第8回『港の酒場で』(執筆者・瀬名秀明)


港の酒場で (1977年) (旺文社文庫)

港の酒場で (1977年) (旺文社文庫)

Au rendez-vous des Terre-Neuvas, Fayard, 1931[原題:ニューファンドランドの集い]
『港の酒場で』木村庄三郎訳、旺文社文庫610-3、1977*
『港の酒場で』木村庄三郎訳、創元推理文庫248、1961(翻訳文は旺文社文庫版と同じ?)
Tout Simenon T16, 2003 Tout Maigret T2, 2007
TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1977(第36話)
   悠々と通常運転に戻った、という感じだろうか。『黄色い犬』『メグレと深夜の十字路』『オランダの犯罪』と読んできて、一作ごとにめざましい発展を遂げてきたシムノンが、ここでいったん肩の力を抜き、いうなれば向上心も脇へと置いて書き上げたのが本作だという印象を持った。前作『オランダの犯罪』で一周したメグレシリーズは、ここから再生産の手法を取り入れる段階へと進んだようにも思える。  本作『港の酒場で』の舞台は北の港町フェカンだ。第一作『怪盗レトン』の主要舞台のひとつとなった場所である。季節こそ6月と異なるが、同じ舞台を使い回したのは今回が初めてである。そして最初期に登場して以来、姿を見せなかったメグレ夫人も再登場する。メグレは旧友の教師から依頼を受けて、故郷のアルザスで妻と過ごすはずだった休暇を急遽変更し、気乗りのしない妻を連れてフェカンへと赴いたのだ。旧友の知り合いの青年ピエール・ル・クランシュが殺人容疑をかけられたので助けてほしいといわれたのである。  つけ加えるとシムノンはメグレシリーズの最初の11作を立て続けに刊行した1931年、本作の次である9番目の『男の首』の後に一作だけ、ノンシリーズの長編も本名で発表している。アルザスの宿』創元推理文庫)だ。ここでも舞台の交叉が見受けられる。    事件のあらましは次のようなものだった。くだんのピエール青年は、鱈漁を営むトロール船《大西洋号》の電信技手として3ヵ月間漁場へ出ていたのだが、つい先日戻ってきた。この漁は最初からどこか不穏な空気が漂い、水夫たちにいわせれば《げん》が悪かったという。まずはひとりの水夫がマストから落ちて足を折った。次に15歳のジャン=マリという見習いが波に攫われたという情報が流れた。なぜか電信係のピエールと船長のファリューは口を利かなくなった。ひと月ばかり鱈の収穫は1トンにも満たず、結局帰港後、鱈は半値でしか売れなかった。  そしてファリュー船長が殺されたのである。その夜、船長はひとり船に残り、水夫たちは港の酒場《ニューファウンドランドのつどい》に集まり、ピエール青年は酒場の二階の宿に泊まっていたが、絞殺された船長の死体が錨に引っかかっていたのである。犯人は死体を海へ投げ込もうとしたらしい。ピエール青年が逮捕されたのは、航海中ずっと船長と仲が悪く、殺意を持っていると推測されたからであった。  メグレはフェカンに着いた後、さっそく水夫たちが集まる《ニューファウンドランドのつどい》へ足を運び、そうした事情を聞いたのである。  本作の原題は、つまりこの酒場の名前である。カナダのニューファンドランド島の沖合は「グランドバンクス」とも呼ばれ、格好の漁場として知られている。ペンギン・クラシックスの新英訳版で『The Grand Banks Café』とタイトルがつけられたのはそのために違いない(本稿では訳文に従って《ニューファウンドランドのつどい》と記す)。【註1】  フェカンにはピエール青年の婚約者マリ・レオネック嬢がやって来ていた。彼女は田舎育ちの地味な女性だが、よい妻になる気質を備えていた。彼女はピエールの無実を信じ、メグレに助けを求める。  メグレはマリ・レオネック嬢とともに独房のピエール青年と面談したが、青年の応対はどうも要領を得ない。彼は航海中、確かにファリュー船長やアンリ・ラベルジュ機関長と折り合いが悪かったようだ。しかしフィアンセが真実を話してと強く訴えても、彼はその理由を明かそうとしない。彼は事件の夜、タラップを降りていった船長が何者かに襲われる現場を見たという。しかし彼は船長を助けようとしなかったのだ。メグレは思う。  

 かれ[註:メグレ]は内心、独房での、すさまじい光景をおそれていたのだ。激しい抗議、涙、接吻。
 ところが、その光景は、まるで違った。それは静かで、悲しげで、そして意味深長であった。
 青年は、かれの気に入った。というのは、ほかでもない、青年が自分のうちに閉じこもって、そっけなく、よそよそしくしていたからだ。

