第7回「花婿の正体」(執筆者・日暮雅通)

 
 

8月29日(金)シャーロック・ホームズ・トークショー(日暮雅通氏×北原尚彦氏)のお知らせ
(↑早川書房サイト内ニュースリリースへのリンク)
(追記:上記イベントは満席・募集締切とのことです)

 
 


注意!

 この連載は完全ネタバレですので、ホームズ・シリーズ(正典)を未読の方はご注意ください。
 このコラムでは、映像作品やパスティーシュ、およびコナン・ドイルによる正典以外の作品を除き、全60篇のトリックやストーリーに言及します。(筆者)
 

■資料の部の原則(このコラム全体で使う略称)

 SHシャーロック・ホームズ
 JW:ジョン・H・ワトスン
 SYスコットランド・ヤード
 B=G:ウィリアム・ベアリング=グールド(研究者)
 ACDアーサー・コナン・ドイル
 BSI:ベイカー・ストリート・イレギュラーズ(団体)
 SHSL:ロンドン・シャーロック・ホームズ協会
 正典:ACDの書いたホームズ・シリーズ(全60篇)
 

●今回の変更点

「あらすじ」を登場人物一覧のすぐあと、事件の種類や結果の項目の前に、移動しました。
 
 

■第7回「花婿の正体」■

 
【1】資料の部

  • 原題……A Case of Identity(Strand Magazine英・米両版)

/略称:IDEN

/略称:『花婿』

  • 初出……Strand Magazine 1891年9月号(英)、Strand Magazine 1891年10月号(米)
  • 初出時の挿絵……シドニー・パジェット(英・米とも)
  • 単行本初版…… The Adventures of Sherlock Holmes 1892年10月14日(英)、1892年10月15日(米)

 

  • 事件発生年月……1887年10月18日(B=G)(1889年6月とする説もある。ワトスンは特に記していない。)
  • 主な登場人物(&動物)
    • SH、JW
    • 依頼人……メアリ・サザーランド(タイピスト
    • 被害者……同上(見かけ上はメアリの婚約者であるホズマー・エンジェル)
    • 犯人/悪役……ジェイムズ・ウィンディバンク(メアリの義父、ワイン輸入会社の外交員)
    • 警察官……なし
    • 若い女性キャラ……メアリ・サザーランドか?(ワトスンはウィンディバンクの歳を「三十歳くらい」と書いているので、仮に彼が30だとすると、メアリの母は15歳上なので45歳、メアリは5歳下なので25歳となる。)
    • その他……給仕の少年(名前は不明)。
    • 実際には登場しない人物……メアリの話の中だけに登場する人物として、エサリッジ夫人(メアリの知人)、サザーランド氏(故人、メアリの父)、サザーランド夫人(メアリの母)、ハーディ(故サザーランド氏の経営していた鉛管工事店の職人頭)、ネッド(故人、メアリのおじ)がいる。
  • 執筆者……JW

 

  • ストーリー(あらすじと構成)

