第39回 ひからびた骨に血肉を与える調べ―T・ボウマン『ドライ・ボーンズ』(執筆者・佐竹裕)
音楽好きでなくとも、フィドルという楽器の名前を聴いたことがある方は少なくないと思う。言ってみればヴァイオリンの別称。すぐさま浮かぶイメージというと、ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き(Fiddler on the Roof)』(1964年)や、ユダヤ系俳優トポル主演でのその映画化作品(1971年)だろうか。おもにクラシック音楽に使われる場合にはヴァイオリンと呼ばれることが多いし、カントリーやブルーグラス、フォーク・ミュージックだとフィドルと呼ばれがちだという印象があるけれども、厳密には異なるものなのかもしれない。そもそもフィドルというのは英語で、ヴァイオリンというのはイタリア語からきた言葉だという。そう思うと、カントリー・ミュージックが根づいているアメリカなどでは英語由来のフィドルという呼称が用いられるってのにも、なんとなく納得がいくではないか。
相変わらずの長い前置きだけれど、今回の主役が、じつはこのフィドルなのです。
- 作者: トムボウマン,熊井ひろ美
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2016/04/25
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このフィドルくんがひっそりと(でいながら重要な意味を持って)存在感を主張している作品というのが、2015年アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞最優秀新人賞を受賞したトム・ボウマンのデビュー作『ドライ・ボーンズ(Dry Bones in the Valley)』(2014年)。ペンシルベニア州の田舎町を舞台にしたシリアスな人間ドラマだ。
主人公は、ペンシルベニア州北東部の谷間にあるワイルド・タイム群区で警察官を務めるヘンリー。彼の元幼馴染とも言える町のはぐれ者ダニーが、世捨て人で認知症の老人オーブニーに散弾銃で撃たれたと知って老人の家を訪れると、山中にある若者の死体の件でやってきたのかと逆に問われることに。そこには雪解けで露わとなった遺棄死体があった。片腕が失われていて、検視の結果、フリントロック式のマスケット銃で撃たれたものと判明。殺人事件の重要参考人としてオーブニーは連行されてしまう。一方、事情を聴くためにダニーを探していたヘンリーの助手ジョージがやはり射殺死体となって発見される。
遺棄された死体にまつわる殺人事件を中心に、シェール・ガス利権をめぐる掘削業者の干渉、ドン・ウィンズロウの『ザ・カルテル(The Cartel)』(2015年)よろしくメキシコの麻薬カルテルと覚醒剤密造者との癒着と、この辺境の田舎町が孕んでいるさまざまなトラブルが、ヘンリーの前に立ちふさがる。さらには、古くから町に居ついてきた家族の秘密を守ろうと頑なな住民たちの抵抗もあるなか、ヘンリーはマスケット銃を手掛かりに町に秘められた過去を探りあてようとする。
ヘンリーは過去にとある悲劇を抱えていて、それは後半になるまで小出しにしか語られない。じつはシェール・ガスにかかわる環境問題につながるのだけれど、最愛の妻ポリーを失ったことも、想像はできてもその理由はなかなか読者に知らされないのである。小説の結構のバランスが悪いと言われても仕方ないくらいなのだけれど、その間じっくりと語られていくワイルド・タイム群区の人間関係のエピソードは多分にスリリングだ。
解説の霜月蒼氏が指摘されているように、『沈黙の森(Open Season)』(2001年)で初登場した猟区管理官ジョー・ピケットのシリーズでおなじみのC・J・ボックスの一連の作品などと同様に、本作は〈田舎ノワール(Country Noir)〉(Rural Noirとも言う)の位置づけになるのだろう(ダニエル・ウッドレル、トム・フランクリンといった作家の作品なども)。ただし、『ドライ・ボーンズ』が評価されたのには、それだけでない大きな背景があるように思える。それは、アイルランド系アメリカ人という人種にかかわるもの。霜月氏も、ヘンリーが直面するのは“前近代的な「アメリカ」のありよう”であり、そこには“最初期の移民にまでさかのぼる白人の歴史がある”と指摘されている。
