文春文庫8月の新刊

 
『音もなく少女は』/Woman
 ボストン・テラン/田口 俊樹訳
 ISBN 9784167705879/発売中
 文春文庫/定価920円
 

 悲惨な体験に挫けず、絶望の中から這い上がり、何度も立ち上がる
 凛々しいヒロインを、テランはくっきり描いている。
 いい小説だ。胸に残る小説だ。(北上次郎/本書解説より)

 
 静かに痛烈に胸を刺す素晴らしい小説。本書を読み終え、そう思いました。
 ボストン・テランと言えば、「このミステリーがすごい!」第1位、日本冒険小説大賞、イギリス推理作家協会最優秀新人賞の三冠を制したエクストリームなヴァイオレント・ノワール『神は銃弾』で知られています。私がテランに「暴力の詩人」という二つ名を奉ったのはその詩的なブルータリティゆえでした。
 しかし、本書は一見、まったく別人が書いたかのように見える静かな静かな小説なのです。解説の冒頭で北上次郎氏が、「この長篇がボストン・テランの作品であることを忘れていただきたい」と記しているように。


 物語は1960-1970年代のブロンクスの貧困地域で展開します。そこで生まれた耳の聞こえない少女イヴに次々にふりかかる「世界の悪意」。いまだ女性が非力であることを強いられていた時代に、己の力で世界に挑みかかろうとするイヴ、戦争の非道をくぐってきたイヴの導師フラン、そしてイヴの母クラリッサ――彼女たちの強さを描き切る作品です。
 しかし、こんな「あらすじ」では本書の素晴らしさは絶対に伝えきれない。と思っているのです。テラン一流の詩情は、抑制されつつも随所で、荒々しい世界のなかで活きてゆく人びとの崇高さと愚かしさを、そんな世界のなかでも時おり現れる美――例えば摩天楼に区切られた星空――を、描いてみせるのです。


 かの広江礼威氏も愛するという暴力小説の名作『神は銃弾』、ミステリ史上で屈指の激烈な銃撃戦が展開する『死者を侮るなかれ』、ハメットのように冷徹な筆致で描く『凶器の貴公子』と、独特の詩情で人間の暴力性をパワフルに描く作品を発表してきたテランは、自身もブロンクスのイタリア系家庭に育ちました。そんな環境でテランは、「強い女たち」を見てきたと述懐しています。

 
 本書はテランの自伝的な作品なのだと思います。ここにいるのは『神は銃弾』のケイス・ハーディンの血脈を継ぐ女たち――いや、むしろ逆か。本書のイヴやフランやクラリッサの血脈から、ケイスや、『死者を侮るなかれ』のディーが生まれてきた……。

 
 静かな小説です。地味に見えるかもしれません。けれど、これは読む者の心を刺し貫く傑作だと信じています。とくに女性たちに読んでいただきたいと。
文藝春秋翻訳出版部 永嶋俊一郎Twitter ID: Schunag)
 

音もなく少女は (文春文庫)

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神は銃弾 (文春文庫)

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死者を侮るなかれ (文春文庫)

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凶器の貴公子 (文春文庫)

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第四だらだら(とりあえず突っ走れ)

 
 前々回は、翻訳の速度を便宜的に上げるためのやり方を書くと言いながら、ずいぶん時間が経ってしまったし、寄り道もしてしまったし。その間に締切り地獄を味わった同業者諸君には、大いに同情を禁じ得ない。(おお、上から目線!)
 さて、翻訳速度を上げるための前振りとして、訳語を選択するのが翻訳ではいかに重要かということを書いたのだが、そのあたりは納得していただいたとして話を進めることにしよう。
 
