第一回はロバート・クレイスの巻(執筆者・東野さやか)
翻訳業界に足を突っこんでからというもの、原書を読むのは仕事の一部と化し、楽しむためだけに読む機会がめっきり減った。かつてはピンときた原書を片っ端から注文し、憑かれたように読んだものだけれど、それもいまは昔。とはいえ、新刊情報を聞けばいまでも心が躍り、出たらすぐに買い求める作家が何人かいる。ロバート・クレイスはそんな作家のひとりで、なかでもロサンゼルスの心優しき私立探偵、エルヴィス・コールが主人公のシリーズは既訳書を含め、何度となく読み返している。
このシリーズの魅力について語りはじめたら、いくらスペースがあっても足りないし、そもそもこのコーナーの趣旨からはずれてしまうので、それは『モンキーズ・レインコート』(新潮文庫・品切)か『ララバイ・タウン』(扶桑社海外文庫・品切)を読んでいただくとして、ここでは未訳書のなかでも自信を持って傑作とおすすめできる2冊をご紹介しよう。
まずはシリーズ7作目の "INDIGO SLAM"(1997)。ここまで6件の依頼を通して6つの事件に巻きこまれてきたエルヴィス・コールだが、今回の依頼人はなんと、15歳の少女を筆頭とする3人のきょうだい。仕事で出かけたきり11日間も音沙汰のない父親を捜してほしいというのだ。母親は5年前に他界し、いまは子どもだけで暮らしていると知ったコールは、自分を雇うより警察に行けと諭すのだが、児童福祉局に通報されてきょうだいが離ればなれになるのを恐れる3人は頑として言うことをきかない。コールは根負けし、手がかりを求めてシアトルへ飛ぶが、ロシア人マフィアとFBI、さらには謎の二人組につけ狙われることに――。
第1作の『モンキーズ・レインコート』から最新作の "CHASING DARKNESS" まで全部読んでいるけれど、これがシリーズ最高傑作だと信じて疑わない。このシリーズを語るとき、必ず使われるキーワードに“優しさ”と“あたたかさ”があるが、本書はその優しさとあたたかさが存分に発揮され、それでいて最後まで気の抜けない意外な展開ときっちりとした謎解きで楽しませてくれる。しかも子ども3人が添え物でなく、しっかり物語に組みこまれているところも好感度大だ。と言っても、3人ともありえないくらいによくできた健気な子どもなわけではなく、長所も短所もある等身大の姿だからこそいい。しっかり者だけどときに15歳らしい弱さを見せる長女、反抗的な態度のそこかしこに寂しさが見え隠れする長男、幼すぎて状況がよくのみこめていない次女。その3人とコールのやりとりが絶妙で、何度読み返しても頬がゆるむし、思わず涙してしまうことも。
"INDIGO SLAM" がこれまでの集大成ならば、つづく第8作の "L. A. REQUIEM"(1999)はクレイスの新境地ともいうべき記念碑的な作品と位置づけられる。
物語はコールの相棒、ジョー・パイクの知人からの依頼で始まる。依頼の内容は行方不明になったひとり娘カレンを捜してほしいというもの。実はカレンはパイクが警官時代につき合っていた恋人だが、別れた理由についてパイクは多くを語ろうとしない。捜索を開始してほどなくカレンは死体で発見されるが、情報を出し惜しみする警察に不信感を抱いた父親の頼みでコールとパイクは調査を継続することに。しかし、警官時代にパートナーを射殺した過去を持つパイクに捜査チームの目は冷たく、思うように情報を引き出せない。やがて事件は予想外の様相を呈しはじめる。
これまでコールの一人称で語られてきたシリーズだが、本作ではパイクの回想や犯人の視点が織り交ぜられ、いつものユーモアとへらず口の割合がぐんと減っている。そのせいで、全体の雰囲気はかなりダークだ。ダークなのは文章だけではない。これまで謎に包まれてきたパイクの過去、パートナー射殺事件の真相、カレンが殺された事件と、いずれもこれまでになく重い内容で読むのがつらくなるほどだし、事件をきっかけにコールと恋人とのあいだに亀裂が入るなど、このシリーズの持ち味であるネアカな部分が影を潜めている。
それでも過去と現在がシンクロし、しだいに真相が明らかになっていく展開はスリリングで読ませるし、人物描写が巧みなのは相変わらず。なかでも、コールに手を貸す女性刑事の造形は見事。本当にクレイスは女性の描き方がうまい。そしてなによりもラスト数ページ、自宅からロサンゼルスの街を眺めながら語るコールの独白は絶品ものだ。いつもと趣がちがうものの小説としての完成度はひじょうに高く、翌年のおもだったミステリ賞に軒並みノミネートされた。
