第七十八回はE・ウェルティ&ロス・マクドナルド書簡集の巻(執筆者・柿沼瑛子)

 

 
 ロス・マクドナルドマーガレット・ミラー夫妻は長年わたしにとって理想のおしどり夫婦でした。「私は昼間書き、良人は夜中に書きます。ときどき階段で顔を合わせます」(『鉄の門』解説)こんなふうにつかず離れず、お互いを尊重しあい、高めあい、ともに後世に残るミステリーを書く。なんと素敵なご夫婦なんでしょう。
 
 と・こ・ろ・が・昨年されたユードラ・ウェルティロス・マクドナルドの書簡集 Meanwhile There Are Letters の序文を読んでいたら、1977年当時ロス・マクがウェルティへの手紙で、友人の離婚にかこつけて「離婚というのも結婚生活にふさわしい終わり方のひとつだと考えるようになった」といっているのを読んで「でーっ!」と本を投げ出しそうになりました。そりゃトム・ノーランの伝記 Ross Madonald で、ふたりが必ずしも円満な夫婦でなかったこと、娘のリンダの起こした自動車事故が夫婦関係に最後まで大きな影をおとしていたことは知っていましたが、よもやそこまで考えていたとは……。
 
 アメリカを代表する文芸作家ユードラ・ウェルティとミステリ作家のロス・マクドナルドという一見ミスマッチなふたりの文通が始まったのは、1970年5月3日。ウェルティが自分のファンだと知ったロス・マクの「これはわたしが書いた初めてのファンレターです」で始まり、彼がアルツハイマー病の進行のために手紙が書けなくなる1980年7月まで、10年以上もの長きにわたって続きました。この書簡集についてはすでにミステリマガジン2016年3月号で松下祥子さんが紹介されていますので、ふたりが知り合ったいきさつなどは割愛させていただきますが、そのペースたるや一週間に1通から2通、まさに手紙が来たらすぐに返事を書くようなハイペースで、ふたりの意気投合ぶりがうかがわれます(南部に住むウェルティと西部に住むロス・マクが実際に顔を合わせたのはわずか五回にすぎませんでした)。実はこの本のおもしろさは書簡だけでなく、ちょこちょこはさまれている編者のコメントにあるのですが、どことなくふたりのあいだに恋愛めいた感情があったのではないかとほのめかしているのに対し、松下さんは「知性と感性のレベルでのソウルメイト」だったと述べておられます。たしかにそうなんですが、むしろそっちのほうが妻としてはつらいのではないかなあ。特にマーガレット・ミラーのような人にとっては。
 
 先ほどのトム・ノーランの伝記を読んでいると、なんとなくこのマクドナルド/ミラー夫妻は「ふたりぼっち」という気がするんですね。マーガレットはどちらかといえばエキセントリックで、歯に衣着せぬものいいで誤解されやすく、一人を好み、ロス・マクがマーガレットに合わせているという感じ。夫婦が好んだバードウォッチングも元はマーガレットが始め、ロス・マクはむしろ妻と一緒にいる時間を作るために同じ趣味を選んだのだそうです。そして作家としてはお互いにとってのもっとも有力な後援者でありながら(互いの作品にアドバイスしたりもする)ライバルである(1950年代当時は圧倒的にマーガレットのほうが作家として知名度が高かった)という複雑な関係でもありました。一人を好んでいたマーガレットは肺ガン、そして失明の危機を迎え、夫に依存せざるを得なくなり、ロス・マクアルツハイマー病を発症すると、今度はその介護に専念しなければなりませんでした。こうして夫妻はしだいにまわりの人々から「孤立」していきます。
 それだけにロス・マクのウェルティにあてた手紙には伴侶(マーガレット)では得られなかったものを激しく求めているという印象を受けるのですね。1977年に入ってロス・マクアルツハイマー病の兆候が顕著になると、記憶や言葉を失っていくことへの不安をウェルティにぶつけるようになります。そんなロス・マクをウェルティは必死に励まし続け、ロス・マク自身も失われていく「自身」のよすがとして彼女を切実に必要としていました。
 

「あなたの世界にわたしが生きていることを考えることがどれだけわたしを幸せにしてくれることか。もちろんわたしの世界にあなたが生きてくれていることも」(ロス・マクからウェルティへの手紙)。

 
 かつてカナダでの少年時代の思い出を書き留めることを勧めたウェルティに、自分はノン・フィクションを書くつもりはない、書くとすればフィクションでと断っていたロス・マクですが、ウェルティが手紙でいきいきと描きだすカナダの情景に触発されて、ふたたび書こうという意欲をよみがえらせます(残念ながら断片的な文章だけが残り、実現することはありませんでしたが)。
 
