パトリシア・ハイスミス『キャロル』(今回の執筆者・柿沼瑛子)

  

キャロル (河出文庫)

キャロル (河出文庫)

 たとえばわたしたちがある日ものすごく美しい異性(あるいは同性)に出会ったとします。その瞬間は灰色の視界にぱっとピンクの雲が炸裂したような幸福感に浸ることができても、たいがいはその場かぎりで終わり、あとは記憶の底にうずもれていくのが哀しき凡人の性(さが)ではないでしょうか。しかし、作家はそのピンク色の雲を何倍にも膨らませ、やがてはひとつの作品に昇華してしまうことができます。
 この『キャロル』はそんなふうにして出来上がった作品の典型ともいえるかもしれません。
 
 一九四八年長編デビュー作となる『見知らぬ乗客』を書き終えた直後のハイスミスはまだ作家としての収入も乏しく、クリスマスのブルーミングデールズというデパートに臨時店員として雇われます。クリスマスのかきいれどきとあって、目の回るように忙しい毎日を送っていた彼女の前に、ある日、娘のための人形を買いにきたという、美しい金髪の裕福そうな女性があらわれます。そして――
「彼女がわたしを見た瞬間、わたしも彼女と視線があった。その瞬間、わたしは恋に落ちていた」(ハイスミスの日記より)
 その夜八ページにわたって小説のアウトラインをノートに書きつけたハイスミスは、熱を出して寝込んでしまいます。
 
 ちょっと待て、自分が知っているハイスミス像とは違うぞと突っ込みを入れる方もおられるかもしれません。ハイスミスといえば、カタルシスというものとは無縁な、読者を突っ放すような結末ばかり書いている人間嫌いの作家というイメージが(そこが好きだという人もたくさんいますが)広くいきわたっており、あまりロマンスや愛とは縁のない作家だと思われてきました。不安定で孤独な主人公が、ふつうの精神状態の人間だったらなんとも思わないような、わずかな齟齬や行き違いがもとでどんどん不安を増幅させて、人間崩壊におちいっていくというのがハイスミスお得意のパターンなのですが、おそらく彼女自身、普通の人間だったら一と感じるところを、十それどころか百にも感じてしまうような感受性の持ち主だったのではないかと思います。そういう人たちにとっては人生というのはひどく生きにくいものかもしれないけれど、幸福もまた普通の人の十倍もしくは百倍味わうことができるのではないか、なんて思わせてしまうのがこの『キャロル』という作品なのです。ここで、作品について簡単にご紹介したいと思いますが、以前に「え、こんな作品が未訳なの!?」で紹介させていただいている文章と多少重複になるかもしれませんが、何とぞご容赦のほどを。
 
 舞台美術家の卵テレーズ・ベリヴェットは再婚して自分を捨てた母親を嫌い、ひとりニューヨークに出て自分のキャリアをなんとか築こうと悪戦苦闘する日々を送っていました。彼女にはリチャードという婚約者もいるのですが、結婚という道にもいまいち踏み切ることができません。前の職場を解雇された彼女は、クリスマスセールでかきいれどきのデパートにアルバイト店員として雇われ、おもちゃ売り場で働くことになります。デパートが象徴する管理社会になじめず、女性店員たちの生活の疲れをまのあたりにして、絶望的な未来に鬱々とするテレーズですが、そんな彼女の運命を一変させるような出来事が起こります。ある日、娘にプレゼントする人形を探しにきた金髪の女性にテレーズはたちまち心を奪われます。そのミステリアスで優雅なたたずまいにすっかり魅了されてしまった彼女は、女性客の残していった送り先伝票から住所を知り、思い切ってクリスマスカードを出します。意外なことにその女性からもすぐに連絡が来て、テレーズはその女性がキャロルという名前で、現在離婚訴訟中であることを知ります。生まれて初めて「恋」のときめきを知ったテレーズは、年上のキャロルに夢中になりますが、娘の親権を夫と争っているキャロルは好意を示しながらも、なかなか心のうちを見せてくれません。さらにはキャロルの元カノとおぼしき女性の存在や、ふたりの関係を疑っているキャロルの夫の存在にテレーズは心を悩ませますが、それでも彼女の一途さはしだいにキャロルの心を溶かし、やがてふたりは心を通わせあうようになります。そしてキャロルは夫の目から逃れるように、テレーズをアメリカ縦断のドライブ旅行に誘うのですが……。
 
 ここから一気に物語はロードノベルへと突入していきます。やっぱりハイスミスじゃないみたいというあなた、ご心配なく。ハイスミス節はちゃんと健在(?)です。この小説のもうひとつの魅力は、テレーズという不安定で未熟な女性のうぶな目から見た、醜い大人の世界への反発が生み出す一種の「歪み」にあります。その潔癖さがもたらす「老い」に対する異様なまでの憎しみは、ミセス・ロビチェクという老婦人に集約され、キャロルという絶対的な美と絶妙な対比をなしています。絶望と有頂天のあいだをジェットコースターのように行き来するテレーズの心の動きは、まさしく若き日のハイスミス自身そのものではないかと思います。この小説はまたそうした歪んだ自分の目でしか世界を認識できなかったテレーズが、キャロルとかかわることで自分の頭で考え、自分の足で歩みだし、自立していく物語でもあるのです。
 
 御承知のように『キャロル』はトッド・ハインズ監督によって映画化され、キャロルにはケイト・ブランシェット、テレーズ役はミア・ワシコウスカからルーニー・マーラに変更になりましたが、テレーズのあの「みなし子」的な雰囲気はより強く出ていると思います。映画もまた小説とあわせて楽しんでいただければ幸いです。
 


 2016年2月11日(祝・木)全国公開
 ◇公式HP http://carol-movie.com
 ◇公式twitter https://twitter.com/carol_movie

  
柿沼瑛子(かきぬま えいこ)

 1953年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学科卒業。主な訳書/アン・ライス『ヴァンパイア・クロニクル』シリーズ、ローズ・ピアシー『わが愛しのホームズ』共編著に『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』『女性探偵たちの履歴書』など。
 来年一月でジャニーズ歴17年!(主に KinKi Kids
 

■担当編集者よりひとこと■

 
 パトリシア・ハイスミスの最後の未邦訳長編『キャロル』がついに刊行となりました。
 1952年に The Price of Salt として刊行された本作はクレア・モーガン名義で発表され、ハイスミス名義で復刊されたのは1990年のこと(ドイツ語版とイギリス版。このとき Carol と改題。アメリカでは翌91年、The Price of Salt のタイトルのまま刊行)。
 『キャロル』はレズビアン小説としても歴史的名作ですが、このテーマゆえに日本での紹介が遅れたのか? というと、おそらくは単に、ミステリ・サスペンスのジャンルからこぼれ落ちていたからにすぎないように思います。
 ハイスミス自身は生前、「The Price of Salt 以外にレズビアン小説を書かなかったのはなぜですか?」と質問されて、「そういった小説のアイデアがわたしに降ってくることが二度となかったから」と答えています。
 初長編『見知らぬ乗客』を発表するや一夜にして「サスペンス」作家となったハイスミスは、「『見知らぬ乗客』をカテゴライズするつもりはなく、単に面白い小説だと思っていた」と言っています(『キャロル』あとがき)。そして『キャロル』もまた、女性同士のラブロマンスものであり、実はサスペンスものでもあり、『見知らぬ乗客』執筆直後のハイスミスがどうしても書きたくて書いた「単に面白い小説」です。ハイスミス読者の方にも、ハイスミス未読の方にも、きっと面白いはずです。 

河出書房新社編集部:伊藤靖)   
 
  

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