第17回 恋を彩る音楽たち(執筆者・佐竹裕)
以前にどこかで書いたことがあったかもしれないけれど、中学生時代に席が隣り同士だった同級生で、髪を二つ編みにしている女の子がいた。そう、三つ編みでなく。いまから思うと、ぽっちゃりはしていつつも、かなりの美女の部類だったように思う。仮にHとしておこう。
そのHちゃんが何かの授業中にとんとんと肩を叩くので横を向くと、ニコニコと微笑みながらぼくの手をいきなり摑んだのである。さらに引っ張ったその手の甲に、彼女はおもむろに針を刺した。やがて(当然ながら)ぼくの手の甲にぷくりと湧きあがる真っ赤な鮮血。あまりのことに手を引き戻すこともままならず、はっと彼女の顔を見やると、なんと破顔大笑していたのである。
何年も時が経ったいまでも、あの笑顔は忘れない。凍りついていた自分のことも忘れない。
どうも、そういった人に振り回される半生のようで、自分は「運命の女(ファム・ファタル)」にめっぽう弱い巻き込まれ型主人公なのだと、みずからに言い聞かせて生きてまいりました。
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この女性、じつは『連続殺人者の弟子』というベストセラーをものしたノンフィクション作家である主人公の妻だが、みずから自動車で壁に激突して自殺してしまっている。
彼女には、幼い頃に誘拐されて二度と帰ってこなかった双子の姉がいた。しかも、彼女自身もその誘拐犯に連れて行かれるところだった。それをすんでのところで阻止した謎の人物がいたのだ。そんな辛く重い記憶が彼女を自殺へと駆り立てたのだろうか。
主人公デイヴィッドは、この愛妻エリザベスの死のショックを乗り越えられず、次作にとりかかれないままの断筆状態。幼い息子と二人、失意の日々を送っている。そんな彼のもとに、「プリムローズ・レーンの男」と呼ばれる老人の変死事件について取材しないかと担当編集者がひさびさに訪ねてくる。その老人は一年じゅう手にミトンをはめたままで、日用品の買い出しを頼んでいる少年以外とは誰ともいっさい交渉がなく、殺害されたときにはすべての指が切り落とされミキサーで粉々にされていたというのだ。しかも、住まいにはまったくと言っていいほど指紋が残されていなかったらしい。
事件の異様さに心を摑まれたデイヴィッドは、ふたたび筆をとる決意をし取材を開始する。が、思いもよらないことに、亡き妻がこの謎の老人となんらかの関係を持っていたことがわかる。被害者宅に残された2つきりの指紋のうちの1つが彼女のものと一致したのだった。しかも、残されたもうひとつの指紋はなぜかデイヴィッドのものだった。かくして、殺人事件の第一容疑者とされてしまったデイヴィッド。身に覚えがないうえ、警察は妻の死にも彼が関与していたのではないかと疑問を持ち始めていた。
妻殺しの第一容疑者として追われながら真相究明に奔走するデイヴィッドは、死んだ老人が幼少時からストーキングしていたと思われる女性ケイティを訪ねる。彼女は死んだ妻と酷似していて、やはり少女時代に誘拐されかけたところを、謎の人物に助けられていた――。
最愛の妻の死の直前には謎めいた行動も多く、謎が謎を生み、事件は混迷の度合いを深めていくのだけれど、さらに二転三転する驚愕の展開が待ち受けている。
いやあ、質の良いトンデモ本と言ったらいいのか。かつて取り上げたスティーヴン・キングの傑作と通じるテーマだと言ってしまうと、ある種のネタばらしになってしまうだろうか。でも、愛する者を失ってしまった人間がそれをなんとか取り戻そうともがき苦しむ――誰もが願うであろうそんな気持ちが、この新人作家による力作というか野心作というか怪作というかにもあふれている。すばらしい愛と救済の物語である。
それでは、本題。ネタバレ注意も含めて、なんとも説明しがたい、そんな物語の説得力を生み出しているのが、じつは、音楽であったりする。
というのも、物語前半でたびたび回顧されるデイヴィッドとエリザベスとの出会いと恋、二人の甘い生活のシーンには、音楽がふんだんに登場しているのだ。悲劇ともいえるその後の現代の場面などには音楽が使われている記憶がないので、まさに作者は意図的に、主人公が亡き妻と共有したひとときに音楽で彩りを添えているように思われる。
大学の講義で憧れていたエリザベスとはじめて接することに成功する場面では、彼女のことを、イーグルスがかつて「駆け足の人生(Run In The Fast Lane)」で歌ったように“死ぬほど可愛い娘”だと表現する。彼の部屋を訪れた彼女は、クランベリーズ、エンヤ、ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツのCDを見つけて、さっそく痛烈にデイヴィッドを批判する。心地よい1990年代音楽にひたっていて1980年代以前の音楽を知らないままでいる、と。「どこかのティーンエイジャーの女の子のお寒いCDコレクション」だと。それだけでは飽き足らず、その足でどこからか両腕に抱えきれないほどのCDを持ち込んでくるのだ。
