第24回 天国への鍵をさがして(執筆者・佐竹裕)
今年になってもっともショックだったことのひとつが、英国ミステリー界の女王ルース・レンデルの訃報だ。享年85。もっとも好きな作家の一人だと迷わず断言できる存在だっただけに、残念でならない。
デビュー作『薔薇の殺意(From Doon with Death)』(1964年)からスタートした、ウェクスフォード警部を主人公とするシリーズ作の他に、レンデルはノン・シリーズのサイコ・サスペンスの名作を次々と発表していった。なかでも『ロウフィールド館の惨劇(A Judgement in Stone)』(1976年)は、その衝撃的な冒頭の一文であまりに有名。読み巧者の皆さんには言わずもがな、サイコ・サスペンスの不朽の傑作としてミステリー・ファンにとっては必読書だ。もちろん、英国推理作家協会(CWA)賞の最優秀長篇賞であるゴールド・ダガー受賞作『わが目の悪魔(A Demon in My View)』(1976年)や、次点にあたる同シルバー・ダガー受賞作『身代りの樹(The Tree of Hands)』(1984年)、やはりゴールド・ダガーを射止めた『引き攣る肉(Live Flesh)』(1986年)と、ほかにも数々の傑作をものしている。また、『死との抱擁(A Dark-Adapted Eye)』(1986年)から使い始めたバーバラ・ヴァイン名義では、より文学性の高い重厚な作品を発表。『運命の倒置法(A Fatal Inversion)』(1987年)と『ソロモン王の絨毯(King Solomon’s Carpet)』(1991年)で2度、やはりゴールド・ダガーを受賞している。
また、短篇の名手でもあり、「カーテンが降りて」(同題の短篇集〔1976年〕に収録)と「女ともだち」(同題の短篇集〔1985年〕に収録)でアメリカ探偵作家協会(MWA)エドガー賞短篇賞を受賞。P・D・ジェイムズと並び、名実ともにアガサ・クリスティーの後継者として釤ミステリーの女王釤の名を欲しいままにした作家だった。
とはいえ、このコラムでレンデル作品を取り上げることになるとは思ってもいなかったのも事実だ。代表作である『ロウフィールド館の惨劇』の、その件の「惨劇」のシーンには、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ(Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni)」が印象的に使われていたが、それ以外のレンデルの小説に、はたして印象的な音楽が登場する作品があったかどうか、じつはあまり記憶にないくらいなのだ。
訃報を知ってから、ウェクスフォード警部シリーズを最初から読み返そうと思い、『薔薇の殺意』からはじまり、『死が二人を別つまで(A New Lease of Death)』(1967年)、『運命のチェスボード(Wolf to the Slaughter)』(1967年)、『友は永遠に〔邦題別タイトル『死を望まれた男』〕(The Best Man to Die)』(1969年)、『罪人のおののき(A Guilty Thing Surprised)』(1970年)、『もはや死は存在しない(No More Dying Then)』(1971年)と、ざっと再読を進めている最中なのだけど、どうもわずかにスタンダード・バラードや賛美歌やオペラやクラシックに言及している程度だったように思う。
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物語は、毎度のことながら大勢の登場人物の言動が複雑に絡まりあう重層的なつくり。物語の鍵を握る登場人物だけでも複数いて、ざっくりとストーリーをご紹介するのもなかなかに難しいのだけど、頑張ってみよう。
骨髄移植のドナーとなった若く美しい女性メアリ。無断で骨髄提供の手術を受けた彼女にたいして支配的で感情抑制のきかない恋人アリステアは怒り狂う。そのときの暴力がきっかけとなって彼女は彼と別れようと決意して同居していた部屋を飛び出し、祖母の友人である老夫婦のリージェンツ・パーク近くにある屋敷に留守番役として住み込むことになる。新生活をはじめたメアリは、彼女の骨髄提供のおかげで命を救われたレシピアントの青年レオと出会い、2人は熱烈な恋愛関係に陥っていく。
となると、元恋人のストーキング行為がエスカレートして……というストレートな展開を予想しがちだが、もちろんのこと、いぶし銀レンデルはそれだけで終わらせない。メアリと並行して幾人もの物語がさらにかたられていくのだ。
