現実逃避ちゅう)。えーと、でもこのひっどいシーンは3ページくらいだったと思うので(読み返したくない)、Mが苦手な方はすっとばせばOKです。うん、ほんとダイジョーブデスヨ!
著者からすれば、私みたいな読者はありがたいはず! きっとそうだ! このMシーンのほかにもピンチがいくつも訪れるわけですが、そのどれもがすばらしい描写で、とにかくハラハラします。おこがましい言い方をすれば、人物描写も含めて「とにかく巧いなぁ」という印象の作品です。
そう、登場人物もいいんですよ! イケメンのくせにファザーコンプレッスクスをこじらせちゃってる若手考古学者とか、イギリス流の皮肉とブラックユーモア満載の似非っぽいジャーナリストとか、すっごいイヤーな性格だけどプロとしては一流のいけすかないダイヴァーとか。そして、冒頭でも述べたとおり、ふたりの日本人が登場するのです。地質学者でさまざまな洞窟調査の経験もある原田以蔵とその助手の高島健治です。外国の作品に出てくる日本人って正直ちょっとアレなことが多いと思うのですが、彼らはかなり説得力のある日本人として描かれています。特に、原田さんがちょうかっこいい!! 穏やかで思慮深く、洞窟に対する知識も豊富で、とにかく頼りになる! クライミングも得意だし! 絶対絶命の異空間にこういうひとがいて、ほんとよかったよなぁ……(ほろり)。また、彼は洞窟に描かれたネアンデルタール人の絵を初めて見た人間でもあります。それだからか、物語の端々でネアンデルタール人の思考、というか彼らが残した目に見えない「何か」を受け取る触媒の役割りもはたしています。ネアンデルタール人が出てくる過去の映像を夢で見たりすることで、物語に絶妙な神秘さを加味しています。非常に好意的に描かれているので、とても誇りに感じました。
と、いうわけで川下りあり、登攀シーンあり、恐怖のMシーンあり、と次から次へとピンチが襲来する非常に面白い冒険小説でした! 残念ながら中古でしか手に入らないようですが、ぜひぜひ読んでみてください! 一気読み間違いなしの傑作です。
【北上次郎のひとこと】 |
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洞窟の冒険を描いたものは数多い。ハガードの名作『ソロモン王の洞窟』がその代表例だろうが、トレヴェニアン『シブミ』にもその場面が出てくるし、バロウズの地底世界シリーズにもターザンが洞窟に迷い込んで冒険を繰り広げる1篇がある。トム・ソーヤーも洞窟に入り込むし、半村良の『楽園伝説』も洞窟小説だ。ただし、クリストファー・ハイドの本書が異彩を放つのは、日本人がカッコよく描かれることだ。欧米の小説で、日本人がここまでカッコよく描かれるのは初めてではないか。なお、クリストファー・ハイドの邦訳には、他に『アムトラック66列車強奪』がある。 |
東京創元社S |
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入社4年目の小柄な編集者。日々ミステリを中心に翻訳書の編集にいそしむ。好きな食べ物は駄菓子のラムネ。2匹のフェレット飼いです。東東京読書会の世話人になりました。第二回も近々に開催予定ですのでどうぞよろしくです。TwitterID:@little_hs |
- 作者: クリストファーハイド,染田屋茂
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1988/02
- メディア: 文庫
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- 作者: H.R.ハガード,大久保康雄
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1972/08/25
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- 作者: トレヴェニアン,菊池光
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/03/10
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- 作者: トレヴェニアン,Trevanian,菊池光
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/03/01
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- 作者: エドガー・ライス・バロウズ,佐藤高子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1971
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- 作者: マークトウェイン,Mark Twain,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/06/27
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- 作者: 半村良
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1999/02
- メディア: 文庫
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第十八回『樹海戦線』の巻(執筆者・東京創元社S)
みなさんこんにちは。前回の原稿を書き上げたあとに、事務局から嬉しいご連絡をいただきました。過去の記事のバックナンバーのいくつかに、〈通りすがり〉さんというかたがコメントを残してくださったそうです。おお、どんなのかな〜と読んでみたところ、あたたかいコメントばかりで感激しました! 今度から原稿の執筆で困ったら、このコメントを見て元気をもらおう、と思いました。〈通りすがり〉さん、ありがとうございます!