 ホームズは数週間ぶりにベイカー街を訪ねてきたワトスンに、最近はいくつも事件を手がけていながら、面白いものがまるでないと不満をもらしていた。そこへやってきたのが、美しく飾り立てた大柄な女性、メアリ・サザーランドだった。結婚式の朝、教会に着くまでのあいだに失踪してしまった婚約者ホズマー・エンジェルを、探してほしいというのだ。
 彼女の母は、夫の死後、15歳も年下の男ウィンディバンクと再婚していた。メアリはタイピストだが、それ以外にも百ポンドという、おじの遺してくれた遺産の利子収入がある。だが、家族の負担にはなりたくないので、一緒に住んでいるあいだだけはという条件で、それをすべて母と義父に渡し、自分はタイピストの収入だけで暮らしていた。
 メアリの実父サザーランドは、大きな鉛管工事店の経営者だった。その死後、店は職人頭のハーディと母親が一緒に経営を続けていたが、その母親は、再婚したワイン商ウィンディバンクの勧めにより、店を相場より低い価格で売り飛ばしてしまう。
 そんなころメアリは、ガス工事業者の舞踏会でホズマー・エンジェルに出会い、好意をもつ。義父は彼女が舞踏会に行くことに反対だったが、止められないとわかるとワインの取り引きでフランスへ行ってしまった。メアリと母親は、元の職人頭ハーディを付き添いにして、舞踏会へ行ったのだった。
 ホズマーは舞踏会の翌日もメアリの家を訪ねてきて、一緒に散歩をした。別の日ももう一度デートをしたが、最初の散歩のときに二人は婚約してしまう。だが、義父がフランスから帰国したことにより、ホズマーは来られなくなった。ウィンディバンクが娘への来客を認めないからだ。二人は手紙のやりとりに切りかえ、ホズマーは毎日手紙をくれたが、それはすべてタイプによるものだった。
 義父が帰国しないうちに結婚してしまおうというホズマーに従い、「どんなことがあっても心変わりはしない」と聖書に手を置いて誓わされる、メアリ。彼女は母親と3人だけの結婚式を挙げるべく教会へ向かうが、別の馬車に乗ったはずのホズマーは、教会に着くと、こつぜんと消えていた。結婚式の前から身の危険を感じていたようだと言うメアリに、ホームズは、もう彼には二度と会えないだろうと言いつつ、その顛末は解明してみせると約束する。
 事件そのものはありふれているとワトスンに言い放ち、過去に似たような事件があること、ホズマーの手紙が署名までタイプで打たれていることを指摘するホームズは、すでに謎を解いてしまったようだった。
 翌日の晩、ワトスンがふたたびベイカー街を訪ねると、しばらくしてメアリの義父、ウィンディバンクがやってきた。彼はホズマーの行方なんて突きとめられないと言うが、ホームズはホズマーの正体が彼自身であることを見破っていた。ホズマーの手紙とウィンディバンクが会社から出した手紙のタイプ文字の特徴が同じであることが、決定的な証拠だった。ホームズは、ウィンディバンクがメアリの利子収入欲しさに、ホズマーに変装してほかの男に求婚しないと誓わせておいたあげく失踪したこと、馬車に乗ったあともう一方のドアから抜け出すというトリックを使ったことなどを、説明する。
 だが、ウィンディバンクを法で罰することはできなかった。メアリの兄弟や友人の代わりに鞭で打ちすえてやるというホームズの言葉を聞き、ウィンディバンクは一目散に逃げ出していくのだった。
 

  • ストーリー(ショートバージョン、あるいは本音のあらすじ)

 結婚式直前に馬車から消えたフィアンセを探してほしいという、依頼人メアリ。彼女はワトスンに言わせれば「非常識なほど派手な帽子」をかぶった「どこか間の抜けたような感じ」で「ぼんやりした顔つき」の娘だった。それもそのはず、舞踏会で知り合って惚れ込んだという相手は、実は変装した義父なのに、彼女はまったく気づかなかったのだ。散歩をするには夜を選び、口ごもるようなひそひそ声でしゃべり、光線よけだと言って色眼鏡をかけ、手紙は署名までタイプで打ち、しかも家でなく会社に寝泊まりしていて、その会社の場所も教えない相手に、ころりとだまされて、好意的にしか解釈しないという性格なのである。
 だが、人のいいワトスンは「そのいちずな誠実さの中に気高いもの」を感じ、「頭の下がる思いがした」とまで書き、一方ホームズも、「事件そのものはありふれているが、娘自身のほうがはるかに面白い」と言う。結果は、「次から次へと犯罪を重ねていって、やがては絞首刑になるような大きな犯罪をしでかすよ」とホームズがみずから指摘する相手を、野放しにしてしまうことになった。
 

  • 事件の種類……(狂言)失踪事件。犯罪は成立しなかった。義理の娘を欺して当分結婚させないことに成功したが、詐欺にも該当しないと思われる。
  • ワトスンの関与……一緒に推理しただけ(およびホームズがウィンディバンクに真相を突きつける際に同席)
  • 捜査の結果……真相を究明したが、依頼者には説明せず。
  • ホームズの報酬/事件後の可能性……報酬はゼロと思われる。

