在外翻訳者の憂鬱(執筆者・栗原百代)
2 モノとしての本(後)からモノ以上としての本へ
どうも。今日も湿気ずぶずぶの香港より、在外翻訳者の栗原百代です。
こちらに来てがっかりしたのは、市街地では業務用を除いて自転車走行が不可なこと。まあ、四輪車はやたら多いし警笛ガンガン鳴らすし、たしかに危なそう。東京にいたとき気分転換にサイクリングしていたぶん、こちらでは歩いてます。
テレビのCM明けみたいですが、前回の続きから。
それでも、新刊本が市場に出まわっている本はまだよいのです。というのも――
国内の翻訳者のみなさんも苦労されるのが、必要な資料が「絶版」や「版元品切・重版未定」状態となり、中古本市場でプレミア価格がついてしまっているケース。
栗原としては、日本に一時帰国して図書館に行けるなんて、いったいいつのことやら。どうせ新刊本の送料で痛んだふところだぁ、矢でも鉄砲でも持ってこい、と意を決するも(基本的に日本円で4桁なら買いますが、5桁となると……そのつど長崎思案橋……)、海外配送をしてくれる古書店のなんと少ないことか。ああ、ここにもまたハードルが。
国外の英書を扱う古書店はもっと普通に海外配送してくれていると思うのですが。気のせい? それとも、これは、英語を読む人なら世界じゅうにいるが、日本語は……ということなのでしょうか?
2010年の外務省の統計によれば、海外在留邦人、つまり外国に住まう日本人の数は、永住者も海外駐在者や留学生も合わせて、114万人を超えています。日本を離れていればこそ、もしかしたら日本にいたとき以上に、日本語書籍への購買意欲が高まることもありそうです。とある日本語の本が読みたくなって、居住地では手に入らず、検索して日本の古書店にたどり着いたはいいが、海外配送不可のために諦めてしまう人、決して少なくないと思うのですが(まあ、先週話題にした新刊本の場合に、海外配送料の高さから諦める人の数と比べたら、かわいいものでしょうけれど)。
この場合、わたしは海外発送(国際配送)代行サービスを使っています。家族や友人に頼むのには限界があるので。かいつまんで言えば、日本の通信販売で購入したものの送り先として、業者の倉庫の住所を、登録した海外在住者に振り当てておき、そこから海外の現住所へ転送するというサービス。
栗原は転送コムのヘビーユーザーです。ネット古書店で買った本をここの栗原専用の住所に送ってもらい、それをEMS(国際スピード郵便、日本→香港はほぼ2営業日で到着)で転送してもらうという手順。そのつど手数料と、さらなる配送料とタイムラグが発生するわけですが、背に腹は代えられません。
転送コムはサービス開始から3年で登録者が10万人を突破したとのこと。そしておお、転送商品ランキングの堂々第2位が書籍・DVDだ。世界でいったいどれくらいの数の在外者たちが、どれくらいの数のモノとしての本を――物理的に動かさないことには読めない紙の本を――届けてもらうために、安くない料金を払っているのでしょう。
こうして考えていくと、やはりアレだわな。ええ、アレです。
Amazon Kindle ではじめて英書を買ったときの感激がよみがえります。Buy ボタンをクリックしてほんの数秒で、ハードカバー数百ページ分の本がひゅんと時空を超え、ほぼ文庫本大のディスプレーを備えた愛機に飛びこんできてくれて、すぐ読める。これはもうモノとしての本が抱える最大の物理的制約から解き放たれた、もうひとつの本のかたち。
で、日本語の本の「電子書籍化」は、いったいどうなってるの?