メアリが預かる留守宅に犬を預かりに毎日訪ねてくる老人ビーンは、富裕層の飼い犬の散歩を請け負って生計を立てているが、傲慢な老富豪や変態趣味の主人などに仕えてきた元執事。ホームレスである自分にまで挨拶をするメアリを気にかける紳士的な路上生活者ローマンは、妻子を事故で失ったショックからあえてホームレスに身をやつしていた。他にも、レオの兄カールから暴力行為を請け負っている薬中のホブ、天国の門をあけられる鍵を探し求めて何百本という鍵を全身にぶら下げているホームレスのファラオなど、それはそれは階層の全く異なる個性的な人間たちのエピソードのオンパレード。一方、リージェンツ・パークでは「串刺し公」と呼ばれる殺人鬼がホームレスばかりを狙い、その遺体をパークのゲートのスパイクに突き刺すという残忍な行為を繰り返していた――。
そしてそして、各人のエピソードに引き込まれて物語の世界にのめりこんでいる読者を、思いもよらない結末が待ち受けているのである。いやあ、けだし傑作だと思います。
おっと、忘れてはいけないのだった。音楽、音楽。
殺人鬼の影に怯えながらも、陰ながらメアリの身を守ることを誓うホームレス紳士・ローマンは、彼女と出会ったことがきっかけとなったのか、路上生活とおさらばすることを決意する。そんなときふと運河にかかった橋のひとつを見かけて、橋の下に王国を築くといった内容のマール・ハガードが作ったカントリー・ソングの歌詞を思い出すのだ。曲名は「橋の下(Under the Bridge)」。路上生活者がねぐらにしやすい場所。
“ミシガン州サギノウでの鉄道の仕事を失って20年/いまや住む場所さえなく空っぽの夢と空っぽの胃袋をかかえてるだけ/でも自分はこの橋の下の王国で暮らしているんだと信じてる/きみと2人で/思い込み次第で自分は王様になれるし、ここは我が王国になるんだ”という、まさに、わずかな希望にすがるホームレスの哀切な姿をじつにリアルに謳った歌である。でも、え、カントリー? 英国人らしいミステリー作品を書くレンデルが、米国のカントリー音楽を、それもアウトロー派のマール・ハガードを取り上げたことに少々意外さを感じたのだった。
少々解説させていただくと、カントリー・ミュージックの世界では、1970年代に「アウトロー・ムーヴメント」なる運動を繰り広げるアーティストたちが存在した。テネシー州ナッシュビルを中心に、商業的成功を第一に考えてポップでスウィートな音作りが主流となっていたカントリー音楽の流れに対抗して、レコード会社の意向に逆らって刑務所で録音したライヴ盤を発表したりしたジョニー・キャッシュのあとに続き、長髪にカウボーイ・ハットといったいでたちのミュージシャンたちが、現行のカントリー音楽界に反旗をひるがえし骨太のアメリカを蘇らせる新たな潮流をつくりだしていった。そもそもがハンク・ウィリアムズをはじめ、アル中、刑務所上がり、元犯罪者といったアウトローの多かったカントリー・ミュージシャン。その経験が歌詞の世界に活かされていることも多かった。ウェイロン・ジェニングスやウィリー・ネルソンらが代表格だが、ここに登場するマール・ハガードもまた、典型的なアウトロー派とされている。それは音楽的なもののみならず、彼の過去の経歴も大きく影響していたようだ。
青年時代のハガードは、音楽にのめり込んでいく一方で、少年院やら刑務所を何度も行き来する無法者だったという。なにしろ、前述のジョニー・キャッシュの演奏をはじめて見たのが、強盗を働いて収監されていたサン・クェンティン刑務所だというのだから。やがてまっとうな生活に戻った彼は、酒場などで働きながら、刑務所での自身の経験や監獄仲間の語った家族の物語などを歌詞にして歌い始めたのだ。
この『街への鍵』で階級差も描きつつ英国の抱えた問題点をまた浮き彫りにしたレンデルだが、ハガードのこの歌に、今回選んだテーマが包括されていることを瞬時に見てとったのではないだろうか。作品の原題にある“street”には“街”だけでなく“(刑務所にたいして)シャバ”の意味もあるという。ハガードの半生を思い、路上生活と決別するローマンの心情などを重ね合わせてしまうのは、少々深読みしすぎだろうか。