周知のとおり、アイルランド人は18世紀から19世紀にかけて、イギリス国教会からの宗教的虐待やジャガイモ飢饉など、迫害と貧困から逃れて新天地を求めてカナダやアメリカへと渡っていった。とはいえ、その大半が根付いていったのは、辺境の地であるペンシルベニア、ヴァージニアといった州であり、そこでもまだ初期のアイルランド移民は、アメリカ人のうち圧倒的多数であったイギリス系民族からの差別、プロテスタントからの宗教的弾圧等を一身にうけるという憂き目にあってきたのである。
『ドライ・ボーンズ』で描かれる主人公・ヘンリーにかかわる物語は、まさにそのような土地に住みつづけ大半を占めるアイルランド系アメリカ人の物語。差別的問題も解消されず、アイルランド系は警察官や軍人など、危険に直面する職業にばかり就かせられていたという、かくのごとき歴史的背景が登場人物たちに重くのしかかっている空気感が、行間からひしひしと伝わってくるのだ。
唐突にフィドルが主役だと述べたのは、じつは、そんなアイルランド移民の町の物語を象徴するひとつの道具として登場するからなのである。じつは、主人公のヘンリーはフィドル奏者でもある。フィドルはアイルランド民謡には欠かせない楽器のひとつ(アイルランド民謡といっても、一般的に知られているとしたら古典民謡に現代風なアプローチを試みてグラミー賞まで受賞しているチーフタンズくらいかもしれないけれど)。移民とともにアメリカ大陸へと流れ着いたアイルランド音楽は、古典民謡から派生したフォーク・ソングの要素をアメリカ音楽に注ぎ込んだわけである。それはアメリカならではのバンジョーといった楽器と出会い、カントリー・ミュージックやブルーグラスの源泉をつくりあげる。主人公の奏でるフィドルは、歴史背景をも含めたそんな人種的なバックグラウンドを象徴する。アイルランド移民であるということ、移民の一族が住み続ける町、それをとりまく生活様式、音楽、人間関係。
当然のことながら、要所要所にフィドルが活躍するような楽曲が実際に登場してくることになる。ヘンリーが最初にフィドルを学んだ年寄りの師匠とのレッスン・シーンでは、「赤毛の少年(Red Haired Boy)」、「エドワード・イン・ザ・トリートップ(Edward in the Treetop)」というアイルランドのフォーク・ソングや、敗戦とともに祖国へ帰るアイルランド人兵士を歌ったカントリー・ソング「ボナパルツ・リトリート(Bonapalts Retreat)」が、課題曲として採りあげられている。少々ぼけてしまっている老人オーブにせがまれてフィドルを弾いてみせるシーンでは、「ショウヴ・ザット・ピッグス・フット・ファーザー・イン・ザ・ファイアー(Shove That Pigs’ Foot a Little Further into the Fire)」、「ビリー・イン・ザ・ロウグラウンド(Billy in the Lowground)」を。そのヘンリーの演奏に刺激されて老人もまたぼそぼそと、「ザ・スティル・ハンター(The Still Hunter)」という曲を弾いてみせる。これは作中のヘンリーやリズ同様に聞いたこともなく、調べがつかなかったのだけど。ちなみに「ショウヴ・ザット〜」は、アカデミー賞をにぎわせた映画「コールド マウンテン(Cold Mountain)」(2003年)の中で「Ruby With The Eyes That Sparkle」と改題され、フィドル奏者スチュアート・ダンカンとダーク・パウエルの二人による演奏が使われていたので、聴きおぼえのある方もいるかもしれない。
ダンス・ミュージックを奏でるには、フィドルとバンジョーさえあればいい――命の恩人であるエド&リズ夫妻とときおりおこなう練習も、ヘンリーにとって大切なひとときだ。診療所を営んでいるリズはバンジョー奏者で、ほぼ親指と人差し指で引くクローハンマー奏法に秀でたプレイヤーだという。そして、いまは亡き最愛の妻ポリーとの出会いを回想するシーンも胸を打つ。アイルランド民謡で使われる代表的な打楽器バウロンを叩いている女性に、そっと近づきフィドルの演奏を重ねるというものだ。
ついでながら、ヘンリーとときに敵対し、ときに哀しみを共有する保安官ダリーもまたトロンボーンを吹くという噂があり、殺された助手ジョージと関係があったと思われる大柄な女性トレイシーは1960年代のフォーク歌手のように美しいアルトで歌う。そしてアメリカ南東部によく生息するミルクヘビまでもが、ワルツのリズムで身体をくねらせるのだ。
