第8回『港の酒場で』(執筆者・瀬名秀明)
『港の酒場で』木村庄三郎訳、旺文社文庫610-3、1977* 『港の酒場で』木村庄三郎訳、創元推理文庫248、1961(翻訳文は旺文社文庫版と同じ?) Tout Simenon T16, 2003 Tout Maigret T2, 2007 TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1977(第36話) |
かれ[註:メグレ]は内心、独房での、すさまじい光景をおそれていたのだ。激しい抗議、涙、接吻。
ところが、その光景は、まるで違った。それは静かで、悲しげで、そして意味深長であった。
青年は、かれの気に入った。というのは、ほかでもない、青年が自分のうちに閉じこもって、そっけなく、よそよそしくしていたからだ。
こうしたところに、類型のメロドラマに流れない作者の腕の冴えが認められる。いままでの蓄積から、自信を持ってこう書いている様子が窺える。
《ニューファウンドランドのつどい》の店主はメグレに、ピエール青年やファリュー船長の女関係を調べてはどうかとこっそり進言する。というのも、店主はピエールのトランクを盗み見て、そこに一枚の女の写真を見つけたのだ。あだっぽい女性だが、顔の部分が赤インクで強く消されている。ピエール青年は婚約者がありながら、この女性に強い感情を抱いていたに違いない。
やがてこの写真の女性はアデールという娼婦で、ル・アーブルの不動産ブローカーであるガストンという男の情婦だということがわかった。ファリュー船長はこのアデールに入れ上げており、漁に出ている間、船室に彼女を密かに連れ込んでいたらしい。ピエール、船長、機関長は、この女を巡って争っていた節が見受けられる。だがそれ以上のことはわからない。メグレはピエール青年にずばりと問う。こうした容赦のない行動、ことに恋愛事情に関する冷酷な詰問は、メグレに特徴的なものだ。
「(前略)きみは、こういいたいんだろう、たしかにマリ・レオネックは賢い娘で、模範的な妻になり、子どもたちの面倒をよくみるだろう。だが彼女には、なにか欠けたものがあると。おい、そうだろう?……きみは、あの船で、なにかを知ったんだろう。船長の部屋に隠れて、アデールの腕のなかで、恐怖に、のどをつまらせながら、なにかを知ったんだろう。下劣な、獣的な、なにかを。……つまり恋の冒険の味を、……そして、かみつきたいような、なにか決定的なことがしたいような、殺すか死んでしまいたいような欲望を……」
ル・クランシュは、びっくりしたように警部を見た。
「どうして、それを……」
「ぼくが知っているというのか?……それは男はだれしも、すくなくとも一生に一度は、そういう恋の味が自分をかすめるのを見るからだ。……泣くがいい! さけぶがいい! あえぐがいい! だが、それから二週間して、マリ・レオネックを見てみたまえ。どうしてアデールなんかにのぼせたのかと、ふしぎに思うから」
メグレ夫人は港町で、不安を抱えるマリ・レオネック嬢と過ごしている。メグレの推理は進まない。堅く口を閉ざすピエール青年はいったん釈放されたが、ついに娼婦アデールとマリ・レオネック嬢が接近し、互いの立場を知ったとき、彼は緊張に耐えきれなくなったのか、銃で自分の脚を撃つという惨事まで引き起こす。
ピエール青年の容態が戻るまで再尋問はできない。ここまでで全11章のうち8章が終わる。私は正直なところ読んでいて不安になった。いままでの作品ならこの段階に来れば大きな展開が生じ、事件は解決へと向かっているはずだ。それなのに本作はどこへ向かおうとしているのかなおも判然としない。冒頭で事件が示されてから、ほとんど一歩も捜査は進んでいない。曖昧模糊として、同じところを堂々巡りしているようでさえある。読者が抱くその不安は、なんとメグレ自身も抱えていた。シムノンはこう書くのだ。
メグレは、すでにファリュー船長の像を創造していた。電信技手もアデールも機関長も知っていた。トロール船の生活については全体として把握しようと、さまざまにつとめていた。
ところが、いまや、それでは不充分なのである。なにかが欠けている。すべては、わかっているが、事件の核心だけはわかっていない、そんな気がするのである。
そしてメグレはトロール船の甲板に立ち、事件のいっさいを頭のなかで振り返り、次の第9章まるまるかけてこれまでの経過を再現してゆくのである。
ところがそこまで文章を費やしても、なおメグレは真相に辿り着かず、第9章は終わってしまう! あと2章しか残っていないというのに!
