第6回『倫敦から来た男』(執筆者:畠山志津佳・加藤篁)
第6回:『倫敦から来た男』――スーツケースの大金が 平凡な転轍手の人生を狂わせる
全国15カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。 「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁) 今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発! |
畠山:翻訳ミステリーファンの皆さま、コマンタレブー!
杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』をテキストに、翻訳ミステリー読書会の落ちこぼれ世話人2人がミステリー通を目指す「必読!ミステリー塾」。今回もどうぞお付き合いください。
今回のお題はジョルジュ・シムノン『倫敦から来た男』。連載6回目にして初めてのフランスの小説です。そんなわけで冒頭はフランス語でご挨拶させていただきました。
- 作者: ジョルジュシムノン,Georges Simenon,長島良三
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/10/30
- メディア: 単行本
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港町ディエップで転轍手として貧しいが平凡に暮らすマロワン。ある夜、彼は転轍操作室の窓から、二人の男が争い合い、一方が密輸品とおぼしきスーツケースごと海中に突き落とされるところを目撃する。残った一人が立ち去った後、マロワンはこっそりとスーツケースを引き揚げた。中に入っていたのは50万フランもの大金!
秘密裏に手に入れた大金、その奪回を狙う殺人者“倫敦から来た男”、さらにそれを追うロンドン警視庁の刑事、そして金の所有者である富豪・・・マロワンの人生は一変する。
ジョルジュ・シムノンといえば、有名なのはメグレ警視シリーズ。警察小説の分野では、アメリカの87分署シリーズや北欧のマルティン・ベックシリーズと並び立つフランスの雄といっても差支えないでしょう。もちろん我が日本だって負けてませんよ。鬼平犯科帳、半七捕物帳、現代モノなら赤かぶ検事というグレートなシリーズがありますよね。
私はずーっと昔にメグレ警視シリーズの『黄色い犬』を読んだのですが、内容をすっかり忘れてしまっていたのでこの機会に再読した次第。しかも再読しても全然記憶は甦らず、非常に新鮮に愉しみました。トレヴィアン忘却力! ついでにシリーズの他の作品も何冊か読んでしっかり堪能。そして『倫敦から来た男』です。こちらはノンシリーズで、もちろん読むのは初めて。
早速手にとった河出書房新社さんの『【シムノン本格小説選】倫敦から来た男』は、ジャケ買い必至の装丁と触ってよし捲ってよしの紙質で、これだけでもこの【シムノン本格小説選】シリーズをズラッと本棚に並べたくなる逸品です。
なんともシャレオツな本を開いて読み始めるとそこはかとなく漂ってくる香り。こ、これはもしやっ・・・文学の香りっ!
一瞬ハードルが上がった気がしましたが、文章はいたってシンプルです。難解な言葉も観念的な表現もなく実にわかりやすい。しかもわずか180頁というスリムさでありながら、犯罪を目撃したことがきっかけで自分もまた追われる身になってしまったマロワンの戸惑いと焦り、同時に大金を手にした高揚感にも翻弄されて、少しずつ自分を制御できなくなっていく様子が余すところなく表現されています。
苛ついて奥さんに暴言を吐いてみたり、かと思えば“倫敦から来た男”の妻が打ちひしがれながら歩く様子をみて親切にしてやりたいと願ったりと一見チグハグな心の動きようだけれども、実際に同じ境遇になったらきっとこうなるんだろうなぁと思わせる説得力がありました。
登場人物の心情を事細かくは書いてないにも関わらず、読者の想像が膨らんでいく文体。
文学に対する審美眼を持ちあわせていない私でも、ちょっと惚れ惚れしてしまうくらいです。書き過ぎない。ここポイントですね。シンプルな文章の凄味みたいなものを感じました。
倫敦から来た男がどんな人物なのか、どうやって手に入れたお金なのかという部分はわりとあっさり判明するので、トリックや謎解きはありません。ひたすらじっくりと犯罪者の心理を追う・・・いや、ラストの有り様からすると犯罪者の心理に寄り添うとでも言ったほうがいいかもしれません。どことなく慈しみの視点を感じました。
さて、最近、八ヶ岳に登って己を見つめなおしてきた加藤さんはこの犯罪文学をいかに読まれたんでしょうかね? 加藤さーん! シルヴプレ〜
加藤:いや〜久々に衝撃的な読書だった〜。なにが衝撃的だったかって、思っていたものと全然違ったんだもん。
麦茶だと思って飲んだらウイスキーの水割りだったとか、隆慶一郎だと思って読んだら峰隆一郎だったとか、たまーにあるでしょ、あの感じ。それくらいの驚きだったわけです。
僕はシムノンを読んだのは今回が初めてだったのですが、名前は知っていたし、メグレ警視シリーズを書いた人だってことも一応、承知しておりました。
そんな中途半端な前知識があったため、前々回(セイヤーズ)、前回(クイーン)に続き、今回も理路整然とした謎解き系だろうという予断を持って臨んだのが間違いのモト。
ついでに言うなら「シムノン本格小説選」という叢書タイトルもイカンだろ。「本格小説」は「非ミステリ」の意味だったのかも知れないけど、マンマと「本格」の2文字に騙されたぜ。見事なミスリードだ、タケちゃんマンセブン。
そして、僕も読み始めてすぐに気づきましたよ、あの芳ばしい匂いに。え? これって、もしかして? でも僕の左脳は否定するわけです。いや待て、そんなハズはない。俺が読んでるのはガチなミステリーのはずだ。俺はちょっと疲れているに違いない。
しかし、読み進めるうちに認めざるを得なくなるわけですよ。これは麦茶じゃないって。うーん、しまった。これはエラいことになったぞ。これって、いわゆる「ノワール小説」なんじゃないの?