作中で薬中のホブが何度も口ずさむ歌は、「アイル・ビー・ユア・スウィートハート(I’ll Be Your Sweetheart)」。ミュージカル・ホールの作曲者たちが自作の権利を求めて抗議運動をするという、ヴァル・ゲスト監督による1945年の同タイトルの映画の劇中で、ヒロインのマーガレット・ロックウッドが歌う主題曲。まさに英国の古い映画からのものだし、これまでにもレンデル作品ではクラシックや賛美歌以外あまり印象になかったとはいえ、ホブはカントリーのスタンダード「ナイト・トレイン・トゥ・メンフィス(Night Train to Memphis)」も口ずさんでもいる。たとえば『石の微笑(The Bridesmaid)』(1989年)では、一目惚れした美女が泣き叫ぶのを介抱し眠りにつくのを主人公が待つ場面で階上から聴こえ続けるのは「テネシー・ワルツ(Tennessee Waltz)」だし、じつは、ウェクスフォード警部シリーズ第16作『シミソラ(Simisola)』(1994年)では、殺人の被害者となる女性宅を捜索するウェクスフォードの部下バーデンがCDコレクションを見つけるシーンがあり、その中にはバッハやベートーヴェンの名曲クラシックに加えて、K・D・ラングやパッツィ・クラインの名があったりした。じつはレンデル、カントリー系の音楽も好んで聴いていたのかもしれない。
ファラオには叶わなかった天国への鍵を手に入れたレンデルが、どうか彼女の新たな王国で安らかに眠ることを祈ります。合掌。
余談になるけれど楽しみなのは、この『街への鍵』の映画化作品だ。「メメント」(2000年)や「インターステラー」(2014年)のクリストファー・ノーラン監督が脚本化し、ジェマ・アータートンがヒロインを演じる予定だという。レンデルが発表した翌年にはすでにシナリオ化されていたというが、監督はノーランではなくジュリウス・セヴシック。アータートンはシナリオを一読絶賛し、出演を快諾したという。
レンデル作品の映像化は意外に多く、『ロウフィールド館の惨劇』が「ロウフィールド館の惨劇 パラノイド殺人事件」(オウサマ・ラーウィ監督)として1986年に、フランスの名匠クロード・シャブロル監督脚本により「沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇」として1995年に、『身代りの樹』が「なまいきシャルロット」(1985年)のクロード・ミレール監督により「ベティ・フィッシャー(Betty Fisher et autres histoires)」のタイトルで1989年に、ペトラ・ハフター監督により『わが目の悪魔』が1992年、『引き攣る肉』がペドロ・アルモドバル監督により「ライブ・フレッシュ」として1997年に、『石の微笑』がふたたびクロード・シャブロル監督により2004年に映画化。名作短篇「女ともだち」もまた、「8人の女たち」(2002年)のフランソワ・オゾン監督により「彼は秘密の女ともだち(The New Girlfriend)」として2014年に映画化され、今年公開されたばかりだ。ウェクスフォード警部シリーズも『運命のチェスボード』をはじめ、ジョージ・ベイカー主演で何作もドラマ化されTV公開されている。
◆YouTube音源
“Don Giovanni” Mozart. ópera completa subtitulada Abbado
*モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」。
“Under the Bridge” by Merle Haggard
*マール・ハガードのライヴより「Sometimes I Dream」とメドレーで。
“I’ll Be Your Sweetheart” by Margaret Lockwood
*同タイトルの映画より、主演のマーガレット・ロックウッドの歌。
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佐竹 裕(さたけ ゆう) |
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1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。 直近の文庫解説は『リミックス』藤田宜永(徳間文庫)。 昨年末、千代田区生涯学習教養講座にて小説創作講座の講師を務めました。 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。 |
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