 メアリは、ホズマーの行方をつきとめたら「年に百ポンド入る」利子収入のすべてを報酬として払うとホームズに言った。一方ホームズは、「ホズマーは消え去ったものとして忘れろ」とメアリに言いつつ、彼の身に何があったのかは突きとめると約束した。したがって、ホームズが事の顛末を説明しないということは、彼女の要望に沿えなかったことを意味する。ホームズが説明しないかぎり、メアリはかなりの期間ホズマーをむなしく待ち、ほかの男性とは結婚しないわけで、問題の百ポンドは義父たちが使い続けることになるだろう。
 さらに、逃げ帰ったウィンディバンクが、ホームズがメアリに何らかの事実を話すのを恐れ、ホームズに不利な話をでっち上げることも考えられる。この一件が彼の「失敗」として悪評が広がれば、ホームズにとっては謝礼どころかマイナスの要素だけが残る事件だったということになるだろう。
 

  • 物語のポイント

 タイトルにもなっている“自己同一性(アイデンティティ)”とは、つまり「ホズマー・エンジェルとウィンディバンクは同一人物だった」ということだが、この要素(トリック)は、現代のたいていの読者ならすぐに見破ることだろう。だが、ホームズ物語は今で言う謎解きミステリ(パズラーもの)とは違うので、単純に比べることはできない。
 むしろここでは、人の外見を見て職業を当てるホームズの典型的な推理や、タイプライターの文字の特徴による推理など、彼の手法を愉しむことが肝心だろう。もちろん、袖口の二本の線だけでタイピストと判断していいのかという疑問は残る。たとえば前回紹介したテレンス・ファハティのパロディ3作目「オリジナル版『消えた花婿』」が、今月25日発売の『ミステリマガジン』2014年10月号に掲載されているが、その中でファハティはワトスンに、じゃあオルガン奏者はどうなのか、と言わせている。そういう突き詰め方もまた、シャーロッキアンたちの言う“グランド・ゲーム”なのだと思い、愉しむべきなのだろう。
 

  • ホームズの変装
    • なし
  • 注目すべき推理、トリック
    • メアリがタイピストであること、近眼であること、あわてて家を飛び出してきたこと、出がけに手紙を書いたことについての、ホームズの推理。
    • タイプライターは筆跡と同じように、ひとつひとつはっきりとした癖をもっているというホームズの説(それについて小論文を書くつもりだという)。
    • 四輪馬車に乗りこんですぐにもう一方のドアから逃げ出して、消えたように見せるという、“古いトリック”。
  • 有名なエピソード、要素など
    • この作品は、正典に繰り返し現われる類似テーマのひとつ。テーマはいくつかあり、この「花婿」と「まだらの紐」と「ぶな屋敷」は結婚する義理の娘の財産横取り、「赤毛」と「株式仲買店員」と「三人のガリデブ」は現場からの引き離し、『署名』と「這う男」は裏切りへの復讐、「赤毛」と「技師の親指」、「株式仲買店員」、「入院患者」は法外な報酬による雇用などの甘い罠、「金縁の鼻眼鏡」と『恐怖の谷』は身代わり死体と邸内潜伏だと言える。ほかにも、別な角度からの類似点分析はできるだろう。

 

  • 本作に出てくる“語られざる事件”(ホームズが関わったもののみ)
    • ダンダス家の別居事件
    • オランダ王室から依頼された、微妙な内容なのでワトスンにも話せない事件

 (この事件は「ボヘミア」中の語られざる事件、「オランダ王室に依頼された慎重な手際を要する使命」と同じものだと考えられる。)

    • マルセイユから依頼された、やや込み入った事件
    • エサリッジ氏失踪事件

 

  • よく引用される(あるいは後世に残る)ホームズのせりふ
    • 「人生ってやつは、人間が頭の中で考えるどんなことよりも、はるかに不思議なものだね。平凡な日常生活のうえの出来事さえ、ぼくらがとうてい思いもつかないことがあるのだから」
    • 「ものごとを知るのがぼくの仕事でしてね。ほかの人が見落とすようなことも見てとれるように、訓練を積んでいるのです」
    • 「ぼくは以前から、細かいことこそ何よりも重要なのだという言葉を、格言にしています」
    • 「ぼくは女性を見るとき、まず袖口に注目する。男ならズボンの膝のほうがいいがね」
    • 「いささか初歩的(エレメンタリー)なことではあるが……」