 
 こうしたところに、類型のメロドラマに流れない作者の腕の冴えが認められる。いままでの蓄積から、自信を持ってこう書いている様子が窺える。
ニューファウンドランドのつどい》の店主はメグレに、ピエール青年やファリュー船長の女関係を調べてはどうかとこっそり進言する。というのも、店主はピエールのトランクを盗み見て、そこに一枚の女の写真を見つけたのだ。あだっぽい女性だが、顔の部分が赤インクで強く消されている。ピエール青年は婚約者がありながら、この女性に強い感情を抱いていたに違いない。
 やがてこの写真の女性はアデールという娼婦で、ル・アーブルの不動産ブローカーであるガストンという男の情婦だということがわかった。ファリュー船長はこのアデールに入れ上げており、漁に出ている間、船室に彼女を密かに連れ込んでいたらしい。ピエール、船長、機関長は、この女を巡って争っていた節が見受けられる。だがそれ以上のことはわからない。メグレはピエール青年にずばりと問う。こうした容赦のない行動、ことに恋愛事情に関する冷酷な詰問は、メグレに特徴的なものだ。
 

「(前略)きみは、こういいたいんだろう、たしかにマリ・レオネックは賢い娘で、模範的な妻になり、子どもたちの面倒をよくみるだろう。だが彼女には、なにか欠けたものがあると。おい、そうだろう?……きみは、あの船で、なにかを知ったんだろう。船長の部屋に隠れて、アデールの腕のなかで、恐怖に、のどをつまらせながら、なにかを知ったんだろう。下劣な、獣的な、なにかを。……つまり恋の冒険の味を、……そして、かみつきたいような、なにか決定的なことがしたいような、殺すか死んでしまいたいような欲望を……」
 ル・クランシュは、びっくりしたように警部を見た。
「どうして、それを……」
「ぼくが知っているというのか?……それは男はだれしも、すくなくとも一生に一度は、そういう恋の味が自分をかすめるのを見るからだ。……泣くがいい! さけぶがいい! あえぐがいい! だが、それから二週間して、マリ・レオネックを見てみたまえ。どうしてアデールなんかにのぼせたのかと、ふしぎに思うから」

 
 メグレ夫人は港町で、不安を抱えるマリ・レオネック嬢と過ごしている。メグレの推理は進まない。堅く口を閉ざすピエール青年はいったん釈放されたが、ついに娼婦アデールとマリ・レオネック嬢が接近し、互いの立場を知ったとき、彼は緊張に耐えきれなくなったのか、銃で自分の脚を撃つという惨事まで引き起こす。
 
 ピエール青年の容態が戻るまで再尋問はできない。ここまでで全11章のうち8章が終わる。私は正直なところ読んでいて不安になった。いままでの作品ならこの段階に来れば大きな展開が生じ、事件は解決へと向かっているはずだ。それなのに本作はどこへ向かおうとしているのかなおも判然としない。冒頭で事件が示されてから、ほとんど一歩も捜査は進んでいない。曖昧模糊として、同じところを堂々巡りしているようでさえある。読者が抱くその不安は、なんとメグレ自身も抱えていた。シムノンはこう書くのだ。
 

 メグレは、すでにファリュー船長の像を創造していた。電信技手もアデールも機関長も知っていた。トロール船の生活については全体として把握しようと、さまざまにつとめていた。
 ところが、いまや、それでは不充分なのである。なにかが欠けている。すべては、わかっているが、事件の核心だけはわかっていない、そんな気がするのである。

 
 そしてメグレはトロール船の甲板に立ち、事件のいっさいを頭のなかで振り返り、次の第9章まるまるかけてこれまでの経過を再現してゆくのである。
 ところがそこまで文章を費やしても、なおメグレは真相に辿り着かず、第9章は終わってしまう! あと2章しか残っていないというのに! 
 
 本書の大きな特徴は、漁船の水夫たちの生活ぶりと港町の匂いが、シリーズのなかで初めてくっきりと描き出されたところにある。港に戻ってからのつかの間の休暇を、彼らは馴染みの酒場で大いに飲んで騒いで過ごす。しかしそのなかには亡くなった見習い水夫の父の姿もあり、男は哀しみを背負い、ひどく酔いながら罵声を発し、《大西洋号》に怒りの拳を上げる。
 ジャン・リシャールのドラマ版ではトロール船の水揚げ作業や船内での魚の解体作業といった描写も随所に盛り込まれ、長旅に出かける前に彼ら水夫たちが家族と別れを惜しむ場面も挿入される。
 本作でメグレは殺人事件の犯人を裁かない。そしてメグレ夫人は慎ましく、そうした夫を見守っている。
 そして私は最後の1ページを読んであっと思った。これは、前作『オランダの犯罪』のラストの変奏ではないか。このように本作『港の酒場で』は、シリーズの再生産作品である。それでも、作家としてついに自分の道を見つけ始めたシムノンが余裕を持って仕上げた、いっときの娯楽のための作品ということができるだろう。
 
【註1】
 ところでGooglemapで調べると、フェカンの海岸沿いに《Les Terre-Neuvas》(ニューファウンドランド亭)というレストランが本当にある。一度訪れてみたいものだ。
 

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。1995年にパラサイト・イヴ日本ホラー小説大賞、1998年に『BRAIN VALLEY』日本SF大賞をそれぞれ受賞。著書にデカルトの密室』『インフルエンザ21世紀(監修=鈴木康夫)』『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。
 

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