翻訳ミステリー長屋かわら版・第43号

   田口俊

 暮れに机の引き出しの中身を整理していたら、何年もまえにアイルランドで買って、それっきり忘れてしまっていた絵はがきが出てきました。

 緑の牧草地を背景に、大人のヤギ(親ヤギ?)がうしろを振り向き、ちょっと小首を傾げるようにして子ヤギを見下ろしている写真の絵はがき。

 それ自体はなんてことない写真なんですが、その下についているキャプションがちょっと可笑しくて買ったんですね。そのキャプションとは――



 Here's looking at you, kid.



 英語がおわかりになって、外国映画がお好きな方には説明不要と思いますが、そうでない人にはちょっとおつきあいをお願いして、この手の講釈の野暮を承知で説明すると、これは往年の名画『カサブランカ』の中で、ハンフリー・ボガートイングリッド・バーグマンに何度か言う有名な台詞で、日本では「きみの瞳に乾杯」という高瀬鎮夫さんの名訳でもよく知られています。

 で、実際、この台詞、「〜に乾杯」という意味にはちがいないんですが、字義どおりに解すると「ここからきみを見ているよ」ってな意味にもなる。でもって、kid というのは、映画の中ではボガートがバーグマンに何度か呼びかける愛称ですが、もちろん「子供」という意味で、もう日本語にもなっていますよね。でも、もともとは「子ヤギ」のことです。

 この台詞をご存知でなかった方ももうおわかりになりました? いちいち説明すると逆に可笑しさがそがれちゃうかもしれないけれど、要するに、名台詞を逆手に取ったそのまんまに、にやりとさせられたわけです。

 でも、今回はここからが本題。

 さきほど書いたとおり、「きみの瞳に乾杯」は名翻訳家、高瀬さんの名字幕(「愛とは決して後悔しないこと」もこの方の訳です)の中でもひときわ有名なんですが、原語のもともとの意味はどんな感じなんだろうってふと思いましてね。ネットで検索したら、出てくるわ、出てくるわ。ネーティヴも含めていろんな人が実にいろんなことを言ってるんです。それはもうびっくりするくらい。

 私自身は何かで読んだか、誰かに聞いたかして、この台詞自体はことさら独創的というわけでもない、昔からある乾杯の音頭、と漠然と理解してたんですがね。でも、そんな台詞だったら、これほど有名になるだろうかって疑問も新たに湧いてきて(この台詞、あちらでも映画のオールタイム・ベスト台詞の上位常連です)さらにネット上のいろんな人のいろんな解釈を見ていると、段々よくわからなくなってきちまいましてね。で、常日頃から信頼申し上げているネーティヴお三方に訊いてみたんです。

 まずおひとりは英語のことでわからないことがあると、しょっちゅうお世話になっている日本在住のイギリス人の大学の先生、あとおふたりはローレンス・ブロックさんとマイクル・Z・リューインさんなんですが、これが訊いてみてまたびっくり。

 お三方の答が三者三様、全部ちがってたんです!

 ちょっと話が長くなりました。この三先生の答については次回のこのコラムでということで。"You haven't heard nothing yet!"→「お楽しみはこれからだ!」(これも高瀬さんの訳ですね。うまい、座布団十枚!)

(たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬とパチンコ)


    横山啓明

このところ、まったく外出できない状態が続いています。
ほぼ引きこもりです。
出口までもう少し。


気になる展覧会がやってきます。
フランシス・ベーコンラファエロ
ゆっくり絵を見たい……

(よこやまひろあき:AB型のふたご座。音楽を聴きながらのジョギングが日課。主な訳書:ペレケーノス『夜は終わらない』、ダニング『愛書家の死』ゾウハー『ベルリン・コンスピラシー』アントニィ『ベヴァリー・クラブ』ラフ『バッド・モンキーズ』など。ツイッターアカウント@maddisco