なにが「しまった」のかと言うと、僕がこの本を読み始めたのが、八ヶ岳への登頂を翌朝に控えたキャンプのテントの中だったのです。解放感を味わいに来た山で、思いがけず、こんな閉塞感を味わうことになろうとは。ドロドロの日常に浸かることになろうとは。そうこうしてたら、ボソボソと降り続いていた雨が急に激しくなってテントを叩いてくるわけですよ。もう、いろいろ滅茶苦茶。いくら好物でもTPOってものがあるっちゅーねん。食い合わせが悪いを通り越して、混ぜるな危険のレベル。まさにカオスというか、これぞノワールというか。とまあ、そんな状況だったのです。
とにかく本書『倫敦から来た男』は生々しいのです。思いかけず犯罪を目撃し、さらに大金を手にしてしまった、特別でない(少なくとも昨日までは平凡だった)男の悲劇。人のむき出しの本性、愚かさ、業を目にして、読者は自身を顧みないではいられない。じりじりしながら彼の行動を追うしかないのです。行動に一貫性がなく、大事なところで何度も間違った選択をしてしまう主人公。それがリアルで読んでて苦しい。そして痛い。ああ、そうじゃないだろマロワン。考えろ、冷静になれ。まだ助かるチャンスが残っているはずだ。
しかし、そんな願いも虚しく、ページをめくる度に事態はどんどん悪くなってゆくのです。もはや回避不能の破滅の予感。そこでつくづく考えてしまう。僕らはどうして、こんな救いのない話に惹かれてしまうのか。
それは、僕のなかのMゴコロ、じゃなくて、きっと誰もが持つ破壊願望というか「何もかもを捨ててしまいたい」という隠れた欲求が刺激されるからではないでしょうか。日常からの離脱を願い、現実からの逃避を夢見てしまうイケないルージュマジック。
この世に悩みの無い人なんていないと思うけど、この本を読んで「ぜんぜん面白くなかったし少しも共感できなかった」という人がいたら、それはそれで羨ましい気がします。
そんなわけで、畠山さんとは長い付き合いだけど(その昔、オコンネル『クリスマスに少女は還る』のネタを無邪気にバラされたときは殺意さえ覚えたけど)、人の1/10くらいしか悩みがなさそうな馬、じゃなかった、いつも前向きな彼女にこの本の魅力がどこまで伝わっているのか、僕は甚だ疑問に思っているわけです。
畠山:えっ・・・覚えてない(←服は裏返しに着るわ、電子レンジに胡椒をしまうわというほどに絶賛動揺中)
い、今、私は全国のミステリー愛好者からの侮蔑の視線を感じています。もっとも忌み嫌われる4文字 ネタバレ。その禁を犯す人間が読書会の世話人をやってるなんて!
