第2回『死んだギャレ氏』(執筆者・瀬名秀明)

 



死んだギャレ氏 (1961年) (創元推理文庫)

死んだギャレ氏 (1961年) (創元推理文庫)

Monsieur Gallet, décédé, Fayard, 1931 [原題:ギャレ氏、死亡]

Tout Simenon T16, 2003 Tout Maigret T1, 2007

 
 創元推理文庫の名物といえば、巻末の1ページに囲み線でコンパクトにまとめられた「作者紹介」だろう。子供のころ、この代わり映えのしない紹介が載っている本をつかんだときは、せっかく買ったのに「またこれか」と損をした気分になったものだが(すみません)、こうして古い創元推理文庫をめくっていると味わい深く思えてくるのだから面白い。
『死んだギャレ氏』の巻末にも載っているシムノンの「作者紹介」は次のように始まる。
 

 ジョルジュ・シムノンは、一九〇三年ベルギーのリェージュに生まれた。十六歳の時「リェージュ・ガゼット」の通信記者となり、十七歳で処女小説を発表した。二十歳で結婚、その後の十年間に十六種のペンネームを駆使して二百編におよぶ通俗小説を書きまくった。一九三一年に最初の推理小説「死んだギャレ氏」を出版、以来月一冊くらいの超人的なスピードで作品を書きつづけている。(以下略)

 

 こういわれると、メグレものを書く前に出版した200編の小説とはいったいどんなものだったのか気になってくる。私はディーン・クーンツのむかしのペンネーム作品を血眼になって探しまくるような人間なので、こうした記述は非常に気になる。
 実は Michel Lemoine[註:発音はミッシェル・ルモアヌか]という人がシムノンペンネーム時代の長編作品をあらすじつきで紹介した『L'autre univers de Simenon: Guide complet des romans populaires publiés sous pseudonymes[原題:シムノンの別世界:ペンネームで発表されたポピュラー作品完全ガイド](Éditions du C.L.P.C.F., 1991)というすごい資料があるのだ。また大部の評伝『Simenon[原題:シムノン(Julliard, 1992、増補版ペーパーバック Gallimard, 1996、初版の英訳版 Alfred A. Knopf, 1997ほか=訳者 Jon Rothschild)を著したPierre Assouline[註:ピエール・アソリーヌか]が後に発表した『Autodictionnaire Simenon[原題:シムノン自身の辞典](Omnibus, 2009)にも最近の書誌が掲載されている。それらを眺めるだけで、本当にすさまじい量を書いていたのだなとわかる。1928年なんて41冊もリストアップされている。ちょっと驚くのは、メグレものの刊行が始まった1931年でさえ10冊以上のペンネーム作品が出ていることだ。メグレものの第一期が終わる1934年までコンスタントにペンネーム作品が出ている(さらに未刊行作品が1937年に2冊、死後にもいくつか出ている)。恐れ入りましたとしかいいようがない。
 
 興味深いのは、シムノンが本名で1931年からメグレものを刊行し始める前に、メグレという名の人物が登場するペンネーム作品があったという指摘だ。こちらの個人ウェブページにまとめられている( http://www.trussel.com/maig/other.htm )。
 シムノンは1929年9月から『怪盗レトン』を書き始めた。そして何作か書きためた後、ペンネーム時代からつき合いのあったFayard(ファイヤール)で1931年2月から一気に刊行を始めていった。しかしその間、彼はペンネームでもメグレという人物の出てくる小説、ないしはメグレ警部によく似た人物が登場する小説を書いていたというのである。
 ただしシムノン自身はこれらの作品をシリーズの「前身」と位置づけていたようで、埋もれた作品を掘り起こす La Seconde Chance[原題:セカンド・チャンス叢書のうち Maigret avant Maigret[原題:メグレ以前のメグレ]とタイトルに付された4冊(Julliard, 1991)や、それらに加えて「セカンド・チャンス」叢書のもう1冊、計5編を収録した Simenon avant Simenon: Maigret entre en scène[原題:シムノン以前のシムノン:メグレ舞台に立つ](Presses de la Cité, 1999ほか)といったタイトルで復刊されたこともあったが、シムノン全集やメグレ全集には収められていない。
 上述のウェブページでは、そうした一度も英訳されていないメグレものの7作が紹介されている。ペンネームで発表された「前身」の長編4作と、シムノン名義ではあるが機会に恵まれなかった短編3作だ。日本では喜ばしいことに、『怪盗レトン』以降の本家メグレシリーズはすべて日本語で読める。長編も中短編もすべて一度はプロの翻訳家によって訳出されているから、日本はとても恵まれた国なのである。
 そしてシムノンペンネーム作品は、一部ではあるが注目作に関してここ十数年フランス本国で復刊が進み、むかしに比べると安く入手できるようになった。そうした作品のなかにはメグレのキャラクターの源流となったとおぼしき刑事が活躍するものもあるし、過去に日本の探偵雑誌で邦訳紹介された冒険小説もある。機会があればそうした作品も本連載で言及していきたいが、まずここでは先の個人ウェブページで紹介されている長編4作を含め、『シムノン以前のシムノン:メグレ舞台に立つ』収録の計5作を書き記しておこう。
 

