読書弱者の読書日記(執筆者・二宮磬)
4月某日(雨)
このたび拙訳『無罪』(文藝春秋刊)が翻訳ミステリー大賞に選ばれるという栄誉に浴し、4月13日の授賞式後ほどなくして、副賞の図書券が送られてきた。なんと5万円分も! 日ごろ翻訳ミステリー・シンジケートには寄与も貢献もしていない身としては、油揚げをさらったようで、なんだか申しわけない気分。また運営に当たる方々はボランティアとして活動されているというのに、このお金はどこから出てくるのか、と余計な心配までしてしまう。
それはともかく、受賞者はその図書券で求めた本についてエッセイを寄稿することになっているとのことで、これも栄誉にともなう責務と考えたものの、すっかりなまけ癖がついてしまった最近の読書量では5万円を消費するには数年かかってしまいそうだ。
とりあえず最近はなにを読んだろうかと、ここ2年ほどを記憶と書棚を頼りに調べたところ、こんなふうだった。
ロン・マクラーティ『ぼくとペダルとはじまりの旅』、マーティン・ブース『暗闇の蝶』、ポール・オースター『ティンブクトゥ』、『幻影の書』、トム・ロブ・スミス『エージェント6』、アラン・グレン『鷲たちの盟約』、マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険(新訳版)』、ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い(新訳版)』、ジュール・ヴェルヌ『海底二万里(新訳版)』、トマス・ハリス『羊たちの沈黙(新訳版)』、ボストン・テラン『暴力の教義』(以上新潮文庫)、アーサー・コナン・ドイル『バスカーヴィル家の犬(改訳版)』(創元推理文庫)、レイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』(ハヤカワ文庫)、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(草思社文庫)、『ファーブル昆虫記Ⅰ』、イルサ・シグルザルドッティル『魔女遊戯』(以上集英社文庫)、オースティン『高慢と偏見』(光文社古典新訳文庫)、小林信彦『黒澤明という時代』(文藝春秋)、田草川弘『黒澤明vs.ハリウッド』、橋本忍『複眼の映像』(以上文春文庫)、三島由紀夫『春の雪』、『奔馬』(新潮社)、山田風太郎『明治十手架』(角川文庫)、野坂昭如『戦争童話集』(中央公論社)、安岡章太郎『遁走』他(講談社版安岡章太郎全集Ⅱ)、『ソウタと犬と』他(同Ⅴ)、梅崎春生『桜島』、『狂い凧』(講談社版日本文学全集98)、R・カーリントン『失われた動物』(図書出版社)。
この小文の枕に振るつもりで調べた結果、2年がかりでこれだからお恥ずかしい。それでも昔はもっと読んでいたはずだと思い、手許に読書メモが残っている年を調べたところ、80年が43冊、89年が半年間で18冊、90年が49冊、91年が32冊、92年が45冊、93年が27冊。よく読んだと思っていてもこの程度だから、もともと大した読書家ではなかったということ。最近のますますの読書量低下は、主として年のせい、としておこう。
前記のリスト中に新潮文庫がなぜ多いかと言えば、身も蓋もないが、同社が贈ってくださるから。でも、いちおう読んでいます。ほかに訳者から贈っていただいたものが3冊ある。三島の『豊饒の海』全4巻は刊行時に揃えたけれども、第3巻『暁の寺』で挫折したので、暇になった時期に再挑戦してみた(おなじ結果になったのは情けない)。『安岡章太郎全集』も大昔に買ったもので(奥付を見ると昭和46年)、未読のものを探して読んだ。日本文学全集の梅崎春生/椎名麟三の巻(昭和40年刊)は、わたしの父親が買ったものか、わたしが古本屋で求めたもの。『明治十手架』は91年の刊行だが、未読のまま本棚に残っていた。出版者勤めのころ一時期、山田風太郎先生の担当をしていたので(と言っても、ほとんどマージャン要員だったが)、これも先生か版元から送ってもらったものにちがいない。『失われた動物』は78年刊の本。買ったまま塵をかぶっていたが、伝説の海洋生物(大イカ、大タコ、クラーケンなど)について書かれているので、ヴェルヌのあとで、塵をはらって読んだ。野坂さんのものは往時よく読んだが『戦争童話集』はどういうわけか買ったままになっていた。
こうして見ると、リスト中、みずから新たに購入したのは5冊しかない。わたしの読書欲は贈っていただいたものと手許にある未読のものを読んでいれば足りてしまう、ということになる。ますます5万円が重みを増す。
しかし、これを機会に本屋へ足を運ぼうと思ったものの、数年前までは歩いて10分足らずのところに2軒あった本屋がいまはどちらもない。電車で1駅のところに1軒あるが、ここは探す本がみごとにない。たまに覗くたび、からぶりに終わり、文化果つるところ、とつぶやきたくなる。交通弱者という言葉があるが、これは読書弱者か。大型書店は2駅先の市中心部に3軒あるので、そこまで足を伸ばすことになりそうだ。以前は所用で都心へ出たついでに、新宿紀伊国屋や銀座旭屋へ寄ったものだが、最近は出かける用もほとんどない。自分で用をつくって出ればいいのだが、それも面倒ということになりがち。わざわざ人を呼び出すのはおっくうだし、相手も迷惑だろうと遠慮する。昔は友人、知人が会社勤めをしていたので訪ねていけたが、もう彼らも会社にいる年ではないし、それどころか最も親しかった2人はこの世にもいない。年をとるというのは、こういうところにもあらわれてくるのだな、と思う。
図書券が届いて2日ほどたってしまったので、あいにくの雨ながら、気合を入れて、1駅先の本屋へ向かう。ベストセラー、話題作にはあまり手を出さないのだが、この際と思い、またいくら探す本がない店とはいえこれはあるだろうと思い、村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を探すが、ない。こうした本がすぐ目につくところにないのは不思議と思ったら、“『色彩を持たない――』品切れ、予約受付中”のポップが立っていた。ああ、文化果つるところ!