本書の大きな特徴は、漁船の水夫たちの生活ぶりと港町の匂いが、シリーズのなかで初めてくっきりと描き出されたところにある。港に戻ってからのつかの間の休暇を、彼らは馴染みの酒場で大いに飲んで騒いで過ごす。しかしそのなかには亡くなった見習い水夫の父の姿もあり、男は哀しみを背負い、ひどく酔いながら罵声を発し、《大西洋号》に怒りの拳を上げる。
ジャン・リシャールのドラマ版ではトロール船の水揚げ作業や船内での魚の解体作業といった描写も随所に盛り込まれ、長旅に出かける前に彼ら水夫たちが家族と別れを惜しむ場面も挿入される。
本作でメグレは殺人事件の犯人を裁かない。そしてメグレ夫人は慎ましく、そうした夫を見守っている。
そして私は最後の1ページを読んであっと思った。これは、前作『オランダの犯罪』のラストの変奏ではないか。このように本作『港の酒場で』は、シリーズの再生産作品である。それでも、作家としてついに自分の道を見つけ始めたシムノンが余裕を持って仕上げた、いっときの娯楽のための作品ということができるだろう。
【註1】
ところでGooglemapで調べると、フェカンの海岸沿いに《Les Terre-Neuvas》(ニューファウンドランド亭)というレストランが本当にある。一度訪れてみたいものだ。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
---|
1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞、1998年に『BRAIN VALLEY』で日本SF大賞をそれぞれ受賞。著書に『デカルトの密室』『インフルエンザ21世紀(監修=鈴木康夫)』『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。 |
- 作者: ジョルジュシムノン,Georges Simenon,木村庄三郎
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1961/04/21
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログを見る
The Grand Banks Café (Inspector Maigret)
- 作者: Georges Simenon,David Coward
- 出版社/メーカー: Penguin Books
- 発売日: 2014/11/25
- メディア: ペーパーバック
- この商品を含むブログを見る
- 作者: ジョルジュシムノン,中島河太郎,Georges Simenon,宮崎嶺雄
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1969/05/16
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (4件) を見る
メグレと深夜の十字路 (1980年) (メグレ警視シリーズ)
- 作者: ジョルジュシムノン,Georges Simenon,長島良三
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1980/06/30
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- 作者: ジョルジュシムノン,曽根元吉,Georges Simenon,宗左近
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1960/09/16
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (5件) を見る
- 作者: ジョルジュシムノン,厚木淳,Georges Simenon,木村庄三郎
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1960/05/27
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログを見る
- 作者: ジョルジュシムノン,Georges Simenon,原千代海
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1960/11/04
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログを見る
- 作者: 瀬名秀明
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2012/10/06
- メディア: 単行本
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (16件) を見る
- 作者: 瀬名秀明
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2012/11/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (14件) を見る
- 作者: 瀬名秀明
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2012/12/19
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
- 作者: 瀬名秀明
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2012/08/01
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
- 作者: 瀬名秀明
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/09
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 131回
- この商品を含むブログ (65件) を見る
- 作者: 瀬名秀明
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/09
- メディア: 文庫
- 購入: 4人 クリック: 15回
- この商品を含むブログ (50件) を見る
- 作者: 瀬名秀明
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/05/28
- メディア: 文庫
- クリック: 33回
- この商品を含むブログ (69件) を見る
- 作者: 瀬名秀明
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2014/02/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (51件) を見る