第五十一回はアン・ペリーの巻(その7)(執筆者・遠藤裕子)

A Breach of Promise: A William Monk Novel

A Breach of Promise: A William Monk Novel


おもな登場人物

ウィリアム・モンク:私立探偵。元警察官。捜査中の事故で記憶を失っている。
ヘスター・ラターリィ:上流出身だが看護婦として身を立てている。ナイチンゲールの下、クリミア戦争従軍看護婦として働いた。
オリヴァー・ラスボーン:ロンドンの敏腕弁護士。


 オリヴァー・ラスボーンの事務所にやってきたのは、天才建築家キリアン・メルヴィルパトロンであるバートン・ランバートの娘、ズィラとのあいだに、自分の預かり知らぬ結婚話が持ち上がっており、ランバート家が勝手に準備を進めているというのです。そんな気はないと何度言ってもわかってもらえずに困っている、自分は本当にズィラとは結婚するつもりがないので、このままでは婚約不履行で訴えられるだろう、そのときは自分を弁護してほしい、と頼みに来たのでした。


 果たしてキリアンは訴えられ、裁判が始まります。婚約相手とされるズィラ・ランバートは、容姿が愛らしいばかりか人柄もよく、浪費癖もなく、女相続人であり、誰もが喜んで妻に迎えるはずの女性でした。しかもキリアンにとってはパトロンの娘とあって、なんの不足があるというのか、ラスボーンにもわかりません。ズィラの側にどんな落ち度や欠点があったのかとキリアンに訊いても、ズィラのなにが悪いというのではない、自分は誰とも結婚する気がない、それだけだというのです。ラスボーンはモンクを雇い、ズィラの過去について調べさせますが、縁談の妨げになるような事情はなにも出てきません。そしてラスボーンには、キリアンが何事かを隠しているように思えてならないのでした。


 こんなときは女性の視点から考えることも必要と、ラスボーンもモンクもそれぞれにヘスターに会いに行きます。ヘスターはゲイブリエル・シェルドン中尉の屋敷で、住みこみの看護にあたっていました。ゲイブリエルはインドで軍務についていましたが、インド大反乱(むかしは「セポイの反乱」と言いましたね)で片腕を失い、顔の半分を醜く損なった状態で本国に送り返されたのでした。従軍経験があり、インドの歴史などにもよく通じているヘスターとはすぐに気心が通じ、信頼関係を日々深めていきます。一方ゲイブリエルの妻パーディッタは、夫の現状を受け入れられず、インドについてもなにも知らないため、話し相手にすらなれません。この時代、上流階級の女性は家政と慈善事業にのみ携わっていればよく、世間の醜い現実からは目をそむけることが求められていました。新聞などを読むのははしたない女のすること。女は子どもを産んで家政を監督し、客のいる席ではホステス役を果たし、飾り人形よろしく美しくあればよかったのです。


 モンクはシェルドン邸でヘスターからマーサ・ジャクソンという使用人を紹介され、「亡くなった男きょうだいサミュエルの娘たちを長年探しているが見つからない」と相談を受けます。その娘たちは口元に生まれながらの奇形があり、知能も低く、父親が亡くなったあとは母親ドリーに孤児院に連れていかれたきりで、その後は娘たちのみならず母親も行方がわからないとのことでした。モンクはヘスターを喜ばせたい一心で、ジャクソン姉妹探しを引き受けます。


 キリアンの裁判はというと、検察側の弁護士サッシェバラルにより同性愛疑惑が持ちだされ、キリアンは窮地に追い込まれます。きみはなにかをわたしに隠したままでいる、法廷戦略には使用しないと誓うから、どうかわたしを信じてその秘密を明かしてほしい――ラスボーンの懇願にもかかわらず、キリアンは「この状況で、あなたができるだけのことをしてください」と答えるだけ。ランバート家との和解を模索するも果たせず、キリアン/ラスボーン陣営は絶体絶命に。そしてキリアンの身に思わぬ悲劇が訪れます――。


 本作品はモンク・シリーズ9作目。原題は《A Breach of Promise》(約束不履行)といい、内容そのままなのですが、実はこちらは新タイトル。発刊当初は《Whited Sepulchres》というタイトルがついていました。後者は新訳聖書マタイ伝23章27節が下敷きとなっていて、「見た目は美しくても腹黒い人間」を揶揄した表現となっています。


 ヴィクトリア朝といえば、男女の役割分担ががっちり決まっていて、偽善的な道徳観でがんじがらめの時代、というイメージがあります。本作ではそのがんじがらめな人々と、そこから逸脱せざるを得なかった人・逸脱することを選んだ人、との対立が描かれます。たとえばゲイブリエルの妻パーディッタは、ヘスターのように夫を支えたいとの思いからインドの歴史書に手を伸ばしますが、親族から「女の読むものではない、戦地のことを忘れさせてやれるよう、笑顔で夫につきそっていればよい」と、ことあるごとに口出しされてしまいます。無力感にさいなまれ、ときにヘスターにやつあたりしながら、パーディッタは、時代の価値観に見合ったお飾り人形でいつづけるのか、夫を支えるために周囲の無理解を承知で自分を変えるのかのあいだで揺れ動きます。


 余談ですが、パーディッタがヘスターにやつあたりして「自分が間違ってないと思っているあなたは、誰にも愛されない」と言い放った際に、同席していたモンクが淡々とヘスターを擁護するのですが、そのモンクの言葉がたいへんに胸を打つのですよ……。


 本作品はことにモンクの心の動きがよく描かれているように思えます。捜査に取り組むなかで、いろいろと考え、気づき、目覚めていくのです。ズィラの過去を調べるのに、モンクはまず自分の過去の顧客から情報を得ようとします。私立探偵であるモンクは、家庭内の些細なもめごとの解決や失せもの探しなどで生計を立てており、そうした仕事を警察時代の大捕り物と比べてつまらなく思うこともあったのです。しかし今回、突然訪ねてきた自分を過去の顧客たちが快く迎え入れて歓待し、捜査に協力してくれることを通して、小さな仕事でも誠実に取り組んでよかった、こうしたことこそが大切だったのだと思い至ります。


 物語はマーサの姪っ子探しも絡んで二転三転し、とりわけ最後の二章分は心臓バクバクです。


 そして本作品の最後に、ヘスターがあることについて答えを出すのですよ。ふふっ。


 ミステリとして楽しめるのはもちろん、モンク・シリーズの節目にあたる作品として、ぜひ翻訳を出してほしい!! と切に願います。


 翻訳といえば、『護りと裏切り』が出てはや1年。次の訳書はいつ出るの〜? と思っていらした方に朗報です。次作品が訳了したとの情報を、翻訳者さんから頂戴いたしました! 刊行はいつごろになるでしょうね? いずれにせよ楽しみですね〜!


遠藤裕子 (えんどうゆうこ)

出版翻訳者。建築、美術、インテリア、料理、ハワイ音楽まわりの翻訳を手がける。ヨーロッパ19世紀末の文学と芸術、とくに英国ヴィクトリア朝の作品が大好物。趣味はウクレレとスラック・キー・ギター。縁あってただいま文芸翻訳修行中。


護りと裏切り 上 (創元推理文庫)

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護りと裏切り 下 (創元推理文庫)

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