翻訳ミステリー長屋かわら版・第42号

   田口俊

 近所の「松屋」でオリジナル・カレーを食べて店を出ようとしたときのこと。

 片言の日本語で「あしたやりますか?」と呼び止められました。振り向くと、フィリピン人の女性店員(名札が胸についているのだけれど、名前がどうしても覚えられない)が笑顔で私を見ています。え? と思ったけれど、それ以上何か言うふうでもなかったので、いい加減に愛想笑いを返してそのまま店を出ました。

 これが夜中のフィリピン・パブ(懐かしい!)から出るところで、声をかけてきたのが妙齢のフィリピン美人なら、そりゃ、あなた、私だって妄想の権化と化していたでしょうが、なんせ真っ昼間の「松屋」ですからね。加えて、この女性店員、妙齢とは言いがたく、その、なんというか、失礼ながら、妄想とは結びつかないタイプだったんで、とにかく不可解だったわけです。

 でも、この謎はそれからしばらくしてまた行ったときにあっさり解決しました。このフィリピン女性、食べおえて店を出る客全員に一様に同じ声をかけているのです。そう、「ありがとうございました」だったんですよ、これがなんと。

 そうとわかってしまうと、どう聞いても「ありがとうございました」にしか聞こえない。なのになんでそれが「あしたやりますか?」なんて聞こえたのか。わがことながら、空耳にもほどがある!

 まだ耳が遠くなる歳ではないと思いたいけれど、肩が痛くて最近かよいはじめたマッサージ施療院では、「それでは心臓マッサージから始めます」っていきなり言われて、え、おれ、死にそうなの? なんて思ったら、「振動マッサージ」だったりしたし。年々歳々こういうことが増えていくんでしょうか。はい、新米老人のぼやきです……とここまで書いて、同じようなネタで同じような話を書いたことがまえにもあったような、いやあな記憶が……

(たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬とパチンコ)


    横山啓明

実際に体験したことなのか、自分の頭が創りだした幻、
あるいは夢で見たものなのか、分からなくなることって
ありませんか?

実際に体験しなかったことも思い出の裡である。

といったのは寺山修司でした(田園に死す演出ノートより)。

どうしたことか最近よく頭に浮かんでくるのが、
丸い透明の球体が頭上高いところに吊り下げられていて、
そのなかでひとりの男がヴィオラを弾いている、という映像です。
ヴィオラの音は電気的に歪み、頭上、側面からは電子音が
波のように押し寄せ、さらにそこに街で拾ってきた音が、
コラージュのようにちりばめられる。ホルガー・チューカイの
『ラジオ・ウェーヴ・サーファー』をもっと大がかりにしたような音楽。
かなり具体的なイメージなのですが、これ、体験した覚えが
ないんです。不思議です。

(よこやまひろあき:AB型のふたご座。音楽を聴きながらのジョギングが日課。主な訳書:ペレケーノス『夜は終わらない』、ダニング『愛書家の死』ゾウハー『ベルリン・コンスピラシー』アントニィ『ベヴァリー・クラブ』ラフ『バッド・モンキーズ』など。ツイッターアカウント@maddisco


 鈴木恵

 ピカレスク小説の祖とされる『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』岩波文庫)を読んでいたら、「殿様」だの「お侍」だの「チュウ助どん(←鼠のことね)」だの、はては「遅かりし由良之助」なんて訳語まで出てきて、ちょっとびっくり。いささか古い翻訳(昭和16年初訳)だからなのだが、でも、これが少しもおかしくない。いまだに版を重ねているのがその証拠だろう。むしろ読んでいると、物語の内容と相まってむしょうに愉快になってくる。もちろん原作が16世紀の小説だからこういう訳語もありなわけだけど。目くじらたてて排除するのは豊かさを失うことだと思う。
『ラサリーリョ』が面白かったので、つづいてこんどはケベードの『大悪党(パブロスの生涯)』という作品を読みはじめたところ。これまたピカレスクの代表作とされる作品だとか。読みながら思ったのは、拙訳書グローバリズム出づる処の殺人者より』もこれらの作品に、形式といい内容といい、よく似ているということ。読者にはもっぱらインドの現実を描くルポルタージュのように読まれてしまったようだけど、ピカレスクとして読んでもいいのでは。

(すずきめぐみ:文芸翻訳者・馬券研究家。最近の主な訳書:サリス『ドライヴ』 ウェイト『生、なお恐るべし』など。 最近の主な馬券:なし orz。ツイッターアカウント@FukigenM


    白石朗

 旧聞に属しますが、昨年の暮れも押しつまった12月22日は、〈高橋幸宏 60th Anniversary Live〉で個人的にたいへん盛り上がりました。オーチャード・ホール、矢野顕子 with 大村憲司の〈Super Folk Song〉ツアー以来ではないかしら。などという話はともかく、ゆかりの人々が大勢ゲストとして出演、キャリアをふりかえる3時間半におよぶコンサートで胸を熱くしてからかれこれ1カ月、いまも関連音源を仕事のBGMとして祭りはつづいています。幸宏ドラムの音は仕事の友。
 すでにトップページの「翻訳ミステリー・イベント・カレンダー」にも出ていますが、2月16日(土)『第4回翻ミス大賞・候補作トークバトル!』に、田口俊樹、佐々田雅子、上條ひろみ、東野さやか、森嶋マリの各氏ともども出場し、大賞候補作のうち偏愛の一冊について話をする予定です。お時間のある方はぜひ。(大賞最終候補作、ならびに投票要項はこちらです)