Maigret entre en scène

Maigret entre en scène

シムノン以前のシムノン:メグレ舞台に立つ』収録作品【註1】

  • Christian Brulls(クリスチャン・ブリュル)名義 Train de nuit, Fayard, 1930 [原題:夜の列車](メグレ警部初登場作。相棒役はTorrence=トレンス刑事)
  • Christian Brulls名義 La jeune fille aux perles (La figurante), Fayard, 1932 [原題:真珠の少女、エキストラ](当初は括弧内のタイトルで発表されたが、著者の意向により再刊時にもとのタイトルへ変更された)
  • Georges Sim(ジョルジュ・シム)名義 La femme rousse, Tallandier, 1933 [原題:赤毛の女](トレンス巡査部長がメグレ警部を補助する)
  • Georges Sim名義 La maison de l'inquiétude, 1930年に新聞連載、Tallandier, 1932 [原題:不安の家]
  • Georges Sim名義 L'homme à la cigarette, Tallandier, 1931 [原題:煙草の男](メグレ警部とよく似た人物が登場するらしい)

 
 このうち『不安の家』は上記ウェブページの管理者によって英訳されているので、いずれ読んでみようと思う。だが今回、ジョルジュ・シムノンの邦訳を調べていてさらに重大な発見があったので、ぜひここに書いておきたい。
 雑誌に掲載されたまま埋もれてしまったシムノンの邦訳作品を探すため、2014年11月のとある大雨の日に池袋の一般社団法人 光文文化財団 ミステリー文学資料館【註2】を初めて訪れたところ、“メグレ以前のメグレ”作品がひとつ、すでに邦訳されていたことがわかったのだ! それは「探偵倶楽部」1956年3月号掲載のジョルジュ・シメノンマルセイユ特急」(pp.313-350)【註3】で、復刊されたフランス語の原文と突き合わせてみると、まさに上述の Train de nuit の抄訳であった。訳者はメグレシリーズに詳しい評論家・翻訳家・作家の松村喜雄氏(1918〜1992)。『黄色い犬』旺文社文庫、1976)の巻末解説で松村氏がメグレの「前身」4作品に言及していることは気づいていたが、まさか翻訳もあったとは。ファンには周知のことかもしれないが、私はまったく知らなかったのでびっくりした。
 この「マルセイユ特急」については第一期のメグレシリーズをすべて読み終えた後(すなわち本連載が『メグレ再出馬』まで進んだ後)、改めてきちんと取り上げることにしよう。それまでしばらくお待ちいただきたい。
 
 
 
 前置きが長くなった。さて今回の長編『死んだギャレ氏』は、ジョルジュ・シムノンが初めて本名で出版した作品とされている。本作はジャン・リシャール主演で1987年に一度TVドラマ化されているが(第72話)、残念ながら映像ソフトは販売されていないようだ。そのため小説版のみの感想となる。
 前作の『怪盗レトン』は売れ筋の国際謀略ものを踏襲した作品だったが、では初めて世に出たメグレ警部の物語はどうか。読んでみると、これが一転して地味な作品だったのだが、こちらのほうがむしろ後年のメグレものの雰囲気に近いのではないか。そして『怪盗レトン』のような派手さはないものの、いまなお充分に楽しめる作品なのだ。
 