 

  • 注目すべき(あるいは有名な)ワトスンのせりふおよび文章
    • ホームズは両手の指先を突き合わせ、目を天井に向けたまま尋ねた。
    • (ホームズは)いつも相談相手となる古なじみの、ヤニで黒くなったクレイ・パイプをパイプ立てからとった。

 

  • 本作の内容またはタイトルを使ったパスティーシュ(の一部)【随時追加】
    • 「オリジナル版『消えた花婿』」テレンス・ファハティ(日暮雅通訳、『ミステリマガジン』2014年10月号)(初出EQMM 2014年2月号)【予定】
    • 「消えたボーイフレンドの冒険」(NHK TV人形劇『シャーロック・ホームズ』第4回、2014年8月19日放映、脚本:三谷幸喜)【予定】

 
◆今月の画像

【左:今月の画像(1)】「花婿」掲載の『ストランド』誌(1891年9月号)
【右:今月の画像(2)】切り抜きと手紙の包みをテーブルに置くメアリ
 
 
【2】コラムの部

  • 作品の注目点、正典における位置づけ、書誌的なことなど

 前回も書いたように、「ボヘミア」「赤毛」に続く3番目の短篇として発表されたが、実際に書かれたのは「赤毛」より前だった。前作同様、アメリカでは『ストランド』以外に十以上の日刊紙・週刊誌にほぼ同時掲載された。
 

  • 邦題の話題

“A Case of Identity”という題名をめぐる議論はさまざまにあるが、この題名に込められた意味の重要性を最もみごとに指摘しているのは、英文学者にして鉄道史研究家にして博学シャーロッキアンの、小池滋氏による論考だろう。
アイデンティティの事件簿:ゴシック小説と推理小説」と題されたその論文は、小池滋・志村正雄・富山太佳夫『城と目眩:ゴシックを読む』(ゴシック叢書20、国書刊行会、1982年刊)に収められているが、ここでは、氏がその論考をベースにして書かれたコメント(書簡)の、骨子を紹介しておきたい。前回引き合いに出したシャーロッキアン団体BHLの研究会に際して、当時世話役をしていた私宛てに送ってくださったものである(1992年3月25日付)。……そのほうが論考よりも要点をまとめやすく、長くならずにすむからだが、もし私の要約が不適当であった場合は、すみやかに深謝し訂正させていただくと、お断わりしておきたい。
 

    • 小池氏はまず、正典の中に不定冠詞“A”を用いた題名は3篇しかないことを指摘する。A Study in Scarlet(『緋色』)、A Scandal in Bohemia(「ボヘミア)、A Case in Identity(「花婿」)だ。
    • これらは、「ほかに類を見ない独特の事件である」という意味で“The”を使っている題名に対し、「いくつもあるものの中のひとつ」という意味をなす。『緋色』は「血なまぐさい事件のひとつの探求」という意味であり、「ボヘミア」は「ボヘミアにいくつもあるスキャンダルのひとつ」である。
    • とすると「花婿」も「自己同一性に関係するひとつの事件」であり、作者はほかの事件のように「ほかに類を見ない独特の事件」とは考えていない。「アイデンティティの事件」とは、このメアリだけの特異ケースでなく、普遍的なケースなのだと主張している。
    • ならば、すべての探偵小説は“A Case of Identity”という表題をもって不思議はないし、すべての推理小説で取り上げられている「事件」は「アイデンティティの事件」であるはずだ。“A Case of Identity”こそがドイルの正典全体における原型(プロトタイプ)ないし模範例(サンプル)として注目されていい作品、いやすべての推理小説の代表例として引用されるに値する作品である。
    • アイデンティティとは、「AとBが同一であることの証明」。だから探偵小説は犯人Xがすでに読者に知られている人物A、B、C、D……、Nの中のどれ(単数または複数)と同じであるかを証明することを目的とした小説、と定義できる。Xが未だ知られざる人物と同一であるという解決は、現実の犯罪捜査では普通でも、小説では許されない。
    • 英米人が自己のアイデンティティにこだわり続けるという事実は、探偵小説が英語使用国で特に栄えてきた理由のひとつ。日本人も己のアイデンティティを意識せざるを得なくなっているが、推理小説の急激な流行はこの社会状況と無関係ではない。
    • 以上から、「花婿」は探偵小説全体の代表として最も重要な位置を占めているし、最も注目を受けてしかるべき作品である。既刊の全集では従来のような邦題をつけたが、もし自分の自由な意志に従うなら、「アイデンティティの一事件」「あるアイデンティティの事件」と名付けたい。

