第6回『メグレと深夜の十字路』(執筆者・瀬名秀明)

 


メグレと深夜の十字路 (1980年) (メグレ警視シリーズ)

メグレと深夜の十字路 (1980年) (メグレ警視シリーズ)

La nuit du carrefour, Fayard, 1931[原題:十字路の夜]
『メグレと深夜の十字路』長島良三訳、河出書房新社メグレ警視シリーズ46、1980*
『深夜の十字路』秘田余四郎訳、ハヤカワ・ミステリ119、1953
Tout Simenon T16, 2003 Tout Maigret T1, 2007
映画『十字路の夜(La nuit du carrefour)』ジャン・ルノワール監督、ピエール・ルノワール、ウィンナ・ウィンフリード出演、1932
TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1969(第9話)
TVドラマ『メグレ警視6 メグレと深夜の十字路ブリュノ・クレメール主演、Maigret et la nuit du carrefour, 1992(第6話)
 6作を読み終えて、物語自体と作者シムノンの「呼吸」のテンポがようやくここへきて揃ってきたように思われた。いままでは無理にトリックを入れようとか、無理に読者を惹きつけようとする部分がどうしても見受けられたのだが、本作においてそうした不自然さはいっさい消えて、私は“生きて呼吸しながら読む”時間を体感できた。いままで読んだなかで、私はいちばんこれが好きだ。    4月半ば、パリから南へ30キロほど離れた郊外[註:本文には50キロとあるが、アルパジョンの近くらしいので、このくらいの距離であろう]で奇妙な殺人事件が発生した。《三寡婦の十字路》と呼ばれるいわくつきの辻に住むデンマーク人カール・アナセンのガレージに、ダイヤモンド・ブローカーの死体が入った新車が置かれていたのだ。その車はアナセンの家の向かいに住む、保険代理人エミール・ミショネが購入したばかりのものだった。替わりにアナセンの旧式の車は、ミショネの家に置かれていた。早朝、カールは同居する妹とともに死体入りの車を見つけ、恐怖を感じて逃亡を図ったところ取り押さえられ、メグレの尋問を受けたのである。  メグレ警視[やはり原文は commissaire のまま]はいったんカールを釈放し、部下のリュカとともに事件現場へ赴いた。いわくつきの十字路はパリへ往復するトラックが頻繁に通る場所で、ちょうど三角形を成すように、アナセン家とミショネ家、そしてもうひとつ、オスカールという人物が営む自動車修理工場が建っていた。  被害者の妻は夜に到着して遺体確認に立ち会うという。車に乗ってやってきたその女性は、途中十字路で道を尋ね、メグレらの宿泊するホテルまでやってきたのだが、車から降りたとたん、何者かに撃ち殺されてしまった! 真っ暗な夜のなか、銃撃者を必死で探そうとするメグレ。しかし相手は見つからない。手がかりは畑に残された足跡だけだが、十字路に住む全員が怪しくなってくる。  メグレはカール・アナセンと同居しつつも「部屋に閉じ込められている」という、妹のエルザに会いに行くのだが……。    もはやメグレに関する外見描写もほとんど登場しなくなるが、それでも私にはメグレが見えるようになってきた。そしてまだ確信は持てないのだが、これは読者の慣れだけではなく、どこか物語の背景が──これまでメグレ自身が立ってきた各地の景観や歴史そのもの、あるいはそこに暮らす人々が──メグレを次第につくり上げてきたような気もするのである。  メグレはひとつの「キャラクター」からひとりの人間になろうとしている。それはシムノンがそうしようとしているのではなく、自然とそうなりつつあるように思える。その過程が本作にも残って見える。    これまでも一作ごとに大胆に舞台や作品の目標を変えてきたシムノンだが、本作ではパリ郊外という舞台を用意して、近代化する国際社会を背景にしつつ、そこに生きる人々を描こうとする。自動車がたくさん登場するのは新鮮であるし、そこにむかしながらの価値観を引きずっている人々が暮らしているさまも興味深い。本作は前回の『黄色い犬』と同じく本格探偵小説の結構を取っているが、こちらの方がずいぶんとこなれた印象を受ける。それは一瞬にして登場人物の意外性を見せる場面が効果的だからだ。  たとえば次に引用する、メグレが容疑者の妹と二度目に会うシーン。不意に地の文がメグレの内面へと入り込む。このような部分が抜群にいい。  