で、今回さっそく困ったわけです。……いや、作品が面白くなかったとか、そういうわけじゃないのです。むしろ、過去の課題作のなかでも「好き度」でいえば、かなり上位にくるのです!! ちょうすばらしい作品だったのです!! しかしまぁ、なぜか感想が書きにくい、という本はあるものでして……。今回はいつもとちょっとちがう「ラムネ」になるかもしれませんが、とにかくあらすじを……。
- 作者: J.C.ポロック,沢川進
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1986/02/01
- メディア: 文庫
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CIA内部に潜むソ連の大物スパイ――その正体を暴く情報を持つために、元グリーンベレー隊員のスレイターは暗殺者に命を狙われ始めた。激闘の末、からくも生き延びたスレイターと戦友のパーキンスは、武器を集めてカナダの森林地帯に入り、敵を迎え撃つ作戦に出る。だが、そこに送り込まれてきたのは、ソ連が誇る特殊部隊の精鋭だった! 大自然を舞台に展開するプロ対プロの激烈な闘い。迫力溢れる冒険アクションの傑作(本のあらすじより)
このあらすじを読んで最初に、「ほほう、今回は冒険アクションか。しかも森林地帯! 最近海洋モノが続いてたから新鮮だなぁ。ド派手な銃撃戦とかあるかも。このスレイターさんというのは男前なお兄さんなんだろうな。映画みたいな感じかしら、わくわく」とニンマリしたわけです。普通、そう思いますよね!? でもでも、実はこの予想はいい意味で完全に裏切られたのです……!! 早川書房のあらすじ職人の掌で踊らされてしまったぜ……!
いや、ハラハラドキドキの戦闘シーンがないわけじゃないのです。むしろ、戦闘に関する描写と、緊迫感を演出する筆力のすごさはお見事、のひと言です。物語の冒頭が、主人公のスレイターが謎の暗殺者に銃撃される、というシーンで、ぐわっと心をつかまれました。手に汗握るリアルな描写で、物語世界に読者を引き込んでいくのです。そしてまた、緩急の付け方がものすごく上手い! ピンチ→なんとかきりぬける&ちょっとひとやすみ→またピンチの連続で、読み手を飽きさせない! 謎や敵の情報を小出しにしていく技術力も高く、とにかく面白く読めました。
ふっふっふ、そしてメインの戦闘がかっこいい! あらすじにも書いてあるとおり、スレイターさんと仲間がたったふたりで、ソ連軍の精鋭を迎え撃つのです! ふたり対十二人の戦いです。少数VS大勢のバトルというのは、やはり燃えますなぁ。この作品も、スレイターさんたちが知識やさまざまな武器を利用して、敵を追い詰めていくシーンがよかったです。まさにプロ対プロの戦いという感じで、すばらしい冒険アクションだと思いました。
しかーし! この作品はただの冒険アクションではないのです。なんというか、ひと言でいうなら、暗い……? 物語の全体的な雰囲気がとにかく重くて暗い。そしてこれは読んでいて嫌になるたぐいの暗さではなく、むしろ我々読者を惹きつける魅力になっています。
まず、冒頭からして暗い。だってもう、たった9ページめで、スレイターさんの愛犬との永遠の別れについて書いてあるんですよ……! 6年間一緒にいた愛犬の死に関する記述を通して、スレイターさんが優しく愛情深いひとであることがわかります。それだけでもこの愛犬喪失エピソードには意味があると思うのですが、作品を読み続けるうちに、もっと重要なものを象徴しているのだとわかりました。それは、この物語が「死」に包まれているということです。
主人公のスレイターというひとは、かつてグリーンベレーに所属し、ヴェトナム戦争で戦いました。叙勲された優秀な兵士でしたが、彼は戦争で多くのものを喪いました。共に戦った親友、仲間、そして美しい妻と、お腹にいた子ども……。特に、奥さんのイレアナさんが亡くなった理由はすさまじくて、読んでいて辛くなりました。こんな思いをして生き残ったスレイターさんは、どんな人物なのか。上で述べたように、戦闘力があるプロフェッショナルで、親友や愛犬や同僚を大事にするいいひとなのですが、それ以上に彼を表現しているこんな文章があります。
かれの一部は、限られた数の親友たちと共にすでに死んでいたのだ――かれは、その何人かが死体運搬用の緑色の袋に入れられ、泥だらけのトラックの荷台に燃料用木材のように積まれるのを見まもったのだった。ほかの何人かは、なんの成果もあげられなかった長距離任務で生命を失い、一万二千マイルもはなれた密林の中の浅い墓に埋められて横たわっているのだ。そして、なんとかして失わずにすんだ気力と感情も、イレアナの死と共にかれから奪い取られ、かれは、ほろ苦い記憶と深い悔恨で谺し、ほんの皮相的にしか物事に関心を持たない、ぬけがらのような存在になってしまったのだ。
