翻訳者は週に一度、靴を履く・第1回(執筆者・池田真紀子)


 私の脳は、指に入っている。
 ペンや鉛筆を握っても、文章は書けない。翻訳もできない。ところが、キーボードのキートップに指を置いたとたん、どこかのスイッチがかちりと入る。たかたかと軽快に次から次へと、とはいかなくても、とりあえず何かしら書きはじめることができる。
 たとえば、ゲラをチェックしていて、「訳ヌケ?」という指摘(「ここ、一文(とか一段落)飛ばしちゃってますよ」という意味)を見つけ、余白にヌケている分を赤ペンで書きこもうとするとき。いや、ほんと、みごとに何も出てきません。漢字が思い出せないとかそういうレベルの話じゃなく、原文の意味はわかっていても、どうしても日本語に変換されてくれないのだ。しかたがないからコンピューターの前に移動し、キーボードを叩きながら翻訳して、モニターに表示された文字を小学生の漢字書き取り練習みたいに一文字ずつ確かめながら書き写す。
 こうなると、前は頭のなかで暮らしていたはずの翻訳と文章担当の灰色の脳細胞が、いつのまにか指先に引っ越しちゃったんじゃないかと疑いたくもなる。あ、でも、ほんとにそうだったら、それも悪くないか。だって、本体が居眠りしてるあいだに指の脳が勝手に仕事を進めてくれてたら、すごくありがたいもの。
 ニコラス・G・カー『ネット・バカ』の初めのほうに、ニーチェの話が出てくる。体力と視力が極端に衰えて執筆活動を断念しかけたとき、ニーチェは当時の最新式タイプライターを購入した。タイプライターなら指の感触を頼りに文字を打てるから、目が悪くても執筆を続けられる。で、ニーチェは無事に論壇に復帰したわけだけれど、タイプライター導入前後では、言葉の選択や文体が異なっていたらしい。ごくごく簡単に要約してしまえば、道具の違いが思考の方法を微妙に変化させたということ。
 これだよ、と思いました。大学時代のレポートからすでにワープロで「打っていた」私の脳は、「キーを叩く動作」と「文章を書くための思考」を結ぶ配線を何十年もかけて強化してきた。一方で、「筆記具」と「書く」を結ぶ配線は、ちっとも使ってもらえないものだから、少しずつみじめに痩せ細っていったんだろうな。もしかしたらもう、どこかで断線しちゃっているのかもしれない。
 一度でも真剣に考えてみていたら、とっくに自力で正解を見つけていてもよさそうな話ではある。とはいえ、いままで「キーを叩かないと頭が働かない」のは「いつもと同じ環境が整わないとスイッチが入らない」からだろうと漠然と流していたことを科学的にちゃんと理解できたみたいで、なんだかとってもすっきり。
 でも、私の脳は指に入っているって思っていたほうがなんとなく愉快な気がするから、この先もそう思っておくことにしよう。


池田真紀(イケダ マキコ)
1966年東京生れ。上智大学卒業。主な訳書にディーヴァー『ロードサイド・クロス』、バゼル『死神を葬れ』、キング『トム・ゴードンに恋した少女』、パラニューク『ファイト・クラブ』、マドセン『カニバリストの告白』、アイスラー『雨の牙』など多数。
 
 

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