これがまた、おみごと。音楽がひとつの文化としてヴィヴィッドだった1960年代後半から1980年代前半にかけてのポピュラー・ヒットばかり。せっかくなので列記しておこう。
「ランブル・オン(Rumble On)」Led Zeppelin (1969)
「フリー・バード(Free Bird)」Lynyrd Skynyrd (1973)
「ラウンドアバウト(Roundabout)」by Yes (1972)
「悪魔を憐れむ歌(Sympathy For The Devil)」by The Rolling Stones (1968)
「タイム(Time)」Pink Floyd (1973)
「エドモンド・フィッツジェラルド号の難破(The Wreck Of Edmund Fitzgerald)」Gordon Lightfoot (1976)
「恋のブラス・イン・ポケット(Brass In Pocket)」Pretenders (1979)
「バッド・カンパニー(Bad Company)Bad Company (1974)
「ライムライト(Limelight)」Rush (1981)
「クレイジー・オン・ユー(Crazy On You)」Heart (1976)
「ヴードゥー・チャイル(Voodoo Chile)Jimi Hendrix (1968)
「ロング・ウェイ・ホーム(Take The Long Way Home)」Supertramp (1979)
レッド・ツェッペリンにはじまり、ハード・ロック、プログレ、フォーク、ポップ、産業ロックと、しかも郷愁を誘い胸をチクリと刺すヒット・チューンのオンパレードだ。
かように音楽の趣味を押し付けつつ、彼以外と接することを嫌い、確率の問題だと言っては週末の競馬の稼ぎで生活費をまかない、いつしかすっかり洗脳してしまう、意外性と素の魅力にみちあふれた女性。そんな彼女を失った喪失感を、もっとも強く目のあたりにするのが、盗み録りしたマイクロカセット・レコーダーの音源だ。
旅行先のホテルの浴室。シャワーを浴びながらエリザベスが熱唱していたのが、ヴィクトル・ユゴー原作のミュージカル「レ・ミゼラブル」の劇中で、貧困生活を強いられる少女時代のコゼットが歌う「雲の城(Castle On A Cloud)」である。銀行の貸金庫に預けてあるこのテープを、息子と一緒に車の中で何度も聴くシーンでは、こちらの目元がついうるんでしまった。
ちなみに、彼女と瓜二つの女性ケイティと、当然のようにデイヴィッドは結ばれてしまうのだが、彼女がカーステレオで選んだ音楽は、トーリ・エイモス。みずからのレイプ体験を歌ったデビュー曲「ミー・アンド・ア・ガン(Me And A Gun)」(1991年)で知られるが、1990年代の人気シンガーソングライターだ。ケイティはラモーンズのTシャツを着ているけれども、実際にはこのパンク・バンドのことなんて知らないだろうとデイヴィッドが考える記述もある。彼女は初対面で「フェイスブックの私の写真見ながらオナニーしないで」と言い放つ現代っ子。エリザベスとの対比のさせ方もまた巧みだ。
プロットが少々複雑すぎて、しかも微妙に解明されていない部分もあるのでは? と思わなくもないけれども、読後感充実のデビュー作。これらの音楽とともにぜひとも一読を。
ところで、当時は自分でも気がつかずにいたけれども、思えばあの手の甲鮮血事件以来、英美ちゃんに心のどこか惹かれていたのだろう。身勝手さが魅力的なヒロインたちと出会うやいなや、いまでもあの“手痛い”場面を、こんなに鮮明に思い起こすくらいだもの……あ、実名書いちゃってましたっ!!
◆youTube音源
●雲の城(Castle On A Cloud)
*映画版「レ・ミゼラブル」より、コゼット(少女時代)役のイザベル・アレンの歌声。
●"Rumble On" by Led Zeppelin
*2007年の再結成ライブから
◆CDアルバム
「Les Miserables 10th Anniversary Concert」
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佐竹 裕(さたけ ゆう) |
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1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。 直近の文庫解説は『リミックス』藤田宜永(徳間文庫)。 昨年末、千代田区生涯学習教養講座にて小説創作講座の講師を務めました。 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。 |