そう、スレイターというひとは、「もう死んだ人間」なのです。体は生きていても、心が死んでいる。そういう人物が冒険小説の主人公だというのは、すごく新鮮でした。彼がこのようなひとだからか、物語全体のトーンが暗く重くなっているのでしょう。「死」というのは嫌なものではありますが、一種の危険な魅力をそなえている場合もあります。スレイターさんもそうで、とても印象的な人物になっています。すでに死んでいるからこそ、戦わずにはいられない。そういう姿に胸を打たれました。また、敵味方含め印象的な脇役が多いのですが、彼らもみな戦争で傷つき、大事なものを喪っているひとばかりです。「死」が彼らにまとわりついている。著者が意図していたかどうかはわかりませんが、冒頭の愛犬喪失エピソードはそれを象徴していたのでしょう。
この作品では、「死」が全体を支配することで、ハラハラする緊迫感あるアクションシーンだけでなく重厚感と読み応えをそなえたものになっているというのが、とてもいいなぁと思いました。たしかに、読んでいて辛くなるような一文もたくさんあります。特に、本文の最後のパラグラフが与えてくれた衝撃は、しばらく忘れることができそうにありません。言葉にするのは難しい、なんともいえない気分を味わいました。電車のなかで読んでいたのではなかったら、「ふおおおおおおお……」と意味不明なおたけび(?)をあげていたかもしれないなぁ、ほんと。
でも、重くて暗くても、このような読んだ人間に「何か」を残していってくれる小説というのが、私はとても好きなのです。ただ面白かった! という作品ももちろん大切なのですが、やっぱり、読書の醍醐味って読んでいて感情を揺さぶられるような思いができる、ってところにあるという気がしています。あと、キャラクターのよさにあんまりふれませんでしたが、人物描写もすばらしいですよ! 味方だけでなく、敵方にもいい感じの人物が多くて、誰もがいろいろな事情を抱えているのね……というような気分になりました。描写に厚みがあるのです。
ふう、というわけで、「とっても面白かったけど感想は書きにくかった」お話でした。こう、なぜ面白いのかはわかるんだけど、文章にしにくい! 上手く伝わっているといいのですが……。まぁ、『樹海戦線』は、この連載の課題本としては珍しく「在庫あり」ですので、気になったかたはぜひぜひお買い求めいただいて読んでくださいまし。ほかのひとの感想が気になる作品でもありますので。あっ、特に犬好きのひとはぜひ! いい犬がいますよ〜。
【北上次郎のひとこと】 |
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ベトナム戦争を素材にした小説は、マレル『一人だけの軍隊』を始めとして数多いが、この『樹海戦線』もそうした一冊。とはいっても、ベトナムにとらわれているアメリカ兵を救出しにいく『ミッションMIA』(これもポロックの作品だ)のような無邪気なヒーロー小説とは違って、こちらは個の戦いに焦点をあわした傑作だ。つまり、この『樹海戦線』が面白かったからといって、他の作品に手をのばすと必ずしも面白いわけではないことがあるので要注意。 |
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入社4年目の小柄な編集者。日々ミステリを中心に翻訳書の編集にいそしむ。好きな食べ物は駄菓子のラムネ。2匹のフェレット飼いです。東東京読書会の世話人になりました。第一回読書会も無事終了。ありがとうございました。TwitterID:@little_hs |
- 作者: J.C.ポロック,伏見威蕃
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1987/03
- メディア: 文庫
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- 作者: J.C.ポロック,J.C. Pollock,広瀬順弘
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2002/06/01
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- 作者: J.C.ポロック,J.C. Pollock,中原裕子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1999/04
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- 作者: デイヴィッド・マレル,沢川進
