第3回『サン・フォリアン寺院の首吊人』(執筆者・瀬名秀明)

 


Le pendu de Saint-Pholien, Fayard, 1931 [原題:サン・フォリアンの首吊り人]

  • 『サン・フォリアン寺院の首吊人』水谷準訳、角川文庫503-1、1957*
  • Tout Simenon T16, 2003 Tout Maigret T1, 2007
  • TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1981(第48話)
  • 江戸川乱歩『幽鬼の塔』江戸川乱歩推理文庫23、1989
  • TVドラマ『江戸川乱歩シリーズ14 五重塔の美女』天知茂主演、1981

 

 わずかに残ったものといえば、青春のかけらがこの部屋にちらばっているだけです。

 
 おお、これは面白い! この小説がいまふつうに日本の書店で買えないのは大いなる損失ではないか。すぐにでもメグレシリーズ精選集の一冊などとして復刊すべき作品ではなかろうか。今回読んだ水谷準の翻訳文は古風で名調子、とても味わいがあるのだが、こんなにも惹き込まれたのは訳文のためだけではないはずだ。
 
 ある夕方、メグレ警部はドイツ・オランダ国境の停車場待合室で、奇妙な男を観察していた。30代のやつれた男だ。メグレはさらに彼を尾行し、ブレーメンまで行き、ホテルで密かにとなりの部屋を取った。男の名はルイ・ジューネ。
 もともとメグレはベルギー警察の協力要請でフランスを離れていたのだが、とあるカフェでこの男が3万ベルギーフランもの大金をごくふつうの封筒に入れ、パリの自分宛ての住所を書いているのを見かけたのだ。あとをつけてみると、男はその封筒を郵便に出し、旅行鞄を買ったのである。盗賊か、それとも詐欺師だろうか。ふと予感がしてメグレも同じ鞄を買い求め、男を追ってきたというわけだ。そして途中で相手の反応を見るため鞄をすり替えてみたのである。
 メグレはホテルの部屋で、隣室と隔てる扉の鍵穴から、男の様子を窺ってみた。だが男は鞄がすり替わっていることを知るやいなや苦悶の表情を見せ、ポケットから拳銃を出すと銃口をくわえて自殺してしまったのだ! 
 メグレは驚き、うちひしがれたが、男の行動の謎を解くため残された鞄を開けてみた。中身は着古した洋服と汚れたシャツだけだ。しかしメグレは男の死体を型取りした床のチョーク線に衣類を重ねてみた。洋服だけが3周りも大きい。 
 
 この謎めいた冒頭部分だけで心をつかまれ、もう読むのがやめられなくなる。自殺したルイ・ジューネは工場の労働者だったのだが、なぜそんな大金を入手し、また古い衣類を大事に抱えていたのか。調べてみると、彼はランスのベロアールという銀行の副頭取と知り合いだったという。また彼が持っていた大金は、ベロアールからの小切手を換金したものだったのだ。
 メグレがランスに赴くと、そこで待っていたのはベロアールだけでなく、ブレーメンでルイ・ジューネの死体を一度見に来た陽気な実業家ヴァン・ダンム、そしてリエージュに暮らす写真製版屋のロンバールなる男だった。彼らはメグレを歓待してくれたが、ヴァン・ダンムとふたりきりになったとき、メグレは突然彼に襲撃される。ヴァン・ダンムは好人物の仮面をかなぐり捨てたのだ。
 メグレが司法警察に戻ると、客が待っていた。その男は、死んだルイ・ジューネが自分の弟かもしれないという。彼はベロアールらがかつて弟の友人だったことも証言した。いよいよもってあの三人は怪しい。メグレは部下の巡査部長リュカと情報を交換しつつ捜査を深めてゆく。そしてさらなる聞き取りでリエージュに写真製版屋ロンバールを訪ねたとき、メグレが目を瞠ったのは、そこに何十枚もの異様な首吊り人のデッサンが無造作に置かれていたことであった! 
 
