シャルロッテ・リンク『失踪者』(執筆者・浅井晶子)

 

失踪者〈上〉 (創元推理文庫)

失踪者〈上〉 (創元推理文庫)

失踪者〈下〉 (創元推理文庫)

失踪者〈下〉 (創元推理文庫)

 霧のヒースロー空港で足止めに遭い、親切な弁護士の家に一泊した後、ふっつりと姿を消した幼馴染エレイン。結婚を機に引退した元ジャーナリストのロザンナは、エレイン失踪事件についての記事で仕事に復帰することになる。そもそも、田舎で単調な毎日を送っていたエレインが空港へ向かったのは、ロザンナの結婚式に出席するためだった。なんらかの犯罪に巻き込まれたのか、それとも自分の意志で姿を消したのか。生きているのか、死んでいるのか。エレインの失踪に少なからぬ責任を感じるロザンナは、いつしか仕事を離れて、真相の究明にのめりこんでいく。
 
『失踪者』は、突き詰めて言えば「エレインはどうなったのか」を追究するだけのストーリーだ。奇抜な設定も、巧妙なトリックもない。エキセントリックな名探偵も出てこない。だがこれが、芸のない表現で申し訳ないが、とにかく面白い。登場人物の心理を絶妙に生かしたスリリングな展開に、ページをめくる手が止まらない。さらに、事件を追うなかで、登場人物たちが脇役に至るまで皆それぞれの問題と向き合い、生き方を再考していく過程も魅力的だ。結婚生活に漠然とした不満を抱くロザンナ、四十間近になって定職も家庭も持たずその日暮らしを送るロザンナの兄、事故で重度の障害を負い、妹の失踪で施設に入れられたエレインの兄、エレインに一晩の宿を提供したせいで殺人犯呼ばわりされ、キャリアも家庭も失った弁護士。そしてなにより深く心に刺さるのが、エレインとは誰だったのか、という問いだ――見下され、同情されるばかりで、誰にも真に顧みられることのなかったエレインという女性の人物像が事件の真相に大きく関わっていることに、読者は最後に気づかされることになる。
 
 本書『失踪者』の著者は、シャルロッテ・リンク。この名前を聞いて、日本の読者はなにを思い浮かべるだろう――おそらく、なにも、というのが答えだろう。これまで『姉妹の家』『沈黙の果て』の二作品が日本語に翻訳されたが、残念ながらというべきか、当然ながらというべきか、ドイツ語圏におけるすさまじい売上には遠く及ばなかった。だが本国ドイツでは、シャルロッテ・リンクは超の付くベストセラー作家であり、スティーヴン・キングと対等、もしくはそれ以上のビッグ・ネームなのである。キングを抑えてベストセラーリストの一位を飾ることのできる数少ない(もしかしたら唯一の)ドイツ人ミステリ作家なのだ。以前、『沈黙の果て』のあとがきにも書いたが、リンクの小説の表紙には、タイトルよりも大きく著者の名前が印刷されている。リンクの作品ならとにかくなんでも買う、という読者が多いのだろう。彼女の名前自体がひとつのブランドなのである。
 
 そんな大人気作家シャルロッテ・リンクが2008年に発表したのが『失踪者』。当然のように何か月間もベストセラーリストに載り続けたばかりでなく、その年のペーパーバック小説年間売上一位を記録した。ドイツでの総売上部数は二百万部を超えるという。とはいえ、それもリンクの輝かしい記録の一部に過ぎない。今日にいたるまで、リンクの勢いはまったく衰えず、むしろますます快調にベストセラーを連発している。2015年刊行の『Die Betrogene(欺かれた女)』(未訳)は、小説の枠にとどまらず、あらゆるジャンルを超えて「2015年に最も売れたペーパーバック」となった。
Die Betrogene: Kriminalroman (German Edition)

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 ところが、ここまで知名度と人気があると、逆に堂々と読者宣言しにくいものだろうか、実生活で「私はシャルロッテ・リンクの大ファン」という人には、これまでほとんど会ったことがない。私自身、自分からやりたいと手を挙げたくせに、東京創元社から試読のためにリンクのペーパーバックが七冊どんと送られてきたときには、少しばかりひるんだことを告白せねばならない。なにしろ、どの本も「これぞミステリ」というおどろおどろしいデザインの表紙に、三分の一ほどのスペースを使って Charlotte Link と大書してある(ちなみに『失踪者』のカバーは、暗雲たちこめる海の絵だった)。そして、私が住んでいるのはベルリン――リンクの本が総計二千六百万部も売れている国、誰もがリンクの名前を知る国の首都だ。人目のあるところで本を開けば、シャルロッテ・リンクを読んでいると丸わかりである。単行本ではないので、カバーを外してなんの本だかわからないようにするという手は使えないし、日本と違って表紙にカバーをかけるという文化もない。これは、鞄に本を入れて外出先に持ち歩き、地下鉄の中やカフェなど、どこででも隙あらば取り出して読む、という普段の読書はできないな、と思った。
 
