第36回 指から始まる物語――リュダール『楽園の世捨て人』(執筆者・佐竹裕)
もはやいい歳を迎えている身ながら、最近になって突如フリューゲル・ホーンというトランペットに似た楽器を吹きはじめた。いい大人なんだからそろそろきちんとジャズも学ぼうよ、という目的で先輩が結成したバンドからのお声掛けがきっかけ。サックスやトランペットではなく、どうせならあまり演奏者のいない楽器にしようと思ってのFH選択だったのだけれど、管楽器の経験ゼロなので最初は音すら出せないことに変わりはない。とにかくわずかな進歩が楽しくて嬉しくて、下手なりに楽しんでいる現状。
そんなわけで、良質のジャズをあらためて聴こうという毎日が続いていて、楽器の種類に拘らず、名盤とされるアルバムを引っぱり出しては聴いている。ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス(Saxophone Colossus)』(1956年)、ビル・エヴァンスの『ポートレイト・イン・ジャズ(Portrait in Jazz)』(1959年)にチェット・ベイカーの『チェット・ベイカー・シングス(Chet Baker Sings)』(1956年)、キャノンボール・アダレイの『サムシン・エルス(Somethin’ Else)』(1958年)だのジョン・コルトレーンの『至上の愛(A Love Supreme)』(1965年)だのと、かなりベタなのをあらためて。いや、あのでも、やはり素晴らしいです。そりゃまだまだ満足に吹けやしないんで、草野球はじめた子がプロ野球の試合観に行って選手が全員超人に見えるのと似たようなものだと思ってください。
そして、類は友を呼ぶぢゃなく言霊の導きでもなく、三つ子の魂百までもでもないか、えっと、因縁に引き寄せられるかのように、たまたま読み始めたミステリーでまた、コルトレーンやらロリンズの名前と再会したのだった。
- 作者: トーマス・リュダール,木村由利子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2017/01/07
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トーマス・リュダールのデビュー作『楽園の世捨て人(Eremitten)』(2014年)。処女作にして、国際推理作家協会北欧支部であるスカンジナヴィア推理作家協会の「ガラスの鍵」賞を受賞した話題作だ。この「ガラスの鍵」賞というのは、第1回がヘニング・マンケル『殺人者の顔(Mördare utan ansikte)』(1991年)、第2回がペーター・ホゥ『スミラの雪の感覚(Frøken Smillas fornemmelse for sne)』(1992年)の受賞。2年連続の快挙となったアーナルデュル・インドリダソンの『湿地(Myrin)』(2000年)と『緑衣の女(Grafarpögn)』(2001年)、スティーグ・ラーソンの大ベストセラー『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女(Män som hatar kvinnor)』(2005年)、『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士(Luftslottet som sprängdes)』(2007年)といった、話題作ばかりが受賞している、いまや要チェックの文学賞といっていい。
むろん音楽小説ではないので、どっぷりジャズを語っている作品というわけではない。ただし、主人公のキャラクター造型には大きく関わっている。舞台となるのは、カナリア諸島のアフリカ寄り、フエルテヴェントゥラ島。デンマーク人の主人公エアハートは20年近く前にこの地を訪れて以来ここに住み着いてしまった余所者という設定。67歳の老頭児タクシー運転手でありながら、ピアノの調律師の副業も兼ねる。あくせくと働かず、一日の半分は車を停めて本を読んでいたりすることから、人々からは「世捨て人」と呼ばれている。今では聴きなれないこんな言葉から、ついトッド・ラングレンの名盤『ミンク・ホロウの世捨て人(Hermit of Mink Hollow)』(1978年)を想起してしまい、主人公のイメージがトッドのジャケ写の顔した老人となってしまった。
わずか数人の客をタクシーに乗せ、あとはジョン・コルトレーンやセロニアス・モンクの音楽を聴きながら本を読んだりして、淡々と暮らす世捨て人の毎日に変化が訪れたのは、カフェ経営者である遊び人の車が横転している現場に出くわしてからだった。エアハートはこの運転者がすでに死んでいることを知り、婚約指輪をはめた彼の薬指を持ち去ってしまうのだ。
死体の指を隠し持っていることで罪悪感を抱いている彼の元に、運悪く知り合いの警官ベルナルが別件の捜査協力要請に訪ねてくる。海岸に放置されたフォルクスワーゲンの後部座席で生後3カ月の男児の餓死した遺体が発見され、そこに残された新聞の切れ端にデンマーク語が印刷されていたのだった。エアハートにその言葉を解読してもらい事件の早期解決を図ろうとしたベルナルだったが、その後、警察はなぜか事件そのものをお蔵入りしようとし始める。事件の裏で重大な何かが進行していると直感したエアハートは、うち捨てられた男児の不幸な事件にとり憑かれてしまい、独自に真相を究明しようと駆けずり回り、警察の真相隠蔽工作に協力しようとしていた娼婦アリーナにまでたどり着く。
一方、調律の副業がきっかけで町の実力者エマヌエルと懇意になっていたため、その息子ラウールと恋人ベアトリスのカップルとも親子のような親友のような関係を築いていた。だが、まもなく彼らと3人で一夜を過ごし泥酔して目覚めたエアハートを待っていたのは、何者かに殴られ意識を失っているベアトリスの悲惨な姿で、ラウールはというと行方をくらましていた。