「この寝室から出ませんでしたか?」
「わたしが?」
 彼女は笑った。底意のない、くすくす笑いだ。これまで以上に彼女は、アメリカ映画人が言うところの、《セックス・アピール》をひけらかしている。
 というのは、女は美しいと、性的魅力がないからである。美しくない女のほうが、欲望を目ざめさせ、センチメンタルな郷愁を抱かせてくれる。
 エルゼはその両方ともそなえていた。彼女は女であると同時に、子供だった。彼女は官能的な雰囲気をただよわせている。しかし、彼女が人を見つめるとき、その少女のような澄んだ瞳におどろかされる。

 
 フィルム・ノワールにおける定番の「運命の女」ファム・ファタール)が、すでに現れているではないか。
 ここから先の具体的な話はもう控えよう。この先、第九章までの展開はほぼパーフェクトに近い。本作は面白いトリックもいくつかあり、本格探偵小説としてもきちんと機能している。だがそれ以上に私は、クライマックス直後の次の描写に感動さえ覚えた。
 

 彼らは庭に集っていた──(中略)なぜ悲劇という気がしないのか、劇的事件だという気さえ湧かないのか、あきらかにすることは難しい。むしろ、道化芝居のような感じがするのである。
 それはきっと、この薄明りの夜明けのせいなのかもしれない。各人が疲れていることも、空腹であることも関係あるかもしれない。

 
 メグレシリーズはここへきて、「キャラクター」小説から人間の小説へと変貌を遂げようとしているのだった。シムノンはまだおそらく迷っている。だが薄明りの夜明けが、シムノンの筆に力を与えたのだ。もはやお仕着せの悲劇も、あからさまな劇的事件も書き込む必要はない。もはや作者はそうしたものを道化芝居だとさえいってのける段階に進んだ。
 薄明りの夜明けが訪れる限り、メグレシリーズは生きてゆくのだと直観できる。このシーンはそうした決定的な、物語と人の間にある永遠の関係について、ある種の真実に触れた瞬間のように私には思えたのだ。
 今後読み進めてゆくにつれて、またメグレは「キャラクター」に戻るときがあるかもしれない。私にはまだわからない。だが何か世界と自分が変わったように思えるのは気のせいだろうか。こうした作品が読めるから、私は本が好きになったのだ。こうした作品にまだ感動できる心がこの内に残っているから、自分は小説を書き続けているのだとわかるのである。

 この後、物語は前回の『黄色い犬』と同じく、関係者を一堂に集めた推理披露で締めくくられる。ダイヤモンド・ブローカーを本当に殺したのは誰か、という謎が追求される。『黄色い犬』と同じ構成なのに、今回はまったく不自然さが感じられない。それは前回にも書いた「名探偵、皆を集めてさてといい」の裏で、すでに大きな意外性と人の哀しみがあることが読者に知らされており、しかも作者シムノンは畳みかけるようにさらなる意外性さえ提出して見せているからだ。
 そしてこれは特筆してよいことだと思うのだが、なんと恐ろしいことに、本作の謎解きで凄まじいのは「誰が犯人であろうともはや関係ない」ということなのである。それなのにサスペンスは薄れないのだ! 
 
 ハヤカワ・ミステリ版(1953)の巻末解説に江戸川乱歩が「シムノン小論」というエッセイを寄せている。乱歩はまず日本と英米におけるシムノン受容の違いを述べ、続いていくつか海外での論評を引いた後、次のように書いた。
 