嗚呼(ああ)、ついさっきまで普通に暮らしていた私に突如訪れた大苦境。これならマロワンのネコババの方がよっぽどマシぢゃないの・・・てか、なんで本書を語る上でこんな過去の因業をさらされなければならないのか。わざわざ八ヶ岳に登って思い出すことがこれなのか。
しかし、ここで言い訳やら号泣絶叫会見なぞしたら、更に黒歴史が積み重なってしまう。負の連鎖を断ち切るためにもまずはきちんと謝罪しようじゃないか。
前略
おふくろ加藤さま (BGM:井上堯之バンド)
私の愚行で大変な迷惑をかけてしまったわけであり、その損失たるや計り知れないわけであり、ここにこうしてお詫びするよりほかはなく、全ての責任は私にあるわけで、かつて貴方が酔って◯◯◯したとか、電話で◯◯◯なこと言って◯◯◯されたとか、そんなことは今は問題ではないわけであり、やっぱり謝ることしかできず、どうも、すんずれい誠に申し訳ございませんでした。
かしこ
では話を元に戻して(平常心、平常心…)
お互いに「なんだか匂う!」などと消臭剤のCMのようなことを言っております。つまり想定していたミステリー小説の形とは全然違ったということですね。さて、感じている匂いの源は似て非なるものなのか、はたまた同じものなのか・・・。
悩みがなさそうなどと言われましたが、こう見えても私だってヘッセの『車輪の下』に共感した繊細な時期があったのです。今や全てを捨てるどころか掴んだものを離すまいとするオバチャン体質になったことは否定できないけど。
じゃぁこの小説から何も得られないかというとそうでもないんですね、これが。オバチャンはオバチャンなりに破滅してしまいそうな人が心配なの。基本的にお節介だから(笑)
マロワンが肝心なところで判断ミス(ミスというより判断すること自体がもう面倒になっちゃってるっぽい)をしていくのをハラハラして見てる。彼の家族が崩壊しないか気を揉んでしまう。“倫敦から来た男”もとんでもない悪党には思えなくてどうにも憎みきれないし。ディエップに来た彼の妻なんかはもう駆け寄って慰めたり励ましたりしてあげたくなる・・・まるで長屋のおかみさんだわ、私。
最後にマロワンに突きつけられるオトシマエ(クリステル風に読む必要はありません)が天罰ととるか救いととるかは読む人次第。私は、「救い」と感じました。苦い救いとでも言いましょうか。でもだからこそリアルな人間ドラマだと思います。
そういえばメグレ警視も、犯人の内面まで理解して、時にはその哀しさや虚しさを共有してしまうようなおよそ警察官らしからぬ、人間味溢れる面がありました。
(このシリーズとっても面白いのですよ! もっと読みたいのに手に入らないものが多いのは何とも残念です。ぜひとも復刊を! 復刊を〜〜っ!)
シムノン作品は破滅する人、悪事を働く人、欲にまみれた人などを描くと同時に、人の持つ優しさ、誠実さも描き出して抑圧された中でも明日を生きる力を失わないタフな人間の姿を見せてくれているようにも思います。人生の内で一度は触れておきたい必読の作家かも。
加藤:・・・あのネタバレ事件を覚えていないだと? 僕がケンシロウに負けたときには「我が生涯一片の悔いは『クリ少』のオチを知らずに読めなかったことです」って言いたいくらい強烈な思い出なのに。てか、この10年、コトあるごとにネチネチと蒸し返してきたつもりだったのに、まったく効いてなかったのか。何というメンタルタフネス。恐るべし札幌読書会。
さて、気を取り直して。畠山さんが感じた「文学の匂い」と僕の感じた「ノワールの匂い」は実はとても近いものではないのかと思うのですが、僕にはうまく語れそうにないのが残念です。
僕は繰り返し(そしてなかば強引に)この本を「ノワール小説」として語りましたが、そのあたりの受け止め方はもちろん人それぞれだと思います。そもそも無理矢理ジャンルに当て嵌めて考える必要があるわけではないし。また、いま読まれている所謂ノワール小説、ジム・トンプソンやジェイムズ・エルロイらの作品とは随分イメージが違うと言われるかも知れません。
このあたりは、つい先ごろ出た諏訪部浩一著『ノワール文学講義』が参考になるかも知れません。ノワール小説全般というよりも、前著『「マルタの鷹」講義』に続いてハメット研究が主題の本なのですが、この中で諏訪部さんは、ジェイムズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす(1934)』やホレス・マッコイ『彼らは廃馬を撃つ(1935)』などに代表される1930年代の初期ノワール小説(当時は「ノワール小説」なんて言葉はなかったけど)に共通した構造として「閉塞した状況」「脱出への願望」そして「必然的な失敗」と書かれています。まさに1934年に出された本書『倫敦から来た男』はピッタリ当て嵌まるわけです。