とまあ、ここまでは巻き込まれ型素人探偵もの、まあまあ王道の展開なんだけど、この後、世捨て人の強引な調査はわやくちゃに暴走し始めることになる。アリータを攫って偽証阻止のために監禁する、瀕死の状態にあるベアトリスを入院させずに自宅に隠して生命の危機にさらす。そしてどちらもその挙句に……ここには書けない驚きの連続が待っているのだ。つまりはこの探偵役、行き当たりばったりで自分勝手な行動の連続。つまりはもともと怠惰で老年を迎えた男が、いろんなところになまじ中途半端な優しさを向けようとするがために、事を複雑にしてしまう。イラっとくる読者も多いのではないだろうか。とくに女性読者なんかは。とはいえ、ある意味、主人公のユニークなダメさぶりが事件を複雑化いわばミスリーディングへと導いていくのが、本作の魅力なのかもしれないし、この年齢を現実生活で考えてみたら、かえってリアリティある人物造形なのかもしれない。と甘やかしてしまうのも、同性かつ老人予備軍のわが身だからかなあ。サングラスをかけた顔を見た美容師の女性に、映画『コンドル(Three Days of the Condor)』(1975年)に出てくるエージェントに似てると驚かれ、主役のロバート・レッドフォードかと聞くと悪役のマックス・フォン・シドーのほうだと答えられるといったシーンもあって、苦笑を誘うのもご愛嬌か。
そういえば、L・A・モース『オールド・ディック(The Old Dick)』(1981年)以来の老人探偵ものの傑作として、ダニエル・フリードマンの『もう年はとれない(Don't Ever Get Old)』(2012年)が近頃話題となったし、コリン・ホルト・ソーヤーの『老人たちの生活と推理(The J. Alfred Prufrck Murders)』(1988年)にはじまる〈海の上のカムデン〉騒動記シリーズだとか、ジャック・ヴァンスの連作短篇集『宇宙探偵マグナス・リドルフ(The Complete Magnus Ridolph)』(1982年)なんかも邦訳紹介され、海外ミステリー業界は老人探偵花盛りといった現状である。
『オールド・ディック』の元探偵ジェイク・スパナ―が78歳、『もう年はとれない』の元殺人課刑事バック・シャッツが87歳なので、世捨て人エアハートなんかはまだまだ青二才と言っていいのだろうけれど、なかなかの老人力で周囲を煙に巻くあたり、かなり楽しんで読めます。また、娘ほど歳の離れたベアトリスについつい欲情してしまったり、週一回送迎する自閉症らしき病気を患う大きな赤ん坊アースの母親との激しい恋愛もあったりして煩悩も失ってはいない。このあたりの大人ならではの葛藤にもまた目が離せない。
さて、不可解なままの薬指盗難行動の件だ。
じつは、デンマークを去らねばならなかったある事件でエアハートは指を1本失っていた。失った指を、死者の指で補える気がしていたようである。んー、なんのこっちゃなんだけど、彼が指にこだわる理由は、かつてピアニストを目指していたということも関係しているのだろう。演奏することが叶わなくなり調律の仕事を請け負ったということか。あまりのスラプスティックな展開に、後半は読者もすっかり小指の件を忘れかけてしまうかもしれないけれど、これがちゃあんとラストに効いてくる。いやはや、これがあったからこそ、この物語全体にわずかな救いがもたらされるのである。思えばこの世捨ての行き当たりばったりの身勝手な言動というのは、ジャズでいうインプロヴィゼーション(即興演奏)を体現しているのだと好意的に解釈できないこともない。……ふうっ。
そんな経緯からおのずとジャズを聴くシーンがよく目につく(もちろん調律の場面ではクラシックにも触れるのだけれど)。コルトレーンとロリンズはともにテナー・サックスがメインの奏者だが、とりわけお気に入りのようで作中何度か言及される。ここでコルトレーンが「星影のステラ」を演奏する、という記述があるけれど、おそらくはマイルス・デイヴィスのグループでの名演のことだろう。このサックスの神様に至っては、小生も初耳のエピソードまで教えてくれる。物語後半で事件の真相が明かされることになるイスラ・デ・ロボス島へと渡る主人公が、島にまつわるコルトレーンの逸話を物語るのだ。1967年に亡くなる数カ月前のこと。そこでコルトレーンは全身に一つの物語が刺青で彫られたオグンデと名乗る男と出会ったという。本好きにとっては、レイ・ブラッドベリの「刺青の男(The Illustrated Man)」(1951年)を思わせるが、その年に録音されたアルバム『エクスプレッション(Expression)』のオープニングの曲がその男の名前なのである。
セロニアス・モンクやスタン・ゲッツも登場するが、ちなみにジャズやクラシックばかりではない。警察と取引をした娼婦アリーナはロック・シンガーのパット・ベネターそっくりだと記しているし、エアハートの淫靡な妄想の中でラウールとベアトリスがもつれ合うシーンに、英国のポップ・グループ、スパンダー・バレエのヒット曲「ふたりの絆(Only When You Leave)」がBGMで流れたりと、英米の音楽はデンマークの作者にもおなじみ、というより圧倒的に強いんだなあ、とあらためて考えさせられもした。
◆YouTube音源
"You Don’t Know What Love Is" by Sonny Rollins
*ソニー・ロリンズの不朽の名盤『サキソフォン・コロッサス』より、「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ」の演奏。
"Only When You Leave" by Spandau Ballet
*スパンダー・バレエ1984年のヒット曲「ふたりの絆」。
"Captain Marvel" by Stan Getz
*スタン・ゲッツが1975年に発表したアルバムの表題作。ピアノにチック・コリア、ベースにスタンリー・クラーク、ドラムスにトニー・ウィリアムズが参加。
"Ogunde" by John Coltrane
*1967年に亡くなる数カ月前、イスラ・デ・ロボス島で出会った刺青の男の逸話からコルトレーンが書いたというナンバー「オグンデ」。
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1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。 |
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