しらいしろう:1959年の亥年生まれ。進行する老眼に鞭打って、いまなおワープロソフト「松」で翻訳。最新訳書はグリシャム『自白』、ブラッティ『ディミター』、デミル『獅子の血戦』、ヒル『ホーンズ―角―』、キング『アンダー・ザ・ドーム』など。ツイッターアカウント@R_SRIS


   越前敏弥

 日ごろ、ほとんどの文章を最初から縦書きで入力し、カタカナとの付き合いを避けることのできない立場にある者としては、『abさんご』芥川賞受賞は衝撃的で、あわてて入手しようとしたのだが、重版分が出まわるまでは入手がむずかしく、どうせなら蓮實さんの選評も読みたかったので、掲載されている早稲田文学》5号を購入した。「abさんご」については、まだ数ページ目を通しただけで、これは体調と時間の余裕がじゅうぶんなときに真正面から対峙したいと思ってしばらく保留したのだが、ちょうどその号に載っていた「十二人の優しい翻訳家たち」という座談会がおもしろいのなんの。さまざまな言語の翻訳者・研究者が一堂に会し、世界の小説の現状について語り合うというものだが、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』などの多言語にまたがったテキストの処理をどうするかとか、大阪弁を中国語に訳すとどうなるかとか、世界各国の文学のなかで日本文化がどう咀嚼されているかとか、翻訳者としては全身の隅々まで刺激されっぱなしの内容だった。
 話は変わりますが、おととい翻訳百景のブログに、全翻訳者・学習者必携の書『英和翻訳基本辞典』宮脇孝雄著、研究社)の検索用インデックスをアップしたので、どなたでもご利用ください。著者・版元のご承諾を得ています。

(えちぜんとしや:1961年生。おもな訳書に『解錠師』『夜の真義を』『Yの悲劇』『ダ・ヴィンチ・コード』など。趣味は映画館めぐり、ラーメン屋めぐり、マッサージ屋めぐり、スカートめくり[冗談、冗談]。ツイッターアカウント@t_echizen。公式ブログ「翻訳百景」 )


 加賀山卓朗

 いますぐ読みたい本:64、カラマーゾフの妹、夜よ鼠たちのために、われらが背きし者アウトロー、1922。あと、このところ何か見るたびに眼に飛びこんでくるロベルト・ボラーニョ。まだ1冊も読んだことがないんだけど、なんだかあちらから呼ばれている気がして。
 ……馬のまえにぶら下がった人参です。

(かがやまたくろう:ロバート・B・パーカー、デニス・ルヘイン、ジェイムズ・カルロス・ブレイク、ジョン・ル・カレなどを翻訳。運動は山歩きとテニス)


   上條ひろみ

 新年初長屋です。今年もよろしくお願いします。
 正体をあばかれて逆ギレした犯人が向かってきたとき、素人探偵であるヒロインは、重いフライパンで相手の脳天を直撃したり、揚げ物用の熱い油を浴びせかけたりと、身近なもので応戦しますよね。
 いきなり非日常的な話題ですみません。べつに暴力的な日常を送っているわけではないんですが、実はわたし、つねにこういうシーンに備えているみたいなんです。“みたい”というのは自分でもまったく意識していないからで、調理器具などを購入するときにそれが表れるらしく、かならず「凶器になる」と口に出して確認してから買っている、と毎回家人に指摘されています。
 鋭利な刃物、鉄製のフライパン、鋳物の鍋……鋭利なものや重いものほど調理に適していると思って揃えたものが、実は凶器になるという条件も満たしている……なんてマリス・ドメスティック! コージーミステリ好きのせいでしょうか。いやそうに決まっています。つーかそれしか考えられません。
 先日、両端がすごくとんがった細くて硬いバゲット(でもなかはもちもちしてておいしい)を切ろうとして、あまりにも硬くてとんがっていたので、またもや「凶器になる」とつぶやいていました。さすがに家人もあきれていました。いくらなんでもバゲットは無理だろ。でももし殺害に成功したら、ロアルド・ダールの「おとなしい凶器」的なことも可能! そうか、調理器具以外にもいろいろあるじゃん! (妄想の)凶器探訪 in 台所は奥が深いです。

(かみじょうひろみ:神奈川県生まれ。ジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ・シリーズ〉(ヴィレッジブックス)、カレン・マキナニーの〈朝食のおいしいB&Bシリーズ〉(武田ランダムハウスジャパン)などを翻訳。趣味は読書とお菓子作り)
 
 

これまでの「長屋かわら版」はこちら


田園に死す (ハルキ文庫)

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ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯 (岩波文庫)

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ピカレスク小説名作選 (スペイン中世・黄金世紀文学選集)

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グローバリズム出づる処の殺人者より

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abさんご

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早稲田文学5

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オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

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英和翻訳基本辞典

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64(ロクヨン)

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カラマーゾフの妹

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夜よ鼠たちのために (新潮文庫)

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われらが背きし者

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アウトロー 上 (講談社文庫)

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アウトロー 下 (講談社文庫)

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1922 (文春文庫)

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2666

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あなたに似た人 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 22-1))

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