すでにお気づきのように、この小説の美しい情景を彩るものとして、このようにつねにアイルランドから流れ着いた歴史ある音楽の調べが息づいている。そもそも、小説自体のタイトルに使われた「ドライ・ボーンズ・イン・ザ・ヴァレー(Dry Bones in the Valley)」もまた、よく知られたトラディショナル・フォーク・ソングのタイトルから取られている。そのまた元となったのが、谷間に満ち溢れるひからびた骨に神が命を吹き込み、血肉や皮膚を与えて生き返らせるという、旧約聖書のエゼキエル書の一部。閉ざされてきた過去の記憶を白日の下に晒そうということの暗喩であるのかもしれない。
アイルランド移民の末裔は、アメリカの総人口の1割以上を占めるという。そしてその背景には逆境から新天地を求めてアメリカやカナダに渡り、そこでもまた不運を背負わされたという苦難の歴史もあった。そう思うと、アイルランド民謡の陽気な旋律は幸福を求めたものであって、それでもそこはかとなく哀愁を感じてしまうのは拭い去れない歴史的悲劇によるものだ、と思うのは少々考えすぎなのだろうか。
余談になるけれど、先ごろ『背信の都(Perfidia)』(2014年)で新たな四部作をスタートさせたノワール界の狂犬ジェイムズ・エルロイ。『ブラック・ダリア(Black Dahlia)』(1987年)に始まる〈LA四部作〉、『アメリカン・タブロイド(American Tabloid)』(1995年)に始まる〈USA三部作〉の全作を通して関わり、エルロイが真の主人公として描く悪徳警官ダドリー・スミスもまたアイルランド人。もちろん、LA四部作の時代の申し子ジョン・F・ケネディの一族もまたアイルランド系アメリカ人だ。そして、いまさらながらではあるけれど、ハードボイルド小説の祖・レイモンド・チャンドラーもしかりである。
◆YouTube音源
●“Dry Bones in the Valley" by Bascom Lamar Lunsford
*本書のタイトルとなったアメリカン・フォークのスタンダード曲。法律家でもあったフォーク・シンガー、バスコム・ラマ―・ランズフォードの歌唱で。
●“The Red Haired Boy” by Bug Tussel Bluegrass Band
*バグ・タッセル・ブルーグラス・バンドなるセントルイスのグループによる、アイリッシュ・トラッド「赤毛の少年」の演奏。
●“The Red Haired Boy” by Ryan Spearman
*ライアン・スピアマンなるアーティストが、同じく「赤毛の少年」をクローハンマー奏法のバンジョーで演奏している。
●“Shove That Pigs' Foot a Little Further into the Fire” by Bruce Molsky with Sharon Shannon & Jim Murray
*NYの人気フィドル/ギター奏者にしてヴォーカリストのブルース・モルスキーに、辣腕のセッション・ギタリスト、ジム・マレイらが加わった「ショウヴ・ザット・ピッグス・フット・ファーザー・イン・ザ・ファイアー」の演奏。
●“Billy in the Lowgrand” by Wayne Henderson, Martha Spencer & Jackson Cunningham
*ヴァージニア州のギタリスト、ウェイン・ヘンダースン、スペンサー・ファミリー・バンドのマーサ・スペンサーに、マンドリン奏者ジャクスン・カニンガムが加わった、2010年のライブより「ビリー・イン・ザ・ロウグラウンド」の演奏。
◆関連CD
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◆関連DVD
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佐竹 裕(さたけ ゆう) |
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1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。 |
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