扶桑社発のひとりごと 20111209(執筆者・扶桑社T)

  

第21回


 前回は、編集者のチェックについて(言い訳まじりに)説明しました。校正作業というものは、じつはジャンルは問わずおなじような事情ではないかと思います。
 そこで今回は、翻訳ならではの問題についてお話しします。


 翻訳編集でよくぶつかるのが、原文に誤りがある、という事態です。
 まず、あきらかに事実と異なる記述。街の描写が地理的におかしい、とか、歴史的な記述で、その時代に存在しないものが描かれている、とか、なにかについて説明されているが、確認してみたらその内容が事実とちがう、とか、そういったことです。
 さらに困るのは、物語世界内での矛盾。座って話していたはずの人物がいつの間にか立っている、といった単純な齟齬から、この人がこの時間にここにいるはずはないでしょう、といった深刻な欠陥まで。そういえば、アクション・シーンで、前のページで殺したはずの人物が次のページでふたたび襲いかかってきた、なんていう事例も経験しています(もちろんゾンビ小説じゃないですよ)。
 いや、こういうことって意外にあるんですよ。つまりは、作家のミスを、原書の編集者・校正者が見のがしてしまったということなのでしょう。
 このような、明らかに誤っている記述があった場合、どうすべきなのでしょう?


 著者を尊重し、原文のとおりに訳すべき。……というところですが、そうもいかないのです。
 もちろん、歴史的・文学的価値のある作品であれば、そのまま訳すほうがよいでしょう。著者の記述に寄り添って翻訳し、原文の誤りについては注などを付す、という対処が望ましいですね。
 しかし、わたしたちがたずさわっている翻訳エンターテインメントの場合、そういった矛盾はできるだけ取り除くのがふつうだと思います。
 それでは著者の意図を曲げるのではないか、と言われれば、たしかにそういう面もあります。それでも、できるかぎり直すんです。
 最近では、電子メールなどで原著者やエージェントと連絡が取りやすくなりましたので、なるべく疑問点を投げて答えてもらうようにします。最後まで連絡がつかない場合もありますが、基本的には編集者と翻訳家さんとで相談し、修正する方向で対応します。


 原書があっての翻訳なのだから忠実に訳しておけばいいのに、なぜそんなことをするのか。
 それは、わたしたちが、出版社として日本の読者にむけて作品を提供しているからです。もとは外国で書かれた小説ですが、それを日本語で読める独立した作品として作りあげ、出版しているのです。
 ですから、その作品内に矛盾やまちがいがあっては、欠陥品です。したがって、わたしたちは、原書のミスであっても、できるかぎり修正して、誤りのないようにすべきだと思うのです。それは、けっして原著者の意図をねじ曲げるているのではなく、むしろ「翻訳編集」という作業のなかにふくまれている仕事なのではないかと考えます。


 翻訳文について細かいことをいえば、表記法はあまり凝らないほうがいいかもしれませんね。たとえば、独特な漢字の遣いかたなどはなるべく避けて、ごく一般的な表記にすべきでしょう。原文に目だった特徴があればべつですが、そうでない場合には、翻訳での色が出すぎてしまいます。
 もっとも、翻訳ものでは独自の送り仮名を見ますね。「現れる」よりは「現われる」、「行う」よりは「行なう」のほうが一般的です(最近はそうでもないですか?)。教科書的には正しくないのですが、これは読みやすさを優先した結果なのでしょう。


 と、まあ、編集の現場について書いているとキリがないのですが、じつはこのテーマになってから、いままでにない反響がありました。
 知りあいの翻訳者さんたちからいろいろと感想をうかがったのですが、そこでわかってきたのは、ここで書いてきたような翻訳編集のやりかたが、最近では一部で変質してきたらしいということでした。
 つまり、わたしたちが常識と思っていた編集者の仕事が、じゅうぶんに行なわれていない場面があるようなのです。
 編集者の仕事ぶりが悪いと、翻訳者さんの側に、編集への不信感が生まれます。これでは共同作業がしにくくなるばかりか、実質的に意欲も質も落ちる結果になりかねません。

 翻訳者さんからうかがって、浮かびあがってきた編集者側の問題は、ふたつ。1)編集者が翻訳を勝手に直してしまう。2)編集者がなにもしない。


 最初の問題については、翻訳では編集者の権限が強めに認められてきたという伝統があります。じっさい、わたし自身もけっこう無断で直してしまった時期がありましたし、これは特例中の特例ですが、この訳文ではとてもチェックして修正していては間にあわないので、こちらで直させてください、と頼んだこともあります。
 しかし、その手の入れかたがひどくなっているようなのです。
 訳文は、訳者さんの苦心の賜物。出版翻訳を生業とするプロフェッショナルが、何ヵ月もの時間をかけて一文一文を日本語化して積みあげた成果です。それを、編集者だからといって無断で手を入れてしまっていいのでしょうか。
 編集者から見て疑問や提案があれば、その旨を訳者さんに伝え、よりよくする道を探りましょう。翻訳出版においては、もちろん翻訳者さんがいちばん大事な存在ですが、そこに編集者、校正者がくわわってこその作業です。それでも、できあがった本に表示されるのは、原著者と翻訳者さんの名です。編集者は裏方にすぎません。裏方は裏方として、サポート役として働くべきでしょう。


 それとは逆なのが、2番めの問題。
 完璧な訳文なので編集者がチェックする部分がない……などということはありえないでしょう。それは、翻訳の良し悪しではなく、翻訳者さんが作った訳文を編集者というちがう人間が見れば、異なる視点から提案が出るのがふつうだ、といったことです。これは、どれほど訳文の質が高くても生じるはず。
 もし、なんのチェックもなければ、翻訳者さんにとっては自分の完全だと訳文が認められてよかったということになるのかもしれませんが、さて、どうでしょう。むしろ、編集者が訳文に熱心に取り組んでいないように思えるのではないでしょうか。
 これでは、作品の質をさらに高める努力がたりないのではないでしょうか。


 なんだか、ずいぶん偉そうな書きぶりになってしまいました。不快に思われたら、すみません。
 もちろん、このシンジケートにかかわっていらっしゃる編集者さんたちはプロ中のプロですから、いま述べたような問題とは無縁。むしろ、ごく一部の、翻訳ミステリー以外の出版社で起こっている問題のようです。
 しかし、耳にした翻訳者さんたちの経験をうかがうと、危機感がつのります。
 翻訳者については、業界の先達に学びながら育成される環境が確立しましたが、編集者はそういった育てかたがうまくいっていないのではないか。これが、最近あらためて気づいた問題です。
 わたし自身もC級の編集者でしたし、こんなことを言える立場ではないのは承知のうえですが、翻訳編集の仕事に劣化が見られるのであれば、業界全体にかかわることなので、心配になった次第。これは、シリアスな事態です。


扶桑社T

扶桑社ミステリーというB級文庫のなかで、SFホラーやノワール発掘といった、さらにB級路線を担当。その陰で編集した翻訳セルフヘルプで、ミステリーの数百倍の稼ぎをあげてしまう。現在は編集の現場を離れ、余裕ができた時間で扶桑社ミステリー・ブログを更新中。ツイッターアカウントは@TomitaKentaro


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