 季節は6月下旬の暑いさなか。スペイン王の旅行の警備と暑中休暇で手薄になった司法警察に、聞いたこともない小さな町から、男がホテルの一室で殺されたという連絡が入る。メグレ警部はまず男の住処に行って夫人を連れて戻り、死体と対面させて、確かにその男が行商人のエミール・ギャレ氏であることを確認する。ギャレ氏は銃弾を受けて片方の頬が抉られ、しかもナイフで刺されるというむごたらしい死に様だった。
 メグレは聞き取り調査を始めるが、次第にギャレ氏の素性がわからなくなってくる。ギャレ氏は旅先からいつも妻に手紙を送っていたが、彼の仕事先はそんな男など勤めていないという。いったいギャレ氏とは何者だったのか? メグレは死んだギャレ氏の内面を想像し、ギャレ氏になりきることで真相に辿り着こうとする。
 
 本作はメグレがホテルの人々やギャレ氏の家族らの証言を丹念に聞き取ってゆく過程で成り立っている。その会話が物語の大半を占めるので、どんどん読み進められそうなものなのだが、意外に集中しないと道筋を見失いがちになる。前作の『怪盗レトン』の展開がスピーディだったので、その調子で読もうとしたら、「いや、少し待て」と何度も本にいわれるような気がした。これがシムノンの特徴のひとつなのかもしれない。
 現在、多くのエンターテインメント小説は、一、二行読み飛ばしてもストーリーが追えるように書かれている。むしろそのくらいの文章でないと読者は一発で理解してくれないし、売れないのだと思う。私も少し前までなるべく無駄の少ない文章を書こうと心がけていたが、そうすると必ず「難しくてわかりにくい」といわれてしまう。ある程度緩い文章を差し挟んだ方が、読者にとって“親切”なのだ。
 
 シムノンの文章は、決して難しいものではないと思う。登場人物は自分の考えていることを証言というかたちで語ってくれるし、心情を示す凝った比喩表現もほとんど使われていない。しかし、だからこそ人々の証言を一字一句読まないと、メグレが何を知り、何を考えたのか、わからなくなってしまいがちなのだ。
 本作でも『怪盗レトン』と同じように、捜査が進んで後半になると、メグレの心の内が地の文で書かれるようになってくる。「!」や「?」が多用される。それが作品の動きとなって、終盤へ向けて物語も盛り上がってゆく。ただそれ以前の部分で、ときおりはっとするような描写があるのだ。
 
 たとえば冒頭で、メグレがギャレ氏の夫人に会いに行くくだり。駅から別荘まで日陰がないので、陽射しをしのぐため山高帽の下にハンカチを挟んで首筋が日に焼けないようにした、とシムノンは書く。これだけで季節感が伝わってくる。玄関先で初めて夫人に会ったときのメグレの印象。「あきれるほど愛想のない五十年配の女だった。この暑さ、この時刻に、しかも人里離れた暮らしなのに、彼女は淡紫色の絹の洋服に身をかため、灰色の頭髪はほつれ毛一本も乱れていなかった。首には金の首飾り、上着にはブローチ、手には金ぴかの指輪があった。」──実際にこの目に見えるようである。こうした何気ない文章に艶があるので、地味な展開でも読み進められるのだ。
 それでも私は途中で、つい速く読もうとしてしまった。するとたちまち物語の味わいがわからなくなる。途中で私は何度か、一章前まで戻って読み直すことになった。結果的にはそうした読み方がよかったのかもしれない。
 
 ラストで次の言葉が何度か繰り返される。
  

 ただ、あの男の右頬だけが朱に染まりました……。血があふれ出たんです……。それでもあの男は、まるで何ごとかを待ちうけてでもいるかのように、依然として一点を見つめたままつっ立っていたんです……。

 
 ラストには再びメグレ夫人が登場する。いい終わり方だ。そして読者は、上記の言葉を噛みしめつつ本書を閉じることになる。まるでこの言葉に人生のすべてが籠められているかのように感じながら。
 シムノンの長編小説は、おそらく原稿用紙にして300枚ほどしかない。せわしく生きている現代の私たちは、300枚の小説なんて、ほんの2時間ほどで読むものだと思っている。ところがシムノンの本を開いていると、こんな声が聞こえてくるのだ。「急ぐな。急がずに読むがいい」と。
 それがシムノンの呼吸なのだと、私は以前に彼の単発作品をいくつか読んで知っていたはずだ。それでも私は忘れてしまっていた。
 シムノンは速筆だった。しかし本来は、彼が書いたのと同じくらいの速さで読むのがいいのかもしれない。
 彼の文章は、生きるために吸って吐く息と同じだからだ。
 