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1982/11/25
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第十七回『殺意の海へ』の巻(執筆者・東京創元社S)
第十七回『殺意の海へ』の巻
みなさんこんにちは。前回の『踊らされた男たち』では、あまりにテンションが高かったからか、なんと10人以上の方がamazonの中古本をポチってくださったようです! いやぁ、驚きました。ありがたいことです。今後とも頑張りますのでよろしくお願いいたします。
さて、今回の課題本はバーナード・コーンウェル『殺意の海へ』です。まずはあらすじを……。
- 作者: バーナードコーンウェル,Bernard Cornwell,泉川紘雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1993/08
- メディア: 文庫
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フォークランド紛争の英雄でヨットマンのニックは、海運王カソーリから恐るべき依頼をもちかけられた。外洋レースに出場するニュースキャスター、バニスターの艇に乗り、彼を誤った海域に導けというのだ。バニスターはカソーリの娘を殺害したと噂されており、洋上で何かが起きることは間違いない。依頼を断ったニックは、陰謀を阻止すべく愛艇で激浪の海域に急行する! 英国冒険小説の新旗手が放つ傑作冒険サスペンス(本のあらすじより)
この作品を読んでまず面白いなと思ったのが、実は物語の展開やキャラクターではなく、訳語なんです。本書を訳された泉川紘雄先生は、ヨットのことを「船」ではなく「ふね」とひらがなを使って表現しているのです。これがすごくいいなと思いました。船乗りはよく自分の愛艇のことを女性にたとえたりしますよね。あと、女性の名前を船名にしたり。この作品では、「ふね」とひらがなを使うことで女性的なやさしさがあらわれ、主人公のニックがどれほどヨットを愛しているかがより深く伝わってきました。とにかく海が好きで、ヨットで海に出ているのが何よりも楽しい。いや、海でなくては生きられない。ニックは根っからの海の男なのですが、そういうキャラクター性がダイレクトに感じられる名訳だと思います。
いやもう、ニックさんの海好きというかヨット好きはものすごいですよ。彼はフォークランド紛争で負傷して、一時は全く歩けなくなると言われたんです。でもそれを、ヨットで海に出たいがために猛烈なリハビリをして克服してしまうんです。ううむ、すごい。そして後遺症は残っていても、普通に生活できるようになるんですが、それからもとにかくふねのことしか考えていない。ふね命。いやぁ、そういう何かひとつのものに拘泥してしまう人間って、きらいじゃないぜ。でもね、ひとつだけ言わせてください……そんなんだからあなた、奥さんに逃げられたのよ……。
でもって、いざ自分の愛しいふね〈シコクラス〉に乗ろうと思ったら……それがなぜか壊れてしまっていたのです! そしてそれが有名ニュースキャスターのバニスターの仕業であるとわかり、ニックさんは陰謀に巻き込まれてしまいます。
この陰謀というか、物語の中心にある謎が物語を牽引し、最後までぐいぐい読ませていくところもいいですね〜。バニスターには海の事故で亡くなった奥さんがいました。彼女、ナデジャのお父さんのカソーリは、〈海運王〉とまで呼ばれるアメリカを代表する実業家です。カソーリはバニスターが事故に見せかけてナデジャを殺したと思っていて、バニスターへの復讐をニックに依頼します。ニックは断るわけですが、「本当にバニスターはナデジャを殺したのか?」という謎が物語の展開を面白くしています。
おまけにこのカソーリが怖くって。彼はニックが依頼を断ると、「じゃあうちの会社イギリスとは取り引きやめちゃうもんね(大意)」と彼を脅しにかかります。カソーリはイギリスの政治や経済までも揺るがすことができるものすっごい権力者なのです。こんな人物に目をつけられてしまう、というのが物語に緊迫感を生み出しています。いやぁ、あらすじからはこんな人物だとは思わなかったよ、カソーリ……。
「本当にバニスターはナデジャを殺したのか?」という謎、そしてカソーリの脅しの結果など、もろもろの決着はもちろん海の上でつけられます!! 荒れ狂う海の描写が圧巻。本の最初に海図があるのですが、アイルランドの沖から大西洋を越えてカナダまで行くような航海なんですよ。いやはや、ヨットマンの根性と体力はすごいなぁ。ナデジャに関する意外な事実も明らかになったりして、すばらしい結末でした。やっぱりクライマックスが盛り上がる作品はいい!