 
 いささか長くなったが、これに私の付け加えるべきことはないだろう。「アイデンティティ」というカタカナ語が定着しつつある現在、それを使って従来の邦題と差別化するのも、ひとつの方法かもしれない。
 

  • シャーロッキアーナ的な側面

 日本ではそうでもないが、英米で最も有名なホームズのせりふは、「初歩的なことさ、ワトスン君(“Elementary, my dear Watson”)であろう。シャーロッキアンなら、このせりふが「ワトスン、早く! 針を!」(“Quick, Watson, the needle!”)と同様、正典に存在しないことはよく知っているが、“Elementary”と“〜 my dear Watson”の別々のせりふとしてなら、存在する。「エレメンタリー」と言えば、米CBS『エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY』(日本ではWOWOW放映)を思い出す人もいるだろう。パロディ/パスティーシュでの定番せりふも、この「なに、初歩さ」であるし、YouTubeに公開されているロシア製パロディ動画でも(これがまた抱腹絶倒!)、やたらに Elementary! を連発していた。
 なぜこんなことを書いたかというと、ホームズのせりふとしての「初歩さ」あるいは「初歩的なことだが」が正典中で初めて使われたのが、この「花婿」だからだ。『緋色』にはelementary、『署名』には elementalという語がそれぞれ1箇所ずつ出てくるが、本来の意味合いではない。
 一方、正典全体から見るホームズの性格からして珍しいと感じるのは、彼が本人に向かってではないにせよ、女性(メアリ)について好意的な表現をしていることだ。221bに現われたウィンディバンクに対し、「娘のほうはやさしく気立てのよい人柄のうえ、それなりに愛情深く親切で、しかも容姿が美しく、収入も多少あるのだから、世間がいつまでもひとりで放っておくはずはない」と言っているくだりである。
 事件の終わり近くではさらに、「男の顔に苦々しいせせら笑いが浮かんでいるのを見て、ホームズは顔をまっ赤にほてらせた」とあり、彼が感情をここまであらわにするものだろうかと、驚かされる。
 ちなみに、ホームズは「あの娘に兄弟か男の友人がいたら、必ずおまえを鞭で打ちすえるに違いない」とウィンディバンクに言っているが、彼は同じ『冒険』所収の「ぶな屋敷」でも、依頼人ヴァイオレット・ハンターに対し、「正直に言って、もし自分の妹だったら、賛成はしませんね」と言っている。こうしたことから、ホームズは妹という存在に弱いのか、あるいは実際に妹がいたのではないかという憶測も生まれてくるが、実際にそれをネタにしたパロディ/パスティーシュも、昔から書かれている。
 前回と同様にBHLの研究会議事録から引用したいところだが、「花婿」に関しては60以上もの疑問点が列挙されているので、特に興味深いものだけを紹介しておこう。メアリは義父の変装を本当に見抜けなかったのかという最大の疑問や、結婚に関する疑問(知り合ってから早すぎる、相手の勤め先も知らない、父親不在のまま結婚式をするか、など)、あるいは、メアリは馬鹿なのか利口なのかといった疑問や、メアリに関するホームズの推理の正当性も、ここでは除く。
 

