ジョン・ル・カレ自伝『地下道の鳩』(執筆者・加賀山卓朗)
- 作者: ジョン・ル・カレ,加賀山卓朗
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2017/03/09
- メディア: 単行本
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事実は小説より奇なりと言うべきか、ジョン・ル・カレが実体験にもとづいて書いた回想録は、ことによると小説よりおもしろいかもしれない。訳者のひいき目ではないと思う。
これまでに発表した長篇が23作、巨匠と呼ばれて久しい作家が、80代なかばで発表した回想録である。満を持してということなのかもしれない。でも正直に告白すると、一読するまであまり期待していなかった。むしろ、暗い話や繰り言満載だったらどうしようとちょっと心配していたのだ。本当に失礼な先入観だった。平に謝りたい。
本書は40ほどのエピソードからなる。それぞれ独立しているので、どれから読んでもかまわない。スパイの修業時代から、イギリスの諜報機関MI5、MI6で働いた話(従来本人の口からはほとんど語られていなかったが、ここで在籍をあっさり認めているのにも驚いた)や、作家転身後の取材旅行の数々、小説のキャラクターのモデルになった実在の人物の紹介、作品が映画になったりならなかったりした経緯、俳優や監督や司会者との交流など、どの内容も興味深いし、何より読んでいて肩がこらず、愉しい。
登場する面々は、パレスチナ解放機構のアラファト議長、物理学者のサハロフ、ロシアのプリマコフ外相、イギリスのサッチャー首相、映画監督のキューブリックやコッポラ、元情報部員で先輩作家のグレアム・グリーン……などなど、大物、曲者ぞろいである。
おそらくMI6史上最大の汚点となった二重スパイのキム・フィルビーについては、フィルビーの同僚で親友でもあったニコラス・エリオットが長々と語った思い出話に加えて、ル・カレ本人の感想も添えられている。
また、本物の詐欺師だった父親ロニーと、突然家族のもとから姿を消した母親オリーヴに関しても、多くのページが割かれている。ロニーは『パーフェクト・スパイ』の主人公マグナスの父親のモデルになった、とんでもない人。たしかに、こういう父親に振りまわされる子供の苦労は並大抵ではないだろう。ただ、現実の詐欺師がどうやって世渡りをしているのか、その一端がうかがえて参考に(!)なった。ちなみに、本書のタイトル『地下道の鳩』というのは、かつてデイヴィッド・コーンウェル(ル・カレの本名)少年がロニーに連れられてモンテカルロに行った際、射撃場の屋上で飼われていた鳩のことなのだが、この短い逸話が巻頭から強烈な印象を残す。
もちろん、登場する人たちがどれほどカラフルでも、それだけでおもしろい読み物にはならない。本書のル・カレの語り口は自由闊達というか、じつに生き生きしていて、随所にユーモアも感じられる。名優アレック・ギネス(BBC版の『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』のスマイリー役)とのやりとりなどでは、思わず笑ってしまった。近年の巨匠は小説で昔ほどユーモア精神を発揮することが少なく、少々近寄りがたい雰囲気もあったが、この本では、cuteといって悪ければ、じつに charming で amiable な一面を見せている。会いに行ってご挨拶したくなるくらい。ほとんどのエピソードにきちんと落ちがついているのにも感心する(まあ、いくらか脚色も加えているのだろうけど……)。
名もないスパイの死や、MI6の秘密の金庫の話などには、短篇小説のような味わいもある。ル・カレのファンなら1冊まるごと文句なしに愉しめるけれど、いままでこの作家はむずかしそうと敬遠していた人にこそ本書をお薦めしたい。ここで触れられている小説に興味が湧いたら、そちらも手に取っていただけるとうれしい。「スパイ小説」の枠に収まらない、めくるめく小説世界が広がるはずだ。
……いやはや。大人げなく激賞してしまった。素直に感服したのでお許しください。
なお、ル・カレ作品はこのところ(不思議なくらい)次々と映像化が進んでいて、エミー賞とゴールデングローブ賞ドラマ部門で5つの賞を獲得した『ナイト・マネジャー』に続いて、今度は『寒い国から帰ってきたスパイ』のBBCドラマ化が決定し、映画『裏切りのサーカス』のゲイリー・オールドマンがふたたびスマイリー役を演じるらしい。
noteにて 巨匠がみずから語る波瀾に満ちた人生と創作の秘密『地下道の鳩 ジョン・ル・カレ回想録』(3月9日発売) 一部無料公開中
加賀山卓朗(かがやま たくろう) |
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1962年生まれ。翻訳家。訳書に、ルヘイン『過ぎ去りし世界』、ル・カレ『繊細な真実』(ともに早川書房)、ディケンズ『二都物語』(新潮社)など。長いこと積んであった『心臓を貫かれて』をようやく読みました。『グレート・ギャツビー』と並ぶ、村上訳の最高峰だと思います。 ■HONZ掲載記事→ 『地下道の鳩 ジョン・ル・カレ回想録』訳者あとがき(加賀山卓朗) |
■担当編集者よりひとこと■
「もし近くにドストエフスキーみたいな人がいたらいやだな、友だちにはなりたくないな」
大学時代に友人がこんなことを言っていたのを覚えています。
もちろんドストエフスキーとは同列に扱えませんが、私はル・カレに対して同じような思いを持っていました。作品はとにかく面白くて好きなのですが、人間的にはなにかとっつきづらい印象があったのです。
それがこの回想録を読んで、勝手な思い込みはみごとに吹き飛ばされました。それどころか、親しみを覚えるようになったのです。あのル・カレが自分の犯したいくつもの失敗や、表に出したくないことを正直に打ち明けている。しかも、ときにユーモアを交えて。私は急にル・カレの友人になったように感じたのですが、これも勝手な思い込みであることは間違いありません。
この回想録の魅力はいくつもあります。
まずは、ル・カレがイギリスの諜報機関MI5とMI6に在籍していた事実を明かしていること。諜報機関に在籍していたことについてみずから触れている文章はこれまであまり見たことがありませんでした。もちろん守秘義務があるので詳しいことは言えないのでしょうが、それでもこのふたつの機関に在籍していたことを明言しているのは驚きです。
そして、彼の小説の登場人物のモデルが誰なのかわかること。たとえば、ジョージ・スマイリーのモデルが誰だったのか? 『寒い国から帰ってきたスパイ』のリーマスはどのようにして生まれたのか? それを知りたくはないですか? ほかにも登場人物のモデルについてたくさん書かれています。
衝撃的なのは、ル・カレの父親のこと。父親が詐欺師だったことはすでに明かしていて、それをもとに『パーフェクト・スパイ』を発表していますが、この回想録で語られる父親のとんでもない行動の数々には仰天します。ここで詳しく書けないのが残念ですが、あまりのひどさにル・カレに同情してしまいます。
小説の映画化の企画にまつわる話も面白い。ル・カレ作品はシドニー・ポラックやコッポラなどが映画化する話がありましたが、なぜか実現しませんでした。それがどのようにして没になったのかが描かれています。ハリウッドの裏側がうかがえて、興趣がつきません。
まだまだあるのですが、終わらなくなるのでやめましょう。まずは、読んでみてください。そして、ル・カレという人物が好きになり、彼の作品を読もう、あるいはもう一度読み直そうと思っていただければうれしいです。
(担当編集者 T・M)
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