これら初期のノワール小説は、トンプソンやエルロイら戦後ノワールに比べ、狂気や情念みたいなものが薄い分、意外とすんなり我が身に置き換えられてしまうというか、感情移入が出来てしまうのが怖いところなんじゃないかな。
では、なぜ1930年代にノワール小説の傑作群が誕生したのか。それには先の見えない不況という社会背景があったからではないでしょうかね。
1929年にニューヨークで株価が大暴落してから始まった世界恐慌。当時のアメリカは禁酒法下で闇酒場が栄え、ギャングが闊歩していた時代。その閉塞した世界から脱出しようと足掻く人々を描いたノワール小説が人々に受け入れられたのは、なんとなくわかる気がします。
そんなわけで、シムノン『倫敦から来た男』を激しく堪能しました。できれば違う時と場所で読みたかったけど。それにしても、マルティン・べックも87分署も大好きだったのに、なぜ僕はメグレ警視を読まなかったのだろう。
ついでながら、シムノンという名前を目にする度に、僕の前頭葉の昭和を司る部分が「はぁ〜ビバビバ」と合いの手を入れてくるのは何故だろう。(※編集部注:おそらくシムノン → ビバノン)
ところで、ここにきて、ほとんど忘れられていた作家、ジェイムズ・M・ケインが日本で再び日の目を見ようとしているのをご存じでしたか?
7月に光文社古典新訳文庫から池田真紀子訳『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が出たと思ったら、8月には新潮文庫から田口俊樹訳『郵便配達は二度ベルを鳴らす』と『カクテル・ウェイトレス』が出るとのこと。ちなみに『カクテル・ウェイトレス』はケインの遺作で初訳です。楽しみで仕方ないと思う反面、もし時代がケインを求めているのだとしたら、ちょっと怖いと思ってしまいます。
■勧進元・杉江松恋からひとこと
100冊を選ぶ際、ジョルジュ・シムノンは絶対に入れなければなるまい、と決めていました。しかし、さて、ではどの作品にしようか、と考え出すと迷ってしまう。メグレ・シリーズは、警察小説に「メグレ・タイプ」という類型が出来たほどですから里程標として重要ですが、未読の方に提供するには少し躊躇われました。いわゆる「名探偵もの」と「警察捜査小説」の中間にメグレ・シリーズはあります。メグレの行う人間観察こそが小説の要であり、それを味わうべき作品です。しかしそういった小説は初めてシムノンを読む方にはとっつきにくいのではないか。ゆえに思い切ってノン・シリーズ作品から推薦作品を挙げることにしました。
しかし、良いタイミングで河出書房新社の「本格小説シリーズ」が出ていたものでした。シムノン翻訳の第一人者というべき長島良三による好選書です。加藤さんは「本格小説」=「非ミステリ」と解されていましたが、訳者及び版元の意向は違うでしょう。「これぞ小説」という思いであるはずです。これぞ小説。プロット、人物造形、描写、すべてに非の打ちどころのない「おもしろい小説」が「本格小説」と銘打った理由かと私は考えました。『倫敦から来た男』は、戦前から何度も訳されており、映画化の定番でもある「まさにシムノン」という作品です。お二人も触れておられますが、人間ドラマの描き方、特にまったく合理的ではない主人公の行動は見事というしかありません。加藤さんが「ノワール」の一語にこだわっていらっしゃいましたが、それも故なきことではないでしょう。暗黒小説とはつまり人間の心の未分明な部分、すなわち闇を題材とする作品のことを言うのですから。戦前のアメリカ犯罪小説に起源を持つ「ノワール」ですが、もちろん源流の一つはシムノンからも出ているはずです。お好きな方はぜひ『倫敦から来た男』をご堪能ください。
というわけで次はカーター・ディクスン『白い僧院の殺人』ですね。お二人はカーをどう読まれるのか。楽しみにしております。
加藤 篁(かとう たかむら) |
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愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。 twitterアカウントは @tkmr_kato |
畠山志津佳(はたけやま しづか) |
札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?) twitterアカウントは @shizuka_lat43N |
どういう関係? |
15年ほど前に読書系インターネット掲示板で知り合って以来の腐れ縁。名古屋読書会に参加するようになった加藤が畠山に札幌読書会の立ち上げをもちかけた。畠山はフランシスの競馬シリーズ、加藤はハメットやチャンドラーと、嗜好が似ているようで実はイマイチ噛み合わないことは二人とも薄々気付いている。 |
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