第20回 壊れかけのラジオ(執筆者・佐竹裕)
大好きな作家の話をしよう。
覆面作家として長くその素性が明らかにされなかった作家トレヴェニアンのことだ。残念ながら2005年に逝去。享年74。ミステリー読者の心をとろかすような名作ばかりを残したが、その傑作群の持つ色合いがあまりに多彩だったために、複数の作家による、ある種の工房的ペンネームなのではないかと推測されたりもしたと思う。本名はロドニー・ウィリアム・ウィテカー、映画学者でもあったという。
デビュー長篇『アイガー・サンクション(The Eiger Sanction)』(1972年)は、クリント・イーストウッド監督/主演で1975年に映画化された冒険小説。続く『ルー・サンクション(The Loo Sanction)』(1973年)は同じ主人公(大学教授、美術鑑定家、登山家にして殺し屋ヘムロック)のシリーズ続篇となるが、ニコラス・シアー名義の1975年作(1981年にもあり、ともに未訳)をはさんだ第4作『夢果つる街(The Main)』(1976年)は一転、カナダを舞台に初老の警官を主人公にしたハードボイルド小説で、日本でも高い評価を受けた。
そして、その人気を決定づけたのが、日本人独自の思想を学び秘伝の奥義を会得した孤高の暗殺者を描いたことで話題となった冒険小説の金字塔『シブミ(Shibumi)』(1979年)。『犬の力(The Power of the Dog)』(2005年)でおなじみの人気作家ドン・ウィンズロウが、同主人公の前日譚となる『サトリ(Satori)』(2011年)を(本国ではトレヴィアン名義で)発表したこともつとに知られている。
さらに『バスク、真夏の死(The Summer of Katya)』(1983年)では、バスク地方の風光明媚な町を背景に感傷と狂気がないまぜになったサイコ・サスペンスに挑み、ポール・ボウルズの名作短篇「あんたはあたしじゃない(You're Not I)」(1950年)の不条理性を想起させる傑作に仕立て上げた。その後、従来のウェスタン小説へのアンチテーゼとして書かれた(と思っているのですが)異色作『ワイオミングの惨劇(Incident at Twenty-Mile)』(1998年)も発表する。
これだけ節操なくジャンルの枠に括られない作家というのも珍しいと思う。しかも、そのどれもが水準の高い傑作ぞろいなのである。もちろん、作品に共通点がないわけではない。文章の素晴らしさだ。感性と言ってもいい。
作家であれば誰しも、幼少期に体験した出来事によって少なからずその感性の育みに影響を受け、作品にも投影されていくはずである。いったいどんな環境がトレヴェニアンをして、カメレオンのような作風と表情豊かな語り口とを兼ねそなえた作家に育て上げたのだろうか。
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冒頭のシーン。トレヴェニアン本人と思われる多感な6歳の少年ジャン=リュック(リューク)・ラポアントが、母ルビーと3歳下の妹アン=マリーとともに、ニューヨーク州オールバニーにあるノースパールストリート238番地へやってきて、家財道具一切をわきに置いたまま、これから住むはずの建物の玄関口の階段に呆然と座り込んでいる。
母親がリュークを身ごもったことを知る前に家を飛び出し、ほんの短期間舞い戻ったかと思うとまた彼女を捨てて消えてしまっていた、詐欺師まがいの奔放な根無し草である父親。彼からの突然の手紙で、一家はこの地に呼びつけられたのである。ところが、いくら待っても父親は帰ってこない。かくして、喧騒に満ちたスラムのようなこの町で、驚くべき創意工夫と不屈の精神力を強いられながら3人は自力で生活していかなくてはならなくなるというもの。そして、本作のもうひとつの主人公は、時代。1930年代から1940年代、世界大恐慌と第二次大戦終結までの世相が、惨めながらも誇り高い彼ら家族の生活と呼応するように描かれていく。
本作で重要な役割を果たす最優秀助演賞ともいえる小道具が、エマーソン社製の中古のラジオである。“爪が火を灯すように”(母親は「爪が」と言う)して、かつかつの生活をしているなか、母親が子どもたちの娯楽のために無理をして質屋から分割で購入する。
そのラジオからは、ドラマやコメディ、世界情勢のニュース、そしてポピュラー音楽が際限なく流れ出て、家族の心を豊かにし、リュークの空想癖や知識や感性はそこから築き上げられていく。
なかでも、タバコの人気ブランド、ラッキー・ストライク提供による「ユア・ヒット・パレード(Your Hit Parade)」は家族のお気に入りで、疲弊しきった家族にロマンティックなビッグバンドの演奏を次々と届けてくれた。1935年からスタートしたこの番組は1955年まで続き、その後テレビ番組へと移行していった。いくつかのオーケストラを抱え、ビング・クロスビーをはじめ、フランク・シナトラ、ドリス・デイといった多くのシンガーが輩出した、当時の人気番組。「パールストリートブルース」の章では、番組で流されたなかから83曲のタイトルを数曲ずつ14にわけて小見出しのように掲げて、その音楽とともに送られるパールストリートでの生活が語られていく。