 シムノンの探偵小説には、謎とその論理的解決という、本来の探偵小説の面白さは甚だ希薄である。日本でも、謎やトリックの好きな読者はシムノンを余り好まないが、英米も同じことで、「シムノンは一篇の探偵小説も書いたことがない」という説をなすものもある。シムノンびいきはこれに対して、古くさいクロスワード・パズル風のものばかりが探偵小説だと信じている頑迷者流はそんなことを云うが、シムノンヴァン・ダイン式の法則は無視しているかも知れないけれども、やはり犯人や動機を伏せておいて、その謎を研究して行くという探偵小説の本道を歩いている。その上、登場人物は将棋の駒でなくて、皆、息の通っている人間であり、雰囲気を、身その境にあるが如くに描くことは彼の最も得意とするところである。探偵小説は彼によって全くその相貌を一変したのだと、大いに弁護する。
 しかしそういう強弁をするよりも、「彼の作風は論理的遊戯の魅力には欠けているけれども、犯罪心理小説としては比類のないものだ。しかも、それに謎の魅力さえ加わっている」と云った方が納得しやすいと思う。私は彼の作品を、ポーの発明した本来の探偵小説としてではなく、謎のある犯罪心理小説として愛するもので、ポー流の小説とシムノン流の小説とは、評価の尺度を異にし、同日に談ずべきものではなく、それぞれ非常に面白いが、両者は全く別種の面白さだと考えている。


 乱歩は以上のようにシムノンを評価するが、しかしやはりここからも窺えるように、本来の探偵小説の枠組みに入るかどうかという基準で最後までシムノンを見ていたのではないか。
 実はここで引用した部分は、フランス・ミステリーに詳しくシムノン作品の翻訳も手がけてきた松村喜雄氏が、『港の酒場で』旺文社文庫、1977)の巻末解説で好意的に紹介している。

 (前略)犯罪の動機といえば、家庭の平和、社会に対する反逆、コンプレックス、社会的地位の挫折、スキャンダルなど数限りなくある。こう書くと賢明な読者は既にお気づきと思うが、松本清張氏の提唱と実践によって日本の推理小説界を風靡している、いわゆる社会派推理小説と類似していることに気がつかれるだろう。
 シムノンの一味違うこの点を、江戸川乱歩が実に巧みに喝破しているので、少し長いが引用してみよう。(後略)


 松村氏は乱歩を敬愛していたので、このように紹介したのだと思う。この解説文は後に江戸川乱歩『海外探偵小説作家と作品1』江戸川乱歩推理文庫45、1988)に収められ、森英俊『世界ミステリ作家事典[ハードボイルド・警察小説・サスペンス篇]』国書刊行会、2003)のシムノンの項目(平岡敦氏執筆)でも好意的に引用された。しかし私には前掲の乱歩の文章が、必ずしもシムノンの本質をとらえているとは感じられないのだ。時代に縛られた表層的なものに思えてしまう。
 その証拠に乱歩は『深夜の十字路』をたいして評価していない。松村氏は引用していないが、当の解説は次のように締めくくられるからである。
 

 ここに訳された「深夜の十字路」は(中略)初期の作品で、シムノンの傑作に属するものかどうか疑問だが、彼の雰囲気描写の妙味はよく分るし、メイグレの平凡なるようでいて特異な性格も充分出ている。だが、これ一冊でシムノンはもう分かったと云わないで、もっと読んでもらいたいと思う。(後略)

 
 松村喜雄氏は、乱歩がシムノンを評価していることは歓迎しつつも、シムノンに対する自分と乱歩の捉え方が異なっていることはわかっていたのではないだろうか。またこのような乱歩流の呪縛から何とかシムノンを解き放とうと、後年翻訳や評論に、またシムノン自身の人生の紹介に熱意を注いできたのが、長島良三氏だったのではないだろうか。
 間違っているかもしれないが、これが現時点における私の見立てだ。
 
    
 