東野さやか
Indigo Slam (Elvis Cole Novels)
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L.A. Requiem (An Elvis Cole and Joe Pike Novel)
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モンキーズ・レインコート―ロスの探偵エルヴィス・コール (新潮文庫)
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ランダムハウス講談社発のひとりごと (執筆者・ランダムハウス講談社編集部(SS))
半老人の繰り言、でもグチではありません
若い人たちが海外旅行や留学に関心を持たなくなっているという。インターネットを使えば、情報も商品も写真も動画も即座に手に入るのだから、わざわざ時間と金をかけて出かけるまでもないということだろうか。異郷の通りですれ違った人々の仕草や街の匂いが、ずいぶん後になって記憶の底からふと立ち上がり、豊かな気分になった体験を持つ身としては、とても残念な気がする。
海外旅行がいまほど簡単ではなかった我々の時代には(というと、歳がばれますが)、翻訳ミステリーを読んでその代用にしていた。ストーリーとはほとんど関係のない情景描写や登場人物の台詞が新鮮で、ページの端を折ってよく覚えたものだった。バーのカウンターに座って、「まだギムレットを注文するには早過ぎる時間だろうか」などと頭を悩ませていたころが、はるか遠い時代に思える。
どうも日本という国全体の目が「内向き」になっているようで少し心配だ。この傾向は政治家や2チャンネル投稿者の一部が唱えるいびつなナショナリズムばかりではなく、むしろ小説、エンターテインメント系の音楽・映画などのジャンルで顕著に現われている。過去の舶来品偏重の反動なのか、量や売上げで国産品が海外作品をはるかに凌駕している。国産ミステリーに圧倒された翻訳ミステリーの不振もその典型的な例といえるかもしれない。経済の繁栄を基盤にして、日本の文化があるレベルまで「成熟」したからであろうし、日本人が自信を持つのは決して悪いことではない。だがそこに、もう外国から学ぶことはほとんどないという驕りのようなものを感じるのは、翻訳出版に携わる者の僻目だろうか。
ブックフェアなどに行って、海外の出版社やエージェントから作品を紹介される。この小説はこれだけの国で出版が決まっているとリストを見せられる。20も30も国の名前が並んでいて、中国もあれば韓国もある。タイやブラジルもある。ところが、日本だけがない――そういう経験をいやというほどした。いや、8、9割がそうだった。日本の出版社は採算がとれないと判断して版権を買うのを手控えるわけで、経済原則からいえば当然かもしれないが、それはとりもなおさず日本の読者から優れた作品を読む機会を奪っていることにもなる。
確かに、国産ミステリーの中には海外の作品に引けを取らないものも少なくない。全体のレベルも上がっているのは間違いない。逆に、これまでこのジャンルをリードしてきたアメリカのミステリー界が、ハリウッド映画同様、パワーが落ちている感じもする。それでも、最近目立って紹介されるようになった北欧やスペイン、南米、南アフリカなどの、新しい可能性を感じさせるミステリーも出現している。そういったものを手に取ってさえくれれば、ミステリーを読む愉しみを堪能しつつ、国産ミステリにはない驚きや味わいを感じてもらえるはずだ。
翻訳ミステリー冬の時代はまだ当分続くであろうし、いまだ春の訪れる気配はない。となれば、編集者としてはこれまで以上に作品の質を吟味し、営業部に怒られても決して挫けず、優れた作品を紹介しつづけていくしかない。もともと、覚えにくいカタカナ名前はじめ翻訳小説には数々のハンデがあるのだから、ベストセラーを狙おうなどと高望みをせず、面白いミステリーを求めている読者を喜ばせる仕事をしていきたい、と宮沢賢治のような心境になっている今日このごろであります。