とまぁ、物語の大筋も面白いですし、キャラクターもいいのです! ニックさんはちょっとへたれな英国冒険小説の主人公って感じです。私にも最近なんとなくわかってきたのですが、英国冒険小説の主人公ってなんだか「一癖ある」というか、「不器用で皮肉屋」な感じのひとが多いですね。何か言われると必ず何か言い返す、という。負けず嫌いなところもあるかな……。でもそういうひとって、やっぱり魅力的ですよね。ニックさんは猫好きなところも好感度高し。
そして脇役もいいんですよ! 特にニックのお父さんが!! ほんの15ページだけの登場シーンなのですが、ものすごく印象的でした。お父さんは開放型刑務所にいるんですが、健康的で、なんだかとっても幸せそう。おまけに言うことがかっこいい。ニックに恋愛のアドヴァイスをするとき、こんなことを言っちゃうんだぜ。
「わしならパリ中のランを買い占めることから始める。それに一番高価な香水もたっぷりかけて、彼女の足元に置く。美しい女はみんな同じだ、ニック。彼女たちは奪われるためにいるんだ。だから奪え」
いやぁ、現代ではなかなかいないですよねこういうひと。でもね、お父さん、ひとつだけ言わせてください……そんなことができてたら、息子さんは奥さんに逃げられてないですよ……。
このニックがお父さんにビクトリア勲章を預けに行くシーンは作中屈指の名場面ですので、みなさんぜひ味わってみてくださいね。あと、エピローグも印象的でした。たった3ページの短いエピローグですが、この作品のいいところがぎゅむっと詰まっています。海、いいなぁ。解説で北上次郎先生が「コーンウェルの海洋冒険小説は、人間の善意を信じる心と世界の果てまで行きたいという放浪の調べ、この二つの核にこだわることで成り立っている」と書かれていますが、これ以上にこの作品をうまく言い表すことはできそうにないです。すばらしい作品ですので、どうぞ読んでみてください!
【北上次郎のひとこと】 |
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おやおや。『殺意の海』の文庫解説を私が書いていたとは知らなかった。「コーンウェルの海洋冒険小説は、人間の善意を信じる心と世界の果てまで行きたいという放浪の調べ、この二つの核にこだわることで成り立っている」とは、なるほどね。自分の書いたことに感心するとはばかみたいだが、ホントにその通りだ。もう一つ、付け加えておくと、もともと冒険小説とはそうものであったのである。そういうわけで、コーンウェルの海洋冒険小説には、冒険小説の原風景があるとも言えそうだ。 |
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入社4年目の小柄な編集者。日々ミステリを中心に翻訳書の編集にいそしむ。好きな食べ物は駄菓子のラムネ。2匹のフェレット飼いです。編集者イチオシの作品を集めた特設ページ「翻訳ミステリ13の扉」をよろしくお願いします!TwitterID: @little_hs |
第十六回『踊らされた男たち』の巻(執筆者・東京創元社S)
第十六回『踊らされた男たち――大統領候補の系図を追え』の巻
みなさんこんにちは。毎度おなじみ「冒険小説ラムネ」のお時間がやってまいりました。今回は課題作がものすごくものすごく私好みで、しょっぱなからテンションMAXです。正直、今まで読んできた課題作のなかで一番好きー! な作品です。ということはつまり、筆が走りすぎてしまうかもしれません。私の個人的な趣味嗜好(つまり萌え)まで暴露してしまうかも……。そんなもん読みたくないよ! と思われるかもしれませんが、まぁ暇つぶしにでもなれば幸いです(萌えを暴露するのはいつものことですしね!)。
- 作者: ダンカンカイル,東江一紀