 さて、そこまで納得していただいた上で、ここで便宜的に翻訳速度を上げるために、最適な訳語を選択するという作業をあえて省略してしまうのだ。おっと、お客さん、怒らない怒らない。じゃあ、あの前振りはなんだ! いえいえ、それをこれから縷々説明いたしますから……。暑さのせいか、怒りっぽい客が増えたなあ。
 どういうことかというと、翻訳の際に、とりあえず辞書に載っている、あるいは頭に浮かんだ、最適と思える訳語を当ててしまうのだ。つまり、翻訳作業の際に一番時間のかかる部分を、とりあえず省略してしまうのだ。ただし、あくまで「とりあえず」ですよ、そこをお忘れなく。
 さらに、いい文章を書こうという気持ちを、とりあえず忘れる。いい翻訳文でなくてもいいから、というより日本語として問題があってもいいから、とにかく訳してしまう。「南斜面の中腹にお爺さんが言っていた別荘があるところの16号線をまっすぐ行って突き当たる東の山だ」というような文章でも、とにかく書いて先に進む。ここでは先に進むことが最優先。やたら「とにかく」と「とりあえず」が出てくるが、そこがツボ。
 
 ここまで読んで、なんだ、単なる手抜きのやり方か、と思ったあなた、甘い! アマンドのミルクココアより甘い!(というようなセリフが『パタリロ!』になかったっけ?)
 速さを別としても、この方法の利点は二つある。
 
 ひとつは、小説の一部分を読んで考えていただけでは理解できなかった記述が、全体が見えてくることによって把握できるようになるという点。当然、小説の構成も見えてくる。あの時の敵役のセリフは実はこの事実を知っていたからだったのか、とか、こういう仕掛けがあったのだとすると導入部のカギはもっと別の訳し方をしたほうがいいな、というふうに理解が深まるということだ。もちろん、誰だって翻訳の前に原書を通して読んでいるのだが、どうしても細かい点は意識から抜け落ちてしまうものだ。単語を一つ一つ拾って、いちいち辞書に当たって、全体を訳してみてようやく理解できるようになることもある。少なくとも、わたしはそうだ……威張れることではないが。
 
 もうひとつは、言わずとしれた、文章の流れを考えやすくなるという点。以前にも書いたことだが、独立した一行、一行を訳すだけの「英文和訳」と、文章全体の意図や、流れ、読み易さまで考える「翻訳」とはまったく違う作業だ。翻訳では一文一文を名文にすることよりも、文章の繋がり、流れのほうが重要だからだ。
 
 ところが、翻訳をしていると、どうしても目の前にある一行がものすごく重要に思えてきて、ここをきちんとやらなければ次に進むことができないと思いこんでしまう。何かひとつが気になると、そのまま翻訳が停滞してしまって、いたずらに時間ばかりが過ぎていき、締切りがどんどん近づいてくる。欧米だと、子犬が目の前の小枝にかじりついて先に進めなくなってしまう状態にたとえたりしますね。
 もちろん、小説のどの一行も大事で、おろそかにできないのは事実なのだが、全体として見た場合は少し違ってくる。小説には、作者が書きたかった個所とか、物語として欠くことのできない個所とかいうのが必ずある。ストーリー上それほど重要とは思えないが、このシーンを描きたくてこの小説を書いたとか、この説明が伝わらなければ物語が成立しないとか、このシーンがなければ構成が破綻するとか……逆に、次のシーンに繋ぐためだけに存在しているシーン、説明しておく必要があるからというだけで書かれている文章というのもある。主人公が移動のために乗った長時間のフライトの機内のエピソードとか、その場限りで消えてしまう脇役の髪の色や目の色の描写とか。
 重要なシーンやそうでないシーンを、すべて同じように淡々と訳してしまっては物語のおもしろさが伝わらなくなる場合がある。翻訳の文章にもメリハリを意識する必要がある。みっちり訳すべきところと、さらりと流す(ように見える訳文)ところ。具体的に説明すると長くなってしまうので、印象だけで言うと、いわば油彩の個所と色鉛筆に水彩の個所と使い分けるというようなこと。全体の流れが見えれば、そういうことも楽にできるでしょ?
 