2007年の初代発売からの北米のKindleブームや、Google書籍検索(全世界の書籍を対象とした電子化。アメリカ出版社協会が起こした著作権侵害訴訟の和解が、ベルヌ条約加盟国の日本にも及び、放っておいたら「無料公開」される?! と大騒ぎになりましたね。その後、対象が限定され、日本の書籍については当面は無問題なのだとか)参入もあって、日本でも2010年は「電子書籍元年」といわれました。
けれども2012年も折り返しに近づいている現在、コミックやアダルトなど特定のジャンルは市場が拡大しつつあるようなのに、一般書籍に関しては、まだまださほど目立った普及への動きは感じられません。
第三世代では日本語表示にも対応したKindle(おかげで、英辞郎MOBI/Kindle対応版という英和辞書を購入・ダウンロードして、カーソル移動で辞書引きしながら英書を読めて、重宝してます)も、来る来るといいながら上陸する気配はまだないですよね。
誤解されたくないので申しますと、栗原はモノとしての紙の本が、とりわけ和書が大好きです。これほど繊細で精緻でデザインが美しく、機能性が高い造本をしている国が日本のほかにあるでしょうか。とくに本文の紙質のよさ、レイアウトの巧みさといったら、他国との差は歴然。軽量でコンパクトでページをめくりやすい、この文庫、新書という規格。
ハードカバーの見返しの紙の選び方にセンスを感じたり、ソフトカバーのジャケットを含めて本が手になじむ感触を楽しんだり。3月刊の共訳書、ピカディ『ココ・シャネル 伝説の軌跡』は、かの不世出のデザイナーに関するCHANEL公認の伝記ですが、当代デザイナーのラガーフェルド直筆の白黒画ジャケット、副題と花ぎれのみ金色、中身はオールカラーという、原書に忠実な造本ながら、その華麗さに嬉し涙があふれました。
そういえば『ヘルプ 心がつなぐストーリー』の原著 The Help のデラックス版が昨年刊行され、「『アラバマ物語』以来の重要なフィクション作品」と賛辞の入った帯に加え、スピン(しおり紐)がついていて、へぇ〜と思ったら、これが幅1センチもあるリボン。こういうところは、いかにも大きいことがいいこと、なアメリカですねえ。
あらやだ、また脱線した……。えーとえーと、そう、栗原は海外に出たことで、日本にいたときとは比べものにならないほどモノとしての日本語書籍を意識しました。かなりのお金と時間と労力をかけて配送されるべき対象として、また、高温多湿の香港では油断するとたちまち文庫本の表紙がそり返ってしまう、というようなデリケートな工芸品として。
そしてこのサイトにいらっしゃる多くのかたも、おそらくは相当な本好きなればこそ、家の場所をふさぐモノとしての本には、つねづね苦慮されていますよね。あの「自炊」という作業に、製本された書物を裁断するという不自然で面倒で哀しい行為に、あえて及ぶ人の動機としても、これが大きいとよく聞きます。
折しも作家・漫画家が複製行為の差し止めを提訴していた「自炊」代行業者が4月末に訴えを認め、業務を停止することを表明しました。思うに、こうした自炊代行業の問題は、携帯やスマートフォン、専用リーダー、iPadなどのタブレット端末、PCといった電子書籍を読める「装置」の爆発的な普及度に対し、「コンテンツ」の電子化が遅れに遅れているこの時代の歪み(読むためのツールは整ったのに、肝心の読みたい作品の電子版が販売されていない!)の表われではないでしょうか。
とはいえ、日本の電子書籍は、いずれ一般書の分野でも大きな市場を築いていくに違いありません。この電子書籍化の最新動向をつかむには、ダ・ヴィンチ 電子ナビ サイトの連載記事「まつもとあつしのそれゆけ! 電子書籍」がわかりやすくて良いと思います。
この記事などを頼りに、出版デジタル機構「パブリッジ」は今後どう動いていくのか、アマゾンKindle国内版リリースは、その他の電子書籍サービスとのすり合わせは、国内最大数の書籍・雑誌を所蔵する国立国会図書館の資料デジタル化の進行具合は、などなど、じっくりウォッチしていく所存。と書いた折も折、毎日新聞に詳しい記事が出ましたね。
とにもかくにも、紙の本と電子本、どちらかを選ぶという話でなく、双方のメリットが発揮されるよう、そして、これまで日本の出版文化を支えてきた著作者、出版社、関連業者の叡智を電子化にも活かし、これらオリジナル作品とそれを世に出してきた人たちと、誰より読者にとって不幸にならない着地点が見いだされ、紙の本とデジタルデータの本の共存共栄できるシステムが実現されることを、はるか南の地にあって願ってやみません。
先週、話題にしました拙訳『資本主義が嫌いな人のための経済学』の資料チェックについて、在外翻訳者ゆえの困難の話の続きです。新刊本、中古本のどちらでも入手できず、いよいよ一時帰国時に図書館に行って調べるしかない、という事項がいくつか残った際、開架式で所蔵数の多い東京都立図書館(広尾)にその資料があるとわかっていたのですが、まさかの長期閉館で、国立国会図書館へ。
かつては時間がかかる、必要な資料にアクセスしにくいイメージが強かったのですが、作業が大幅に電子化され、検索→閲覧予約→資料受け取りがとてもスピーディーになっていて驚きました。もう何年も国会図書館には行っていない、そもそも行ったことがないというかた、いらっしゃいましたら、ぜひお出かけください。きっと、いい意味で裏切られ、驚かれるはずです。
※写真:香港・九龍の廟街の屋外レストラン。「廟街で露天を冷やかし、屋台で夕食をとる。人と物とが氾濫していることによる熱気が、こちらの気分まで昂揚してくれる。」――沢木耕太郎『深夜特急1 香港・マカオ』より
◇栗原百代(くりはら ももよ)。東京生まれ、2009年秋より香港在住(時期不明ながら東京に戻る予定)。主な訳書として、フィクションではヴェリッシモ『ボルヘスと不死のオランウータン』、モートン『リヴァトン館』、ストケット『ヘルプ 心がつなぐストーリー』、ノンフィクションではジジェク『ポストモダンの共産主義』、ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』、ピカディ『ココ・シャネル 伝説の軌跡』(共訳)など。 |
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