 今思えば、なぜだったのだろう。決していわゆる「娯楽文学」を見下していたわけではない。翻訳者としては主に文芸作品ばかりを手掛けてきたとはいえ、私的な読書ではミステリが大好きだし、「これぞミステリ」的なベタな表紙のペーパーバックだってところかまわず読んでいる。そもそもここベルリンは、人種も文化も嗜好もごた混ぜの、他人がなにをしていようと知ったことではない街だ。それなのに、「シャルロッテ・リンクを読んでいる私」を、地下鉄に乗り合わせただけの見知らぬ人たちにさえ見られたくないという、奇妙な心理状態に陥ったのはなぜだったのか。シャルロッテ・リンクという作家のあまりの知名度ゆえとしか考えられない。誰もが読んでいるベストセラー本を読んでいるのを見られたくない、という妙な見栄と羞恥心だったのだろう。
 もうひとつ、現実的な面でも、リンクの本を持ち運びたくない理由はあった。送られてきた本は、日本のように上下巻に分かれてはいないので、どれも一冊が六百ページ前後と辞書なみに分厚い。すなわち、かさばるうえに重いのだ。分厚い本と水のボトルを入れた鞄を持ったうえに自転車まで肩にかついで悠々と駅の階段を上り下りするたくましいドイツ人男女の真似は到底できない。まだ電子書籍が普及する以前のことだ。リンクは自宅で読んで、外出するときには別の(もっと軽い、そして人に見られても大丈夫な)本を持っていこうと思った。
 
 ところが、自宅でこっそりと読み始めたところ、あまりの面白さに中断するのが辛すぎるではないか。当初こそ、外出のたびにリンクの本を断腸の思いで家に置き、飛ぶように帰宅してまた続きを読む、という生活を続けたが、すぐに我慢ができなくなった。見栄も羞恥心も、面白い本を読み続けたいという欲望の前には無力だ。私はつまらぬ体裁などかなぐり捨て、ひどい肩こり持ちの体に鞭打って、分厚いリンクの本を鞄に入れた。
 
 いったん開き直ると、見えてきたのはリンクの読者層の広さと厚さだった。地下鉄のなかで、おどろおどろしい表紙をなんのためらいもなく見せつけながらリンクの小説をむさぼるように読む男性を、一度ならず見かけた。リンクの本は決して「女子供の読むもの」ではなかったのだ。たまたま向かい側の席に座った年配のご婦人から「その本、面白いわよね」と話しかけられて、危うく結末をばらされそうになったことも、「リンクの本ならあれとこれもいいよ」とお勧めを教えてもらったこともある。どの作品も必ずベストセラーになり、百万部、二百万部を売り上げることも珍しくないリンクの読者がいたるところにいるのは、考えてみれば当然のことだった。
 
 なぜリンクの作品は読者にここまで絶大な支持を受けるのか――リンク人気の理由を、ドイツ人気質やドイツ社会と関連させて考察すれば、興味深い発見がいろいろありそうだ。しかし、リンクの本が読まれるのは、まずなにより面白いからだ。あれやこれやの理屈抜きに、面白い。とにかくまずは、読者を引きつけて離さないスリリングなストーリー展開と、登場人物の心理の妙を、ぜひ日本の皆さまにも楽しんでいただきたい。日本語版は上下巻に分かれているので、持ち運ぶのにも最適。ぜひ外出のお供にどうぞ。
  
浅井晶子(あさい しょうこ)

 近年の訳書にアランゴ『悪徳小説家』、リンク『沈黙の果て』(以上東京創元社)、トロヤノフ『世界収集家』、ポツナンスキ『〈5〉のゲーム』、メルシエリスボンへの夜行列車』(以上早川書房)、ナドルニー『緩慢の発見』、スタニシチ『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』(以上白水社)など。
 ミステリ翻訳者としてはまだ駆け出しの部類。ネタばれせずに作品の魅力を伝えるあとがきを書く難しさを実感中。
 

■担当編集者よりひとこと■

 
「奇抜な設定も、巧妙なトリックもない。エキセントリックな名探偵も出てこない……」と浅井さんが書いていらっしゃいます。「だが……とにかく面白い」とも。
 そのとおりなのです。
 訳者も、編集者もそして、校正者もただただ引き込まれて文字通り最終頁まで連れていかれたのでした。それほどの筆力なのです。まさに「ストーリーテラー」。
 ドイツ語を読めない私がこの作家に注目したのは、フランスのミステリ関係サイトをいくつか眺めていたとき。あちこちで紹介されているのに気がついたからです。しかも、どれも分厚い本なのに、次々に翻訳されて売れている……。
「このシャルロッテ・リンクってナ・ニ・モ・ノ?」というのが始まりでした。
 ただし、フランス人が面白がっているからといって、鵜呑みにするわけにはいかないというのは痛いほど知っています(あまりに痛くて、ついつい、敬遠して見逃し三振の経験も数知れずなのですが)。
 それにしても、これだけ大部なものを疑いの念を抱きつつ、オリジナルでないもので検討する元気も出ずにいましたが、そうだ、これは、ちょうどご縁のできたドイツ在住の浅井さんにご相談してみればいいのだ!と閃き、何冊かお読みいただきました。
 そして2014年に『沈黙の果て』、今月『失踪者』が、ということになったのでした。
 以前オーストリアのミステリ作家アンドレアス・グルーバー氏が来日した折、夫人に「グルーバーさんの作品以外にもミステリをお読みになることはおありですか?」とお訊きすると、即座に「シャルロッテ・リンクです。出れば必ず買うんですよ。大好きなんです」とのお答えでした。
 最初にガチガチの本格謎解きにぶつかってしまって、「うわっ、ミステリってめんどくさーい!」と思ってそのままこのジャンルから遠ざかるってしまう方々もいらっしゃるようです。まずは、ミステリというジャンルに親しんでいただくためには、こういう作品から入られるのもいいのかもしれない……などと考えつつ、百戦錬磨の皆様にも、シャルロッテ・リンクというこの作家の、抗い難く引き込まれる筆力を是非味わっていただきたいと思うのです。
   

東京創元社編集部MI)   

 

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