 実は、もうひとつだけ、このやり方の利点がある。こうすれば、とりあえずは翻訳が終わって、心理的なプレッシャーが減る。これは大きいよ。翻訳が終わらないことによる胃がきりきり痛くなるような焦燥感とか、電話が鳴るたびに編集者からの催促じゃないかと怯えて受話器に手を伸ばした手が止まる電話機恐怖症候群とか、いろいろな症状が改善される。さらに編集者から催促されても、とりあえず出来てはいるんですよと開き直れるし。なにより、締切りが来ても、たとえ修正なかばであっても、いざとなれば、とにかく入稿はできる。そうすれば、編集者からあなたに頼んだのが間違いだったとあとで愚痴られることもないし、編集者が胃を悪くして退職することもない。え、姿勢が後ろ向きだって? 仕方ないでしょう、小心者なんだもの。
 
 さて、こうして原書一冊が(まがりなりにも)訳しあがったとする。名人上手と言われる翻訳者だったらこれで仕事はおしまいなのだが、わたしら凡人はこれからが勝負。これからどれだけ力を傾注できるかで失格か合格かが決まる。
 いったん訳してしまったら、見直し作業にかかる。この時に気をつけるのは、特定の個所だけチェックするのではなく、常に全体を見ていくこと。いわば漆職人が漆を塗り重ねるように、一カ所だけでなく、作品全体のレベルをアップさせることが大事。その時に、見直し一回ごとに目標を定めておくとやりやすい。はじめは意味不明個所やつじつまの合わない個所や誤訳のチェック。二回目は位置関係のチェック。AのビルとBの屋敷はどういう位置関係にあるのか、二台の車のどちらが先頭を走っているのか、拳銃を持っているのは誰か、その場には誰がいて誰がいないのか、主人公はどっちを向いているのかというようなことだ。三回目は登場人物のセリフに重点を置いて……とか。
 そのあとで、訳文が適切な日本語になっているか、そのシーンにフィットしているか、この本に適合しているか、を見ていく。適切な日本語については説明の要はないが、シーンにフィットしている文章とはどういうことかというと、老夫婦が昔の思い出話をしている時と、スパイ同士が命がけで戦っている時とでは、言葉の使い方を変えなくてはいけない(と思う)。法廷で検事と弁護士がやり合っている時と、幽霊屋敷で闇の中からおぞましいものが忍び寄ってくる時でも言葉遣いからして違うだろう。
 
 これを感性の問題と片付けてしまっては、何も進展しない。駄目な奴は駄目なままになってしまう。感性は各自で磨くとして、とっかかりとして、わたしはこんなやり方をしている。
 それは、基本となる表現レベルを確立しておくことだ。語尾は「です」「ます」にするのか、「である」「だった」にするのか、接続語はどうするのか、主語、間投詞、なにからなにまで含めて、ひとつの体系を確立させておく。「たったひとつ」と使うか「ただひとつ」と使うかだけでも印象は異なる。「全部が」と「すべてが」でも違う。と言っても、それが簡単でないことはわたしも承知している。わたし自身もできているかどうか自信がない。が、少なくとも、目標を掲げていることはできる。ただ、普段からそういう文章を書けとか、自分の話し言葉をそうしろと言うわけじゃないからね。
 
 さて、基本となる表現レベルさえ出来ていれば、ここはちょっとテンポを速めようとか、ここでは基本より荒々しい言葉を使おうとか、ここは基本よりメリハリの効いた言葉遣いをしようとか、応用することが出来る。名詞、動詞ばかりでなく、「でも」「だが」「しかし」というような接続語も重要。どの単語を使うかで、文章の雰囲気が変わる。
 この全体の見直しを何回できるかが勝負。あとは編集者からの電話が試合終了のゴングと考えて、ただひたすら打つべし、打つべし!
鎌田 三平
 
バックナンバー
第1回・第一だらだら「構文解析とは鑑識である」
第2回・第二だらだら「けつカッチンという名の修羅場」
第3回・第三だらだら「リズムの乱れは訳の乱れ」
 

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