 本作は刊行の翌年に早くも映画化されている。この『十字路の夜』(1932)はシムノンの映画第一作であった。監督のジャン・ルノワール女優ナナ(1926)や大いなる幻影(1937)、『獣人』(1938)などで有名(私はエミール・ゾラにも興味があって、いつかルーゴン・マッカール叢書は全作品読みたいと思っている)。メグレを演じるのは監督の兄ピエール・ルノワール。なお本作の助監督ジャック・ベッケルは後に監督となり、ジャン・ギャバン主演の『現金(げんなま)に手を出すな』(1954)などで名を上げる。
 アメリカでDVD化されているが、私はリージョン1が観られる環境にないので、フランス本国版のVHSで鑑賞した。字幕がなかったのでその分の理解力は差し引いていただきたいが、75分の映画は満足できるものだった。当時日本には入ってこなかったらしく、戦前からのメグレファンにもこの映画のことはあまり知られていなかったようだが、ピエール・ルノワールのメグレはけっこうさまになっている。
 現在この映画は、むしろフィルム・ノワールの嚆矢と位置づけられることが多いのではないか。雨の降る夜の郊外で捜査を続ける刑事たちの姿。犯罪者の暗躍。窓明かりやヘッドライトと闇のコントラスト。室内で若き女性がくゆらす煙草の煙の動き。そして特に目を惹かれたのは、後半刑事たちが悪人の乗った車を追跡し、銃撃戦を繰り広げるシーンだ。夜の道を猛スピードで走り抜ける2台の車。カメラは一貫して後方の刑事たちの目線で撮っており、カーブを何度も曲がりつつ応戦を続ける様子がかなり長い時間にわたってワンショットで描かれる。発砲音とエンジン音だけが夜の寂しい郊外に響く。この場面はシムノンの原作にはない。ノワールに詳しい方ならこのシーンだけでかなりのことが語れることと思う。
 だが私がいちばん関心を持ったのは、その後のジャン・リシャール版、ブリュノ・クレメール版のTVドラマも含め、私が原作中でもっとも感動した夜明けの場面が再現されていなかったことなのだ。クレメール版ではかなりかたちを変えて一瞬だけそれに近い場面が登場するものの、物語全体においての意味合いは異なってしまっている。
 つまりシムノンの小説において「キャラクター」が人間になったと私が感じたその瞬間のシーンは、映像では描かれてこなかった、ないし意図的に外されてきたことになる。映像化しにくい、映像にすると文字通りしらけてしまう、ということもあっただろう。だがここが小説と映像の分かれ目だったようにも思えるのだ。
 私はフィルム・ノワールの歴史もろくに知らないし、本作以降のシムノンの作品もまだ知らないからうかつなことはいえないのだが、少なくとも現時点において、ノワールシムノンが小説になろうとしたその薄明りの夜明けを捨てることで始まったのではないか、と感じている。代わりにノワールは延々と一視点で深夜の銃撃戦を写し撮り、メグレの眼前で運命の女にストッキングを履かせることで始まったのだ。
 はたしてシムノンノワールだろうか? という前回の問いの意味はここにある。それでも本作『メグレと深夜の十字路』は傑作であり、また映画版『十字路の夜』も傑作であると、私は思う。
 
 先に私は、松本清張に言及した松村喜雄氏の文章を引いた。松本清張という作家の資質が本当にシムノンと似ているかどうかはわからない。だが、この本の帯に記されていた松本清張氏の一文は素晴らしい。
 

 シムノンはわたしの若いころに感動を与えてくれた一人である。それまで翻訳探偵小説といえばポウかコーナン・ドイルしか知らなかったが、シムノンを読んでこのように極限状況を描いて香気のある作品もあったのかと思った。シムノン作品に漂う虚無的で抒情的な雰囲気は、その繊細な知性の上に夜霧のように立ち昇っている。

 
少しネタバレの追記【以下、文字反転】格調高い松本清張氏の推薦文の後にこんなことを書くのはどうかと自分でもわかっているが、私が観た映画『十字路の夜』のVHS版は画面の下の方が切れているらしく──それとも私の機器設定の問題なのか──一部で有名な(?)、メグレが女優ウィンナ・ウィンフリードの胸元を見るシーンで肝心の胸が画角から外れてしまっているのであった……! ジャン・リシャール版のドラマは胸チラと下着姿が用意されているのだが、ちょっと女優が美人すぎて、『十字路の夜』を観た後だとミスキャストに思えてしまう。上品なブリュノ・クレメール版のドラマではそんなシーンなど望むべくもない……と思っていたところ、まだ製作初期にあたる作品のためか、女優はお尻や黒の下着姿まで見せてかなり頑張ってくれていたのが意外だった。しかしどうもエロさが感じられない。ノワールの立役者は女優ウィンナ・ウィンフリードだったということであろうか……!【文字反転ここまで】
 

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。1995年にパラサイト・イヴ日本ホラー小説大賞、1998年に『BRAIN VALLEY』日本SF大賞をそれぞれ受賞。著書にデカルトの密室』『インフルエンザ21世紀(監修=鈴木康夫)』『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。
 

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