中村有希の翻訳者はつらいよ・その2

「原文通りに訳しなさい」と、むかしむかし、まだ翻訳の勉強を始めたばかりのころに、翻訳学校の先生から、毎回毎回、言われたものですが。

 この「原文どおりに訳す」という日本語の意味を理解するまで、およそ五年かかりました(笑)。


 トロい。トロすぎる。


 たぶん、いま現在、翻訳学校等で勉強している人たちも、これはよく言われる言葉だと思いますが、先生がたは「原文そのものを正確に日本語に変換しろ」と言っているわけじゃないんですよ。

 これがわからないと、辞書を引っくり返して、「この中のどの訳語がいちばんぴったりくるかしら?」「辞書にないから、同義語辞典で似たような単語を探さなくちゃ」「"が"にする? "は"の方がいい?」などと、小手先で文をいじくり回すだけで、結局、作者の言わんとしていることを伝えられなくなったりします。

 が、実はそういうことじゃないんです。

 たとえば、若いお母さんとよちよち歩きの女の子が、

"Mummy!"
"What do you want?"

 という会話をしているとします。で、「原文そのものを正確に日本語に変換しなければ」と思っていると、この文章だけで必死に、あーでもない、こーでもない、なんか普通すぎるから、ちょっとしゃれた表現を使っておもしろい"会心の訳文"を作ってみようか?なんてことを考えて、たいてい失敗するわけですが(笑)。

 翻訳は<英語→日本語>という変換だと、正確に訳すのが難しいです。

 この英語と日本語の間にワンクッションはさんで訳す。これが、遠回りのように見えて、いちばんの近道です。

 このワンクッションというのが<映像>。

 まず、原文から映像(音声つき)を浮かべて、その映像を日本語で表現する。

 こうすると、逐語訳にはならないかもしれませんが、結果的に、<作者が読者に思い浮かべてもらいたい映像を正確に伝達する>ことができます。

「原文どおりに訳す」というのは、つまり、そういう意味です。

 さっきわたしのあげた例は、某オーストラリアの飛行場のトイレの中で(実話)、まだよちよち歩きの女の子がトイレの個室から出てきたら、お母さんがいない! 「マミー!」と叫んで走り出したら、手を洗っていたお母さんが"What do you want?"と言いながら現れ、子供に向かって両手をさしだして前かがみになる、というシーンです。

 さあ、このお母さんは日本語ならなんて言っているか!

<英語→映像→日本語>で訳す、というのはこういうことです。だから、ここはお母さんの言いそうなことを適当に言わせれば、それで全員、正解ですよ。

 ちなみに、その光景を見ていたわたしの頭には「あらあら、どちたのー?」という言葉が浮かびましたが。


 文芸翻訳の勉強だけをやって、ずーっと本とにらめっこしているとなかなか気がつきませんが、映像関係の翻訳をしているかたは、こういうのが日常の作業ですよね。DVDで耳から英語を聞きながら、字幕と照らし合わせていくと、「おおっ! かっこいいー! 今度、使わせてもらおう!」と思うことがよくあります。

 いまだに忘れられないのは『スピード』『の冒頭です。

 とある凶悪犯が犯行現場を見られて、目撃者をいきなり射殺したあと、"Nothing personal"としぶ〜く言い残して、風のように去っていきます。

 要するに、あんたを殺したのは個人的な恨みや理由があるわけじゃない、というような意味ですが、これの字幕が、


「悪く思うな」


 かっ、かっこいいーーーー!!!!

 いつか使わせてもらおう!!!!


 と思ってからまだ一度も、似たような状況下における"Nothing personal"というセリフに遭遇していません。残念。

 それはともかく、<英語→映像→日本語>で訳す訓練として、海外ドラマや映画を字幕で見る、というのはなかなか効果があります。

 ワンクッションはさむというのは、ひと手間多いぶん時間がかかりそうですが、慣れてくると英語を読んだだけで自動的に、頭の中に映像が再生されるようになってくるので、かえって速いです。

 しかも、これのいいところは、映像内にキャラクターが現れて、勝手に喋ってくれるようになるので、「 "あたし"かな? "わたし"かな?」「"やってしまった"? "やっちゃった"に直す?」とこまこま考えなくても、キャラの喋るセリフをそのまま書き写せばいいので(まあ、ここまで妄想力が強くなると、キャラを憑依させた霊媒のようですが)けっこうラクだったりします。


 ところで。


 前回、男でも女でも、3次元には興味がない!と、言っていたわたしですが、2・5次元は大好きです。ドラマに出てくる俳優さん(美形)が好きだ!

 いま、わたしが夢中になっているのが、BBCのドラマロビンフッド『でガイ・オブ・ギズボーンを演じる、リチャード・アーミテージ氏です。

 ルックスは、そりゃーもういい男で、演技力も抜群なのですが、声もたいへんチャーミングなうえ、声優としても、一本のドラマの中でひとり何役もこなす芸達者。

 いつかまたイギリス旅行をしたいし、少しヒヤリングの訓練をしておこうか、とRA氏のドラマのDVDや朗読CDを山ほど買って、毎日うっとり鑑賞しています。

 が、耳が慣れても脳味噌が追いつかず、ヒヤリングがなかなか上達しません。


 石川Rくんってすごいな......若さか。才能か。


 このRA氏は本国でたいへん人気のある俳優らしく、「RAさま、好き好き!」というコメントの嵐でBBCの出演番組掲示板を落とした伝説をお持ちです。

 そんなファンからのコメントで「あのChocolate Voiceがたまらないわ〜」という書きこみを何度か見かけたのですが、ロマンスものに縁のないわたしは、この表現を初めて知りました。

 チョコレートのような声......と日本語にすると、なんかイメージ違いますね。コメントを見る限りではむしろ、ファンのおばさまがたが「萌える! あの声、萌えるわあ!」と騒いでいる感じだし(笑)。

 甘い声? セクシーな声?

 うーん、たしかに色男の役を演じている時は、ぞっとするほどセクシーな声ですが、インタビューの素の喋りとか、普通に朗読しているだけの声に対しても、チョコレート・ヴォイスとコメントされてるんですよね〜。

 まあ、分類としてはたしかに、甘い声とかセクシーな声にはいるんでしょうが......わたしの聞いた感じでは、耳に快い声、というのがいちばんぴったりな気がします。

 ええ、RA氏の声は、低音で、優しくて、上品で、それはそれはうっとりしちゃう美声なんですよ〜。あの声の目覚ましに、毎朝、起こされたいよ。そうだ、乙女ゲームに声優として、ぜひご出演を......


 ......という声のことなのね、きっと。


 いつかChocolate Voiceが出てきたら、RA氏の声を脳内で再生しながら、訳語を考えようっと。


中村有希