 本書は前回紹介した『死んだギャレ氏』とともに、1931年2月に本国で同時発売されたとの説もある、シムノン名義最初期の一作だ。『死んだギャレ氏』はミステリーらしい物理トリックも出てくるものの、地味な作品だったのでなぜ第一作に選ばれたのかふしぎだったのだが、もし本書と同時発売だったということなら大いに納得できる。上で長々とあらすじを書いてしまったが、意外性のある冒頭から次々と事件が展開し、謎が謎を呼んでゆくさまは、これからシリーズを読もうという読者にとってまさにうってつけの一作だからだ。本作とともに『死んだギャレ氏』を読むなら、『ギャレ氏』の抑えた筆致も効果が上がる。
 また本作がいままでより格段に読みやすいのは、途中でメグレが調査書に参考人のリストを書き込んだり、物語の半ばで部下のリュカ刑事宛に事件のあらましをまとめた手紙を書き送ったりするため、読者も自然と物語の流れを再確認できるようになっているからだ。そして容疑者も前半から絞られているので読者も焦点を合わせやすい。舞台も多岐にわたり、また重要なシーンではそれにふさわしい場所がちゃんと選ばれている。
 いままでと同様、いわゆるミステリーとしてのトリックはさほどたいしたことはない。だが犯人や被害者らの忌まわしく哀切な過去が徐々に明かされてゆく後半は実にスリリング。ここへ来て本作は、触れれば肌が傷ついてしまうほど繊細な青春小説となるのである。
 すべてが終わった後、しかしメグレは決して過去を裁かずに去る。もともとこの事件はメグレが鞄をすり替えなければ永久に表面に出なかったはずのものなのだ。よって今回ラストでメグレの心を受け止めるのは、夫人ではなく部下として初の大きな活躍を見せた巡査部長リュカである。彼は事件の真相は何も聞かされないが、それでも上司を受け止めるのだ。
 

「リュカ、一杯やりに行こう」
「どうもあまりパッとしてないじゃありませんか?」
「何をいってる。人生より面白可笑しきはなし、だ、どうだい?」

 
 なんとベタなラストシーンだと思われるかもしれないが、最後まで読むとこれが効くのだ。私は27歳のときこんなラストシーンは絶対に書けなかった。だがシムノンは臆面もなく書いたのだ。それだけですごいことではないだろうか。
 
 ジャン・リシャールのドラマ版は、港町に流れ着いた謎の男が鞄のすり替えに気づいて絶望し、自殺するまでの最初の15分間、ほとんど台詞のないまま進行する(現場のお遊びだろうけれど、途中でメグレが懐からレイモンド・チャンドラーのペーパーバックを取り出し、ページにメモを書き込むのが興味深い)。ドラマとしてはいかにも1980年代の製作らしくこけおどしの部分もあるのだが、特に港町の巨大なコンテナクレーンを背景にメグレが行くシーンを始め、次々と大舞台が登場するのは新鮮で面白い。そして寺院から飛び降りて首吊りをするシーン(!)が実際に出てくるのはすごいと思った。
 
 
 
 ところで冒頭の参考資料欄にも記載したように、本作には江戸川乱歩の翻案作品が存在する。1939-1940年発表の『幽鬼の塔』江戸川乱歩推理文庫)だ。小学生のときに子供向けのリライト作品(ポプラ社)を読んだだけだったが、これを機会に初めてちゃんと読んでみた。
 ストーリー骨格はほとんど同じだが、メグレ警部役は素人探偵の河津三郎という28歳のくせのある青年に変わっている。
 それでこの感想であるが……、乱歩先生には大変申し訳ないのだけれども、とにかくこの素人探偵が読んでいて非常にうざったい。鞄をすり替えたために相手が自殺を遂げてもまったく責任を感じる様子もなく、犯罪好事家として謎に夢中になるばかり。ラストも本家シムノンが描いたような人生の奥深さなど微塵も感じられないのであった。
 巻末の解題で中島河太郎先生が(一度もお目にかかったことはないが)次のように書いておられる。
 

(前略)本篇ではメグレの代りに、素人探偵河津三郎を起用したが、これが乱歩好みの奇人である。
 メグレの沈思重厚な人柄に対して、乱歩の登場させた犯罪探求家はいかにも安っぽい。(中略)
 骨子はシムノンに拠っているものの、乱歩はそれを乱歩的色彩で存分に彩った。原作の重苦しい雰囲気を一変し、きわめてサスペンスに富んだ作品に変貌させた。資質の異なる作家の試みを比べあわせてみるのも一興であろう。

 
 中島先生、なんと的確すぎる、そして大人なご批評を……。
 
 むしろ乱歩なら、往年の「土曜ワイド劇場」枠で放送されたTVドラマ版明智小五郎シリーズ五重塔の美女』の方がはるかによくできている。この脚本家と監督は立派。たとえばこの物語でいちばん不自然な冒頭の鞄のすり替えも、ドラマ版では実に自然な流れで再構成しているほか、原作よりもさらにツイストを効かせて、真犯人が誰なのかラスト近くまでサスペンスを引っ張ることにさえ成功している。思わぬつながりで久しぶりに天知茂明智シリーズをDVDで観て、なんだか嬉しくなってしまったのだった。
 

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。作家。1995年にパラサイト・イヴ日本ホラー小説大賞、1998年に『BRAIN VALLEY』日本SF大賞をそれぞれ受賞。著書にデカルトの密室』『インフルエンザ21世紀(監修=鈴木康夫)』『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。
 

死んだギャレ氏 (1961年) (創元推理文庫)

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デカルトの密室 (新潮文庫)

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