    • 実はメアリはホズマー(ウィンディバンク)とできていて、母親をだまそうとしたのではないか?
    • 母親と職人頭ハーディとの関係は? 夫の死後何かがあったのでは?
    • ホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)は「ホームズの怒り」(Holmes Anger)のアナグラムである。
    • ボヘミア」でワトスンは、「ホームズはアイリーン・アドラーのことをつねに“あの女(ひと)”と呼ぶ」と書いているが、「花婿」の冒頭でホームズは「例のアイリーン・アドラーの写真についての事件」と言っている。「ボヘミア」ではワトスンが大げさに書いているのか?
    • 冒頭の「ぼくらがあの窓から手をつないで抜けだし……」というホームズのせりふは、ピーターパンを思い起こさせる。二人のホモセクシャルな関係にもつながる? 【今回の附記】ただし、ヴィクトリア時代から第一次世界大戦頃まで、男の友人どうしが腕を組んで歩くのは、親愛の情を示すものであり、珍しくなかった。そのことも考慮すべきかも。

 

  • ドイリアーナ的/ビクトリアーナ的側面

 先立つ2長篇『緋色』と『署名』でドイルが書いたのは、いずれも、ずっと昔に起きた事件が因縁となる復讐譚だった。一方、連作短篇では、まずボヘミア王と元オペラ歌手という派手な配役でスタートしたあと、事実上の2作目である本作では、一転して庶民が依頼人となった。ただし、現在の社会状況で判断してはいけない。タイピストというのは当時の女性の花形職業であり、鉛管工事人やガス管取り付け業者も、ガス灯の普及により当時の稼ぎ頭となったからだ。『生還』所収の「恐喝王ミルヴァートン」には、「いま引っ張りだこの配管工」という表現が出てくるが、このことから理解できるだろう。
 つまり、本作でドイルが登場させたのは、まったくの「庶民」とは言えなかった。まあ、メアリの派手な衣装から考えても、それはわかるだろう。当時の花形職業を二つ登場させたドイルは、やはり「歴史小説好きだが新しいものに目がない」人物と言えるのだ。彼がスポーツとしてのスキーを初めて紹介したり、いち早く自転車やモーターサイクルに乗ったり、果ては自動車レースに出たりしたことは、また別の機会に書くことにしよう。
 ところで、ドイルは「1枚タイプして2ペンス。1日に15から20枚打てる」とメアリに言わせているが、仮に20枚とすると、1日の稼ぎは40ペンス。240ペンスが1ポンドだから、これは6分の1ポンド。つまり6日で1ポンド。となると、ホームズが「独身女性ならかなりいい暮らしができる」という年収60ポンドを稼ぐには、360日フルに働かねばならないということになってしまう。花形と言っても、稼ぐのが大変なことに変わりはなかったのかもしれない。

 