予約しなくてもどこかで買えるだろうと思ってあきらめ、安岡章太郎『流離譚』を探すが、ない。ないどころか、講談社文藝文庫は棚がない。手ぶらで帰るわけにもいかないので、文庫の棚をしばらくながめる。そして選んだ2冊が、斎藤美奈子『本の本』(定価 本体1500円+税)と中野翠『小津ごのみ』(定価 本体760円+税)。いずれもちくま文庫。『本の本』は以前手に取ったことがあるが、あまりの厚さに(800ページ余)棚にもどしてしまったもの。厚いけれども、書評集だからどこから読んでもよさそう。無精者の本読みにはこういう体裁の本が好都合でもある。『小津ごのみ』もおなじ。
帰宅後まず『本の本』を開く。この著者のものはだいぶ前、『文章読本さん江』をおもしろく読んだ。次女に話したところ、『妊娠小説』を持ってるよ、と言うので交換して読み、これもおもしろかった。『妊娠――』は娘に返したが、『文章――』は返ってこないので、版元がわからないが、いまはどちらもちくま文庫にあるようだ。斎藤さんの書評はくさしようと言うか、けなしようと言うか、それがおもしろいので、くさしていそうなのを目次で探し、読み書き入門の項の「読書力 斎藤孝」を一読し、予想どおりのくさしように満足。しばらくあちこち拾い読みしたのち、『小津ごのみ』に移る。
この本は小津安二郎の映画を見ていなければ手に取らなかっただろう。わたしが小津作品を見るようになったのは、生誕百年というふれこみで、NHK−BSが連続放映してくれたおかげだから、ここ10年ほどのことである。映画館で見たことはない。遺作の「秋刀魚の味」が62年だから、わたしは当時17歳。リアルタイムで見るはずがないし(よく見ていたのは日活映画と西部劇だった)、こういう映画を楽しんで見ていたとしたら、かなり気味のわるい少年だったろう。しかし、テレビから録画した主要作品を以後くりかえし見て飽きないし、やはり生誕100年記念出版と帯にある『いま、小津安二郎』(小学館)が、写真主体の造りなので、いまもときどきながめて楽しんでいる。10歳ほど若い知人が最近、小津を見るらしく、50過ぎないと小津のおもしろさはわからない、と言っていたが、そのとおりだと思う。しかし著者の中野さんは(わたしより若いはずだが)「東京物語」を名画座で見ていたというから、映画好きはまたちがうのだろう。あちこち拾い読みしていくと、新発見と同感、共感できるところが各所にある。第一章はファッションとインテリアで、女性の着るものについてはわたしにはよくわからないが、「お茶漬けの味」で女性三人が着る旅館の浴衣は記憶にある。その大胆な柄を“ホルスタイン牛の模様”と形容されてみるとまさしくそのとおり。また、よくタイトルバックで使われている布地をわたしは麻袋かと思っていたが、麻にはちがいないが、ドンゴロスという布だと知った。二章は俳優たちのことになるが、大きなお尻の女の人が“小津好みだ”とある。たしかにわたしも「麦秋」の三宅邦子だったと思うが、茶の間に坐った姿を後ろから撮ったときのお尻の大きさに圧倒されたから、同感。この撮り方でお尻を強調するシーンはほかにもいくつかあると記憶している。共感するのは、「東京物語」の一シーンに性的解釈を持ちこんだ作品評に中野さんが怒っている点。「晩春」のラスト近く、父娘が京都の旅館でおなじ部屋に床をのべるシーンにも、外国人批評家だったか、同様の解釈をしているとなにかで読んだが、どちらも的はずれだと思う。
「東京物語」にはまだまだ思うところがあるが、映画通でもないので、このへんにしておこう。今回買ったのはたったの2冊で、お代は〆て2373円。先は長い。がんばって買わないと(そして読まないと)。
◇二宮 磬(にのみや けい)静岡県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。英米文学翻訳家。主な訳書に、スコット・トゥロー『無罪 INNOCENT』『われらが父たちの掟』『囮弁護士』、グラント・ジャーキンス『いたって明解な殺人』、ロバート・R・マキャモン『少年時代』『魔女は夜ささやく』ほか多数。 |
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