ハラルト・ギルバース『オーディンの末裔』(執筆者・酒寄進一)

 

オーディンの末裔 (集英社文庫)

オーディンの末裔 (集英社文庫)

 
 ドイツ語圏のミステリを重点的に翻訳するようになって五年ほどになる。まずは応援してくださっている読者のみなさんに深く感謝したい。
 翻訳出版にこぎつける流れは、いまでも編集部への持ち込みが大半だ。年間4、50冊読んで、候補を10冊くらいまで絞り、そのうち実現するのが4、5冊前後。だいたいそのくらいの打率。
 でもときには出版社が版権を取ったのち、ご指名にあずかるケースもある。
 ゲルマニアの場合は、なかなか面白い経過をたどった。2013年11月ドイツで出版されてまもなく、ドイツのアマゾンで見つけ、あらすじと冒頭部分を読み、設定にひかれた。さっそく出版エージェントにPDFのオファーをだしたが、すでに日本で版権が売れているという返事。ドイツ語の小説が出版まもなく日本に版権が売れるのはレアケースで、ああ、縁がなかったか、と思った。年が明けた2月、出版エージェントを介して集英社の編集者Sさんから翻訳の依頼が入る。なんとそれが『ゲルマニア』。PDFをもらって通読し、期待どおりの作品だったので翻訳を引き受けた。
 
 おかげでその続編オーディンの末裔』を訳す機会にも恵まれた。
 『ゲルマニア』は1944年6月戦時下のベルリンを舞台にし、親衛隊が連続殺人事件を解決するために、ユダヤ人の元刑事オッペンハイマーを担ぎだすところから物語がはじまったが、『オーディンの末裔』では、なんと主人公オッペンハイマーの友人ヒルデがとある事件でゲシュタポに逮捕されてしまう。時代が時代だけに、これは即、死を意味する。オッペンハイマーは一肌脱ごうとするが、地下に潜伏したあとドイツ人を偽ってベルリンでひっそり生きる彼になにができるだろう……。
 物語は1945年1月半ばから3月半ばにかけて進行する。ドイツが無条件降伏するのが同年5月なので、ちまたが末期的状況なのはいうまでもない。自殺談義をするナチ党機関の秘書とか、東欧から部下を残して逃げだすナチ高官とか、ナチに凝り固まった市民がユダヤ人に救いの手を差し伸べて戦後の保身を図るとか、世情は前作よりも殺伐とし、赤裸々になっている。
 ただこの時期、ドイツがどれだけ末期的か感覚的にわからない方がいるかもしれない。同時期の太平洋戦争と照らし合わせると、より切実感が増すかもしれない。
 

  
 本書の中で、ラジオで戦況報告を聞いている主人公が「ドイツ軍にいいニュースがないときは、極東での日本軍の勝利が伝えられるからそれと察しがつく」と述懐する場面がある。まあ、どっちもどっちだったということだ。
 
 『ゲルマニア』では捜査の過程で、ゲルマニア計画や生命の泉計画などナチの施策や、親衛隊と国防軍の確執が垣間見られたが、今回は、ヒルデが巻き込まれる事件が契機になって、ナチ体制下の拘置所内の様子やナチに反逆する者を抹殺する装置として機能した民族裁判所の実態が克明に描かれる。当時の獄中記や手記を下敷きにしているので、実にリアルだ。
 さらに強制収容所での凄惨な人体実験、それに関与したカイザー・ヴィルヘルム研究所(ドイツを代表する研究機関マックス・プランク研究所の前身!)、あるいはアーリア人種を神人と考えるネオゲルマン異教(アリオゾフィ)の秘密結社が暗躍する様子も見えてくる。
 その一方で、ドイツ人を装うオッペンハイマー自身も苦境に立たされる。敗色濃くなったナチが本土防衛のために創設した国民突撃隊に召集されてしまうからだ。
 国民突撃隊は一応、軍事組織だが、16歳から60歳までの一般市民で構成され、指揮官も軍人ではなかった。満足な火器もなく、犬死は目に見えていた。しかも身体検査をされれば、割礼でユダヤ人だとばれてしまう。さあ、どうする、オッペンハイマー
 