 それにしても講演会や大学の講義で全国中を飛びまわり、ロス・マクやマーガレットよりは文学者としてはるかに確固たる地位を築いていたウェルティは、なぜこれほどまでにロス・マクとの文通にこだわったのでしょうか? ロス・マクの伝記作家であるトム・ノーランはインタビューで、ロス・マクを取り巻く人々は彼に愛情と畏敬の念を抱きはしたが、みな「彼のことを本当に知っていると思えたことは一度もなかった」と述べています。だとすればウェルティはロス・マクの心のなかに届くことのできる稀有な存在であり、その「わたしだけが理解することのできる彼」という矜持が彼女に文通を続けさせた理由だったのかもしれません(ロス・マクもそれを知ってか知らずか、毎回のように手紙でマーガレットの様子を書きつづっています。まったく男ってやつは!)。
 そして、おそらくもう彼が読んでも理解できないこと、それどころか開封されるかどうかもわからないことを知りながらも、ウェルティは書き続けます。ひたすら書き続けることで今にも切れようとする細い糸を手放すまいとするかのように。ついには彼が「書けるようになる」夢まで見てしまうほどに。
 

「わたしの夢は時々言葉の形であらわれるのです……それは一ページにも満たない、罫線を引いた紙に濃いインクのペンもしくは柔らかい鉛筆で書かれていました。あなたはわたしの夢を書いていたのです!もしくはあなたがわたしの夢を書いている夢を見たのかもしれませんが」(ウェルティからロス・マクへの手紙)

 
 1980年代に入るとロス・マクは文章を考えることはおろか、書くという肉体的行為自体もしだいに困難になり、さらにマーガレットの失明の危機が加わり、好むと好まざるにかかわらず「夫婦ふたりぼっち」状態で孤立していくことになります。どんどん短くなり、途切れがちになっていくロス・マクの手紙にも、ウェルティはめげることなく長い手紙を書き続けますが、ときとしてこう書かずにはいらせませんでした。
 

「あなたは前に手紙がなくても通じ合えることがあるといいました。わたし自身もあなたの願いを聞き入れたいと思ってきました……でも、わたしにはレイフ(ロス・マクとウェルティの間を取り持っていた共通の友人)の報告をもとに手紙を書いている今のあなたがどんな状態であるのかまったくわかりません」。

 
 ロス・マクからウェルティにあてた最後の手紙となった1980年2月の手紙にはマーガレットの65歳の誕生日のことと、やがて自分もウェルティも同じ歳を迎えることになるだろうけれど「さほど悪い年齢ではないように思えます。過去の失われた希望にようやくきっぱり背を向け、希望へのあらたな理由を見いだすためには」と書かれています。これ以降ロス・マクからの手紙はとだえますが、それでもウェルティはロス・マクへの手紙を書き続け、あまり乗り気ではなさそうなマーガレットに対して、ほとんど強引に最後の面会の約束を取りつけます。変わり果てたロス・マクの姿を見てショックを受けたウェルティは、そのときの印象をもとに Henry という未完成の小説を書いています。今回はその小説も巻末に掲載されているのですが、ここに描写されているマーガレットの描写は正直かなりひどい(笑)。当時はまだ、アルツハイマー病があまり知られておらず、ウェルティはロス・マクの病がマーガレットのモラハラによって引き起こされた精神的なものだと思っていたふしがあるようです。ロス・マクとの最後の対面となったときのマーガレットの対応がよほど腹にすえかねたようで、わたしはどれだけ嫌味をいわれようとかまわないけれど、彼に対する屈辱的な罵りや、それにじっと耐えているケンを見ているのがつらかった、と後に友人に述べています。
 
 何はともあれ、1983年11月、ふたりは最後となる面会を果たします。すでにマーガレットの顔もわからなくなり、他人とのコミュニケーションも取れなくなっていたロス・マクでしたが、ユードラを見たとたん――
 

「わたしのことをすぐに認識し、いつもの大きな微笑を浮かべて、わたしに腕を回してキスをしました。わたしと会うたびそうしていたように……そこにいるのは間違いなくケンでした」

 
 さらにウェルティはロス・マクの故郷であるカナダを鉄道旅行したときの情景をつぶさに語り、ロス・マクが明らかな反応を示すのを見て喜びを覚えます。この面会の後、ロス・マクは療養ホームに入り、脳血管の疾患を起こして亡くなりました。ウェルティはロス・マクの死を悼み、後にこう語っています。
 

「わたしたちはお互いに敬愛しあっていました。彼の身に起こったことはそれは恐ろしいことでした――彼は二年も書くことができなかったのです……それでも彼は彼であり続けました。優しく穏やかで」

 
 マーガレットはロス・マクが亡くなってから6年後の1994年に、ウェルティは2001年に亡くなりますが、今頃天国でどのような戦いが繰り広げられていることやら。
  

柿沼瑛子(かきぬま えいこ)

 1953年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学科卒業。主な訳書/パトリシア・ハイスミス『キャロル』、アン・ライス『ヴァンパイア・クロニクル』シリーズ、ローズ・ピアシー『わが愛しのホームズ』共編著に『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』『女性探偵たちの履歴書』など。
 来年一月でジャニーズ歴18年!(主に KinKi Kids
 
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