 少しネタバレの追記:【反転開始】ところで物語の終盤で検討されるトリックは、先行する某ミステリー作品でも使われていた、たぶん有名なものだと思うのだけれど、Wikipediaを見たら実際にあった事件がもとになっていると書いてあって、へえと思わず呟いてしまった。【反転ここまで】
 
 
【註1】
シムノン以前のシムノン』シリーズ全3冊の復刊版のあとがきを手がけたフランシス・ラカサン氏(アルセーヌ・ルパンの研究でも有名で、フランスの大衆文芸文化に詳しい)によると、ジョルジュ・シムノンメグレ警視の源流には、彼がペンネーム時代に書いた Sancette 刑事、ジョゼフ・ブーリーヌ刑事=別名〝ムッシュー五十三番〟、刑事B=別名《G7(ジェ・セト)》が位置づけられるという。いずれも若い刑事であり、1929年ころから書き始められている。
 また『シムノン以前のシムノン:メグレ舞台に立つ』巻末書誌によれば、本稿で言及した5作以外にも、メグレの世界とつながりそうなペンネーム作品はいくつかあるそうだ。たとえば次のような作品である。[註:刊行年がラカサン氏とアソリーヌ氏の書誌で微妙に異なる。ルモアヌ氏の書誌も参照し、より正確と思われる方を採用した]

  • Christian Brulls, L'amant sans nom, Fayard 1929 [原題:名もなき愛人](主人公Yves Jarryがメグレとよく似た刑事に出会う)→復刊Simenon avant Simenon: Yves Jarry, détective aventurier[原題:探偵冒険家 Yves Jarry](France Loisirs, 2001ほか)収録
  • Christian Brulls, L'inconnue, Fayard, 1930 [原題:見知らぬ女](後にメグレ警視シリーズでよくメグレの相棒役となるリュカ刑事と同名の、Lucas 警部初登場作。本作でリュカ警部の相棒はトレンス巡査部長)→復刊( Presses de la Cité, 1981)
  • Christian Brulls, Les forçats de Paris, Fayard, 1932 [原題:パリの重罪犯](リュカの物語なのに、作者は途中で間違ってメグレについて触れているという)
  • Christian Brulls, L'evasion, Fayard, 1934 [原題:脱出](リュカが電話口でメグレの名に触れる)

 Sancette刑事、Yves Jarry 探偵のフランス語読みがわからないので[註:「ソンセット」「イーヴ・ジャリー」か]、そのままにしたことをお許しいただきたい。
 
【註2】
 一般社団法人 光文文化財団 ミステリー文学資料館のウェブページはこちら(http://www.mys-bun.or.jp/index.html )。不勉強で私は知らなかったのだが、山前譲編・ミステリー文学資料館監修『探偵雑誌目次総覧』日外アソシエーツ、2009)というすごい資料があり、ここに「猟奇」「宝石」「探偵倶楽部」などかつての雑誌に掲載されたジョルジュ・シムノンの作品一覧があった。どんなに感謝しても足りないくらいだ。山前譲さん、ミステリー文学資料館さん、本当にありがとう! 
 ミステリー文学資料館はこうした貴重なむかしの探偵小説雑誌がなんと開架で所蔵されており、入館者は自由に閲覧できる。私も「新青年」の実物なんて手にしたのは初めてだった。しかも一般社団法人 日本推理作家協会http://www.mystery.or.jp )の会員は入館料無料なのだ! 推協にも感謝!
 
【註3】
 当時は「シメノン」と書かれていた。なお「探偵倶楽部」のタイトルページには手書き文字で「マルセィユ特急」とあり、「ィ」の字が小さい。『探偵雑誌目次総覧』でもこの表記になっているのだが、雑誌の奇数ページ左上の柱や小説本文はすべて「マルセイユ」表記なので、「マルセイユ特急」の方が正しいのだと思い、今回あえてこのタイトル表記とした。
 

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。作家。1995年にパラサイト・イヴ日本ホラー小説大賞、1998年に『BRAIN VALLEY』日本SF大賞をそれぞれ受賞。著書にデカルトの密室』『インフルエンザ21世紀(監修=鈴木康夫)』『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。
 

怪盗レトン (1960年) (創元推理文庫)

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