会心の訳文・第十五回(執筆者・森嶋マリ)

 
会心の訳文ね、はい、はい、では三つほど……」なーんてすらすら挙げられる翻訳家になってみたい! パソコンのまえで一日じゅうしかめ面で、うなり、頭を抱え、ついにはじっとしていられなくて、ほんの数畳の部屋を意味もなくうろついて、ときどき叫んじゃったりする私にこのタイトルで何か書くのは無理がある。
 でも……『古書の来歴』があるんだからなんとかなるんじゃない? 不遜にもそんなことを思った。そうだ、そうに決まってる、原書を読んであれほど感動したんだから。この本を訳せるならどんな試練にも堪えちゃうもんねと、惚れこんだ作品なんだから。ならば、会心の訳のひとつやふたつ、五つや十はすぐに見つかる。見つからないわけがない! ってことで、“会心の訳文”探しにまた読んでみた。うん、何度も読めちゃうところがすばらしい、なーんてこれまた不遜なことを思いつつ。
 百ページ読んだあたりでいやな予感がした。半分読んで、冷や汗が出た。会心の訳が見つかるどころか、「やっぱこの一言はあれを使えばよかったなぁ」なんて、胸のなかは改悛ばかり。で、三百ページを過ぎたあたりで、こりゃだめだと見切りをつけた。そうそう、気持ちの切り替えは早いに越したことはない。
 
 思い返せば、その本を訳すとき、原文を素直に日本語にすれば充分に読み応えのある小説になると感じたのだった。この作品に関しては、原文以上の訳語はいらないのだ。だから、「おっ、この訳文いいかも」と思って、原書を確かめてみると、「なーんだ、もとの文そのままじゃん」というわけ。
 てなわけで、誰もが唸るみごとな訳文を探すのはすっぱりあきらめて、この場面は訳してて楽しかったとか、そんなところを探すことにした。苦しまぎれの強引な変更なのは重々承知だけど、申し訳ない、“会心の訳文”ってタイトルは忘れていただこう。それに、原文を併記しても、「そのままだね」と言われるだけだから、これまた強引に割愛しちゃおう。
 翻訳作業中はしかめ面だけど、もちろん訳してて楽しいことだってある。抱腹絶倒のジョークなんかをご紹介できればそれこそ楽しいが、残念無念、『古書の来歴』はシリアスな物語だからそんなものは登場しない。まあ、普段からうまい冗談は言えない性質だから、ジョーク連発の仕事が来ても、七転八倒してやっと書きあげた文が苦笑い程度になっちゃう可能性もかなり高い。
 
 ともかく、訳してて楽しいのは美しい光景が目に浮かぶような場面、あるいは、個人的にちょっと気になる部分である。
 で、目に浮かぶような美しい場面がどんなものかっていうと――
 

 日が沈み、部屋は赤っぽい残照に照らされていた。薄れゆく光のなかに、蝶の羽の破片がきらきらと舞っていた。(中略)開いたドアから忍びこんだ微風に蝶の羽の破片が高く舞いあがって(以下略)


 あるいは、乳飲み子を海に捨てようとして、思いなおすシーン――

 海の水が赤ん坊に押し寄せて、その体を包んだ。(中略)引いていく波が赤ん坊を連れ去ろうとしたその瞬間、両手を伸ばして、赤ん坊をしっかり捕まえた。(中略)海水が輝く飛沫となって赤ん坊の艶やかな肌を滑り落ちていった。天に向かって赤ん坊を掲げた。頭のなかで響いている音は、いまや波の音をかき消していた。


 この際、“残照”と“照らされ”で“照”が二度使われているのが字面的にどうかとか、“飛沫”は滑り落ちるんじゃなく、飛び散るものだなんて細かいことにはこだわらないでほしい。なにしろ、蝶の羽が夕陽を浴びてきらきら輝いているんだから、美しくないわけがない! 海に浮かんでいる赤ん坊をガバッと抱きあげて、天に掲げたら、滑らかな肌に弾かれた水滴だって、まちがいなく光り輝くはずなんだから。
 
 お次は、個人的に気になった場面。
 賭博場での大博打のシーン。ギャンブルには縁遠くて、宝くじを買うぐらいがせいぜいの私としては、この気分は想像するしかないんだけど――
 

 癖になる博打の醍醐味はまさにその瞬間にあった。杯のなかの澄んだ水にインクを落としたように、恐怖が体じゅうに広がっていくその瞬間に。全身に鳥肌が立つ危機感がたまらなかった。敗北と勝利の瀬戸際で揺れている感覚が刺激的だった。これほど自分が生きていると実感する瞬間はなかった。いまこそ、のるかそるかの大勝負だ。


 ずいぶんまえに、ラスベガスで全財産を賭けた一発勝負をした若者がいたけど、たぶんこんな気持ちだったんだろうな。博打好きの翻訳家も多いみたいだから、こんど訊いてみようっと。
 
 さらに印象的だったのは、ユダヤの記述者であるダヴィドが神のことばを羊皮紙に書写する場面――
 

 黒い空に星が瞬くまだ夜も覚めやらぬ早朝にそれは起こった。断食と冷えとランプの眩い炎のせいなのか、ふいに文字が目のまえに浮かびあがり、光を放ちながらくるくるとまわりはじめた。ダヴィドの手は羊皮紙の上を飛ぶように動いていた。すべての文字が燃えたっていた。あらゆる文字に命が宿り、宙に舞った。まもなく、文字が溶けあってひとつの大きな炎となり、そこから四つの文字が現われた。全能の神の聖なる名がまばゆく輝いていた。その迫力と美にダヴィドは圧倒され、やがて、気を失った。
 夜が明けて(中略)ダヴィドは机の足元に倒れていた。ひげにうっすらと霜が下りて白くなっていた。だが、ダヴィドの書いたもの――すべての文字とことばにはひとつの乱れもなかった。ひとりの記述者が一週間、夜を徹して仕事をしても書ききれないほどの文字が、何枚もの羊皮紙を埋めていた。


 これはもう私の願望以外のなにものでもない、まさに夢のシーンだ。夜中に神がかり的になって、パソコンを打つ指がキーボードの上を飛ぶように動いて、やがて気を失って、翌朝、意識が戻ると、パソコンのディスプレイにひとつの乱れもない訳文が、しかも、一週間、昼夜仕事を続けても訳しきれないほどの文章がディスプレイを埋め尽くしている。そりゃあもう最高! 絶対に「私って天才!」って叫んでるはず。
 
 いやはや、連休にいきなり夏日連発だったせいか、つい熱く語ってしまった。もしかして、みなさんついてきてない? 勢いに任せて、あくまでも個人的に印章深い部分を挙げてしまったけど、最後にひとことだけ言わせてね。『古書の来歴』は普遍的に印章深いシーンも多々登場する作品ですから、そこのところはお忘れなく。
 
 会心の訳文とはかけ離れた話を書きつらねたのに、最後まで読んでくださった方がいたとは、ほんとうに申し訳なく、ありがたい。
 タイトルどおりの知的でためになるエッセイは、半ば無理やりバトンをお渡しした武藤崇恵さんにお任せします。
 

古書の来歴

古書の来歴