その小見出しからざっと曲名を挙げてみよう――。
「キャラバン(Caravan)」(1935年、デューク・エリントン、ファン・ティゾール作曲)、
「歌に合わせて踊ろうよ(Let's Face the Music and Dance)」(1936年、アーヴィング・バーリン作詞作曲)、
「グディ・グディ(Goody, Goody)」(1936年、ジョニー・マーサー作詞/マット・ マルネック作曲)、
「五線譜のラブレター(It's De-Lovely)」(1936年、コール・ポーター作詞作曲)、
「ニアネス・オブ・ユー(The Nearness Of You)」(1937年、ネッド・ワシントン作詞/ホギー・カー
マイケル作曲)、
「誰にも奪えぬこの想い(They Can't Take That Away From Me)」(1937年、アイラ・ガーシュイン作詞/ジョージ・ガーシュイン作曲)、
「けだるいふたり」(1938年、フランク・レッサー作詞/ホギー・カーマイケル作曲)、
「恋に恋して(Falling In Love With Love)」(1938年、ロレンツ・ハート作詞/リチャード・ロジャース作曲)、
「虹の彼方に(Over The Rainbow)」(1939年、イップ・ハーバーグ作詞/ハロルド・アーレン作曲)、
「時さえ忘れて(I Didn't Know What Time It Was)」(1939年、ロレンツ・ハート作詞/リチャード・ロジャース作曲)
……いまから思えば、スタンダード・ナンバーと化した錚々たる名曲ばかりなのである。
リュークの少年時代の家族との暮らしはこうした楽曲に彩られていて、暗闇に浮かび上がるラジオの明かりとともに、その情景のひとつひとつがトレヴェニアンの清冽な言葉たちによって鮮明に甦ってくるかのようなのだ。
むろんこれらの音楽は、しのびよる戦争の影を投げかけてもいた。歌手でもあり女優でもあったヴェラ・リンが1939年に発表したオリジナルの「また逢いましょう(We’ll Meet Again)」(ロス・パーカー、ヒューイ・チャールズ作詞作曲)をインク・スポッツがカバーした演奏は、楽観的な歌詞とあいまって人気を博していた。
が、徐々に「思い出のパリ(The Last Time I Saw Paris)」(オスカー・ハマースタインII世作詞/ジェローム・カーン作曲)のように、戦争がヨーロッパに与えた影響を感じさせる楽曲が大きな意味を持って耳にされるようになっていく、といった記述がある。
ほかにも、二度と戻らぬ夫を忘れることにした母が再婚しようとする相手ベンとの思い出の曲として、ビング・クロスビーの「オンリーフォーエバー(Only Forever)」(1940年、ジェイムズ・V・モナコ、ジョニー・バーク作詞作曲)が。
ベンが徴兵される前に彼のマンドリンの伴奏をバックに家族で歌うシーンでは、「ソニーボーイ(Sonny Boy)」(1928年、レイ・ヘンダーソン、バド・デシルヴァ、ルー・ブラウン作詞作曲)が。ラスト近く、カリフォルニアの新天地へ向かおうとする列車に揺られるリュークが、その軋む車輛の音と音楽を重ね合わせるところでは、「イン・ザ・ムード(In The Mood)」(1939年、アンディ・ラザフ作詞/ジョゼフ・C・ガーランド作曲)が。随所でイメージを喚起する楽曲が巧みに使われている。というより、彼自身の脳裏に刻まれた真実の記憶なのかもしれない。
トレヴェニアンの作品には、喧騒と静謐のみならず音楽が息づいている。それが文章を妙なるものにしているのだと、ようやく気付いた次第だ。
ちなみに、『夢果つる街』の主人公である警部補の姓は、本作のリューク少年と同じだった(表記は“ラポワント”)。パールストリートで気高い母の片腕でいつづける少年と、妻の非業の死に号泣した老警官は、つまりはどちらも、謎めいた作家トレヴェニアン自身の投影だったのだろう。
◆youTube音源
●"We’ll Meet Again" by Bill Kenny & The Ink Spots
*「また逢いましょう」1944年のインク・スポッツ版。
●"Only Forever" by Bing Crosby
*ビング・クロスビーによる「オンリーフォーエバー」。
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佐竹 裕(さたけ ゆう) |
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1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。 直近の文庫解説は『リミックス』藤田宜永(徳間文庫)。 昨年末、千代田区生涯学習教養講座にて小説創作講座の講師を務めました。 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。 |
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