 それに、軍事教練風景のナンセンスなこと。滑稽にすら見える狂気の連続だ。本書はミステリであると同時に、人間とはかくもミステリアスだということがよくわかる作品に仕上がっている。
 原作者ハラルト・ギルバースはすでに三作目を書き終えている。来年春にはドイツで出版される見通しだ。主人公を巡る状況がさらに悪化するのは目に見えている。三作目の日本語版が出るかどうかは、みなさんの応援次第ということで、ぜひよろしく。
  

  

酒寄進一(さかより しんいち)


 1958年生まれ。和光大学教授、ドイツ文学翻訳家。最近の訳書:フェルディナント・フォン・シーラッハ『テロ』東京創元社)、アンドレアス・セシェ『囀る魚』西村書店)など。公演中の音楽劇『マハゴニー市の興亡』神奈川芸術劇場)で翻訳担当。今年11月には訳書『新訳 メトロポリスを原作とした劇『メトロポリス』Bunkamuraシアターコクーンで公演予定。
twitterアカウント: @vergiss_nie
 

開講! 訳者が語る現代ドイツ文学 シーラッハを中心に 講師:酒寄進一(朝日カルチャーセンター新宿教室)

 

■担当編集者よりひとこと■

 


 
 ビールにソーセージ。私のドイツに関する知識は果てしなく限られています。ベルリンにも行ったことはありません。まして、ナチス下のベルリンなんて、わかるわけがない。だからオーディンの末裔』で描かれる世界は、自分の想像の域をはるかに超え、着いていけないものと思っていたら……大間違い! 
 著者ハラルト・ギルバースのディテール力たるや。やっとの思いで手に入れた食料が、傷みかけたジャガイモだけだったり、箍が外れたとしか言いようにない乱痴気騒ぎが、夜な夜なナチ高官の家で行われていたり。あのお酒はどこから調達してきたのやら。また、オッペンハイマーがよく利用する地下鉄や鉄道。戦時のカオス下でもまだ運行されていたのかと驚く一方で、見てください、本書のカバーの写真。これは、当時のベルリン。崩れ落ちた瓦礫に埋まっているのは、地下鉄の車輌です。今、乗っている車輌が、いつこのような状態になるかわかりもしない。列車通勤も命がけなのです(日本の通勤ラッシュも別の意味で命がけですが)。
 まさに地獄の底が抜けたベルリンが再現されていて、もう、とにかく、凄いのです。1945年、敗戦色が日に日に濃くなっていくこの街が、色彩、匂い、音とともに、リアルに沸き立ってきます。結果、当時のベルリン市民が感じた恐怖、狂気、絶望を、読む側は一緒に感じることになる。そんな恐ろしい作品です。
 
 翻訳者・酒寄さんからのひとことにもあった編集者・Sが、翻訳ミステリ大賞シンジケート・コンベンションの「第3回出版社対抗ビブリオバトル」で見事(!)優勝したゲルマニア、その続編です。でも、もちろん、『ゲルマニア』をご存じなくても、十分に楽しめます。なんてったって、当時のベルリンに引き込まれ、抜け出せなくなるのだから。
 
 個人的に気に入っている点は二つ。
 ビーラー(ビール愛飲家)としては、闇社会を生きるギャングが経営する酒場〈エデのビールの蛇口〉が気になります。なんて胸が高鳴るネーミング。我が家にも欲しいです、ビールの蛇口
 さらに恋愛至上主義としては、いい中年のオッペンハイマーが妻リザにときめいちゃうところ。手をつなぐだけでドキドキしている。不謹慎ながら「オッペンハイマー、可愛い」と思ってしまいました。異常な状況下で「別居」というシチュエーションが、『ゲルマニア』では危うかった夫婦の仲を、再燃させてくれたよう。羨ましいな、いつまでもときめきを忘れないでいて(本当に、不謹慎で申し訳ありません)。 
 
 崩壊した世界を背景に、必死に生きる人々を描いたオーディンの末裔』。ミステリとしてだけでなく、ヒューマンドラマとして圧倒されること請け合いです。とにかくご一読を! 
 
 最後に、私にとっても最大のミステリ。あんなにたくさん訳書を出されていて、酒寄進一さん、あなたはいつ、寝ているのですか?
 

集英社文庫 D)   

 

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