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1988/02
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さてさてまずは課題作、ダンカン・カイル『踊らされた男たち――大統領候補の系図を追え』のあらすじをご紹介します。
大統領候補の系図は呪われている!? ――潔癖なイメージを売り物にする民主党時期大統領候補・ライデンの家系調査を依頼されたトッドは、図らずもライデンの祖父の忌まわしい過去を知るが、事実の公表を恐れた選挙参謀は彼を追う。調査を続けるトッドはさらに深刻な事実を突きとめ、恋人のロビンと共に候補者に会おうとするが……。大統領選挙の舞台裏に展開する異色の冒険小説。
この作品の大きな特徴は、「冒険小説でありながらアクション中心ではない」というところでしょう。前回のウィルバー・スミス『虎の眼』とは正反対ですね。派手な銃撃戦などはないですし、主人公が常にピンチに追い込まれるわけでもありません。そもそも、主人公のトッドさんは系図調査員です。ということは、お仕事のメインは家系の調査。公文書館や登記所などに行って、ひたすらある人物の経歴を調べまくるのです。裁判所の記録を読んだり、船の乗客名簿をみたり……。そのような描写がずーっと続くわけです。はぁ、至福……。といいますのも、私はなぜか「誰かがひとりでこつこつ調べものをする」という設定に弱いのです。学者風のイケメン(眼鏡必須)が図書館とかで穏やかに古い本のページをめくっていたりするシーンがあると、とてもしあわせ。いいですよね〜。「調べもの男子」という新しい萌え要素を提唱したいところです。同士求む!
しかしまぁ、そんな地味な話、本当に面白いの? という疑問は当然あるでしょう。いや、これが地味じゃないんです!! とにかく面白い! いろいろな人物の策略がからみあってるのです! おまけに舞台はアメリカ大統領選挙! いやー、大統領選挙ってとにかく盛り上がりますからねぇ。そこでどれだけの人間が策略をめぐらしているかを考えるだけでいくらでも物語が生まれそうです。
今回大統領選挙に出馬したライデンさんは、清廉潔白な人物であるというのを売りものにしています。アイルランド系の白人、スポーツ万能のハンサム、若くて有能で、勇敢な上院議員。子猫を助けるために40メートル以上もある木に登ったという心あたたまるエピソードつき。そんな人物のまっしろい経歴には、シミひとつたりともつけてはいけないわけです。そう考えた選挙参謀のジー(ゼルダ)・クィストは、ライデンのおじいさんの調査をハミルトンという青年に依頼します。ライデンのおじいさん、ジョーゼフ・パトリック・コナーはアイルランド人。英国陸軍の軍人でしたが、1900年ごろにアメリカにわたってきて、ライデン家の馬車に路上でひき殺されたという人物です。いやな死にざまだなぁ。彼の妻はそのとき妊娠中で、出産の直後に死亡しました。その赤ん坊がライデン家の養子になったというわけです。事故の責任を取ったんですね。
このコナーおじいさんがどういう人物だったかよくわからない。それで念のため系図調査を依頼したのです。ジーから依頼されたハミルトン青年は、お金はあるけど暇がない人物だったので、プロであるトッドを雇います。このジー→ハミルトン→トッドという関係性が、のちのち面白いことになってくるのです。むふふ。しかしまぁ、念のため調べてみたら、コナーおじいさんというのがとんでもない人物だったのです。いやもう、本当に、シミどころじゃないですよ。コナーおじいさんのしでかしたことがバレたら、大統領どころか上院議員としてのキャリアまで崩壊です。そのくらい恐ろしいことが明らかになってしまいます。それが何なのかは、ぜひ読んで確かめてくださいね。びっくりしてください!