  • 翻訳に関する話題

「花婿」について最も悩ましいのは、やはり邦訳のつけ方だろう。が、これについては前述の小池氏の論考で、ひととおりの解決は得たと思う。
 もうひとつあるとすれば、ホームズがワトスンの質問を勘違いして言う、それまで分析していた化合物の名前だ。この“bisulphate of baryta”は、直訳すると「バライタの重硫酸塩」あるいは「バライタの硫酸水素塩」。「バライタ」は barium oxide(酸化バリウム)の俗称で、The Scientific Sherlock Holmes の著者ジェイムズ・オブライエンによれば、「もう長らく使われていない用語」だ。つまり全体では「酸化バリウムの重硫酸塩(または硫酸水素塩)」ということになるが、素直に英語にすれば barium bisulphate、「硫酸水素バリウム」である。
 シャーロッキアンでもあったアイザック・アシモフは、なぜホームズが素直に「硫酸水素バリウム」と言わず、わざわざ「バライタ」という単語を使ったのだろうと指摘し、その分析は特に難しいものではないとも言っている。だがオブライエンは、「問題は分析が難しいかどうかではなく、そもそもそれを手に入れるのが難しかったことだ」と書いている。
 いくつかの注釈付き全集にあるように、硫酸水素バリウムは1843年にスウェーデンの化学者ベルゼリウスによって初めてつくられたが、20世紀に入ってからの追試験で確認されなかったりして、昔のホームズ研究者のあいだでは、この化合物が存在しないという議論もあった(もちろん存在するが)。
 翻訳するうえで迷うのは、ホームズがわざわざ「バライタ」という古い言い方をしている点をあえて活かすかどうかという点だ。現在のネット辞書などにも、「バライタ」は「バリウム化合物全般に使う」と書かれているが、ものによっては硫酸バリウムを例に挙げたり、酸化バリウムを例に挙げたり、その水酸化物も含むと書いたりしている。つまりホームズの言い方ではとても曖昧なことになった可能性もあるのだ。一方、バライタを「酸化バリウム」として使ったのなら、ホームズはアシモフの言うように「硫酸水素バリウム」を指していながら曖昧な用語を使ったことになる。
 いずれにせよ、「バライタ」を活かそうとすれば、若干曖昧な、あるいは不正確な言い方を採用する必要がありそうだ。「酸化バリウムの重硫酸塩」でなく「バリウムの重硫酸塩」とした小林・東山訳(河出文庫)は、この点をおそらく考慮したのであろう。反面、正確さを念頭に置いて「硫酸水素バリウム」とした拙訳(光文社文庫)は、若干考慮が足りなかったかもしれない。反省。
 こうした議論を延々としたあとで書いていいものかと迷うが、結局のところ、小説としてこの場面は、ワトスンに「わかったのかい?」(事件の謎を解いたか?)と聞かれたホームズが、「ああ、わかったよ、分析していたのは○○だった」と誤解して答えるという面白さが伝われば、いいわけである。19世紀の読者だろうと21世紀の読者だろうと、大半の人にとって、bisulphate of baryta が正確に何なのかという知識は必要ない。というか、なくても楽しめる。小説の訳者としては、そのあたりを心得ていればいいのではないだろうか。……まあ、こだわりのシャーロキアンたちには責められるかもしれないが。
 
◆今月の画像

【左:今月の画像(3)】化学実験器具の前でうとうとするホームズ
【右:今月の画像(4)】当時の四輪辻馬車(ホズマー・エンジェルが乗った)
 
  

★今月の余談に代えて★

 前回、ドイルの最初の2長篇は、著作権法の確立していないアメリカからまったく印税をもらえなかった、と書いた。だが、本稿第4回(『四つの署名』その2)で指摘したように、ホームズものが生き残ったのはアメリからのオファーのおかげだったと言える。また、『ストランド』への短篇連載開始後、アメリカの新聞雑誌でホームズ人気がすごかったことを考えると――そしてそのせいでホームズが世界中のベストセラーとなり、生き残り、はてはBSIができたことなどを考えると――結局はアメリカの“海賊版”もドイルのためになったのではないかと思えてくる。
 日本文藝家協会の『文藝家協会ニュース 特別号』(2014年7月31日発行)は、「文藝巡回イベント第3回大阪」における座談会の記録なのだが、その中で内田樹氏が、こんな話を披露している。
「竹宮[惠子]さんに見せてもらいましたけれど、『地球(テラ)へ……』にはロシア語版、アラビア語版までありました。どこでどんな人が出したのか知らない海外版を子供のころに読んだ人たちが、今、精華大学の漫画学部に留学してきて、竹宮先生に就いてマンガの描き方を習っている。彼らが子供の頃に読んだのは、たぶん海賊版だと思います。でも、かまわない。海賊版でも日本のマンガが際立って質が高いということが知られれば、読者が拡がり、彼らがそのうちに正規版を買うようになり、ついには日本語を勉強するようになり、日本に来るようになったわけですから。」
 歴史は繰り返す、であろうか。別の国どうしでも、繰り返すことになるわけである。

 

日暮 雅通ひぐらし まさみち)

 1954年千葉市生まれ。翻訳家(主に英→日)、時々ライター。ミステリ関係の仕事からスタートしたが、現在はエンターテインメント小説全般のほか、サイエンス&テクノロジー、超常現象、歴史、飲食、ビジネス、児童書までを翻訳。2014年も十冊ほど訳書が出る予定。
 個人サイト(いわゆるホームページ)を構築中だが、家訓により(笑)SNSFacebookTwitterはしない方針。
 

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