トッドの活躍でコナーおじいさんの悪行がわかってしまった! しかもそれは、調べようと思えば誰でもわかるところに記録されていた! マスコミにバレるとまずい。さてどうするか? というところで、きちんと冒険小説らしくなってくるわけです。ここで「ジー→ハミルトン→トッド」の公式を思い出してください! トッドはおおもとの依頼人を知らず、ハミルトン宛に調査結果を送ります。しかしなんと、ハミルトンは陰謀によって亡き者にされていたのです……! ジーは、トッドが誰なのか、本名も居場所もわかりません。それなのにコナーの調査はどんどん進展している!! 選挙参謀ピンチです。おまけに、トッドを探して調査をやめてもらおうとするジーの前に、ウィリアム・クロンビーという人物が立ちはだかります。彼はライデンの異父弟で、ジーとともに選挙参謀をつとめています。そして穏便な方法を取ろうとするジーに苛立ち、トッドに向けて刺客を放ちます。さまざまな人物の思惑がからまりあって、とにかくもう先が読めない展開になるのです。そしてトッドも暴力ざたに巻き込まれることになります。アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダをめぐる、スペクタクル・ヴァイオレンス!!(私は何を言っているんだろう)
ふう、ここまで書くだけでだいぶ疲れてしまったぜ。大統領選の描写も、ものすごくリアリティがあって面白いです。例えば……。ライデンは生放送中にアメリカの極東政策について熱弁をふるい、腕を大きく振り上げた瞬間に水の入ったコップを倒して、同席していた映画女優のドレスを濡らしてしまったのです! そこでライデンの陣営は大騒ぎ、というシーンがあって驚きました。大統領選挙にはイメージ戦略みたいなものがものすごく大事なんだなぁ、と感心することしきりです。おまけにですね、最後まで読んで、このシーンが大どんでん返しの伏線だったと気づきました。いやもう、これ計算して書いてたんだ!!! と思って、ダンカン・カイルさんの手腕のすごさに震えましたよ。この結末はまったく予想していなかった! ミステリ的に、ものすごくよくできていると思います。
あとは、キャラクターの良さにも触れずにはいられません。主人公のトッドくんも学者風のイケメンで好感がもてるんですが、この作品は何より女性がいい!! 選挙参謀のジーも、有能な女性弁護士ですし、トッドに味方するオーストラリアのロビンさんも美人で活動的ですばらしく魅力的な人物です。こういう人たち好きだなーと、のほほんとした気持ちで読めるところもいいですね。強い女性たちが好きな方はぜひお手に取ってみてください! ……こういうあっさりした感想にとどめておかないと、ひたすらキャラクターの良さを語ってしまいそうです(笑)。
というわけで、まだまだ語りたいことはたくさんあるのですが、このへんでやめておきたいと思います。調査の面白さ、系図にかかわる大どんでん返し、魅力的なキャラクターたち、ユーモアの効いたおしゃれな科白と、すばらしい要素がたっぷり詰まった物語でした! とにかく楽しく読めますので、暴力描写はちょっと……という方にもオススメです。ダンカン・カイル氏の作品は現在はほとんど中古でしか読めない状況のようですが、この作品はいますぐポチって欲しいですね!
あと、物語の面白さとともに、翻訳のすばらしさも触れておきたいです。東江一紀先生の翻訳がぴったりあっていたと思います。そして訳者解説もすばらしかった! 冒頭の一文が……
待てばカイルの日和あり。
これが日本語力っていうものなの……? という気がしました。ハイ。若干遠い眼になってしまいましたが、とにかく面白い作品ですので、未読の方はぜひ!
【北上次郎のひとこと】 |
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ダンカン・カイルはイギリスの冒険小説作家で、1970年の『氷原の檻』でデビュー。当初は大空や海の冒険を描いて手堅く読ませたが、逆にいえば、オーソドックスであり、日本でブレイクしなかったのもやむを得ない。 カイルが変わるのは1980年代に入ってからで、1983年の異色作『革命の夜に来た男』はそれまでの作風をがらりと変えた傑作だった。本書はその1980年代のカイルの代表作といっていい。 したがって、これが面白かったからといって、1970年代の作品を古本屋で探して読むと、おやおやこんなはずではなかったとなるかもしれないので要注意。 |
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- 作者: ダンカン・カイル,渡辺栄一郎
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1975
- メディア: 文庫
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- 作者: ダンカン・カイル,工藤政司
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1986/01
- メディア: 文庫
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- 作者: ダンカンカイル,Duncan Kyle,東江一紀
- 出版社/メーカー: 原書房
- 発売日: 1996/07
- メディア: 単行本
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- 作者: ダンカンカイル,Duncan Kyle,松本剛史
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1992/04
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