 鈴木恵

《ミステリマガジン》の007特集を読みながら某国の核実験のニュースを横目で見ていて、ふとひらめいた。核兵器なんかもう古い。開発しても世界中からいじめられるのがおちだ。それより、傲慢な核保有国クラブの鼻を明かす起死回生の新兵器を開発したほうがいい。その新兵器を思いついちゃったのである。実現したらノーベル賞もの、いやノーベル平和賞ものの新兵器。それは何かというと、核弾頭だけを起爆させちゃう光線! これを敵国のほうにビビッと照射すると、たちまち敵の保有する弾頭の核分裂が始まっちゃうのである。だからみんなあわてて核兵器を廃棄しはじめる。考えるだけでも愉しいね。ぜひ実現してもらいたい。ま、実現が無理なら、誰かこのアイデアを買ってくれるだけでもいいんだけど。J・ディーヴァーさんあたりがこれで007シリーズの最新作を書いてくれたりしないかな。え? とっくに誰かがどこかで書いてる?

(すずきめぐみ:文芸翻訳者・馬券研究家。最近の主な訳書:サリス『ドライヴ』 ウェイト『生、なお恐るべし』など。 最近の主な馬券:なし orz。ツイッターアカウント@FukigenM


    白石朗

 1月末、仕事で約20年間つかってきたNECのPC-9821Ap/M2が息絶えた。仕事を終えてワープロソフトを終了させようとしたタイミングでハングアップ、強制再起動するも、内部増設していたLogitecのIDEハードディスクのシークエラーでDOS起動中に「不正な割り込み」が発生。顔から血の気が引きつつ、急ぎDOSのFDで起動させて走らせたDOSノートンでもファイルシステム滅茶苦茶エラーは復旧できず。ただし試みに別の9821用ハードディスクを取りつけるとすんなりWindows 95が起動するので、内蔵リチウムイオン電池が多少へたっているとはいえ、本体はマザーボードも増設メモリもまだ動くようだ。たまたま良ロットだったのかもしれないが、あのころのパソコンはタフですね。20年といえば新生児が成人する歳月。YMOがバツつきで再生した年からいままで、ほぼ毎日動いていたハードディスクともども立派。これまでほんとにありがとう。
 キーボードやモニタ、ファイルスロット用3.5インチFDドライブ(そういうものがあるのです)などの周辺機器をとりかえながら延命させ、しつこく管理工学研究所(愛称K3)のワープロソフト〈松〉で70冊ばかり翻訳してきたマシン。指も目もこのマシンと98シリーズの特性を最大限に活かしたソフトに特化してしまっているうえに、自分でも気づかなかったほどの愛着もあり、二、三日はかなりの落胆でほとんど記憶がない。しかしそうもいっていられないので、以前からWindows機で利用していた上記K3のワープロソフト〈松風〉とIME〈松茸〉が確実につかえる環境をようやく整え、なんとか仕事のペースをとりもどした……というのが近況です。

しらいしろう:1959年の亥年生まれ。進行する老眼に鞭打って、最近はワープロソフト〈松風〉で翻訳。最新訳書はグリシャム『自白』、ブラッティ『ディミター』、デミル『獅子の血戦』、ヒル『ホーンズ―角―』、キング『アンダー・ザ・ドーム』など。ツイッターアカウント@R_SRIS


   越前敏弥

 リチャード3世の遺骨発掘を機に、ジョセフィン・テイの『時の娘』がよく売れているようですね。めでたし、めでたし。偶然ですが、朝日カルチャーのクラスなどでもちょうど課題書にしている関係で、つい最近再読したばかりでした。
 ツイッターにも書きましたが、この作品の表紙は、ポケミスから文庫への流れのなかで、城→抽象画→肖像→城→肖像と変わっています。最初の城から抽象画への変化は、ポケミス全体がそうなったわけだから納得できるけど、文庫になってからの肖像→城→肖像はちょっと謎。




 それと、ものすごいページターナーではあるけれど、これだけ同名の人物がたくさん出てくると、退化驀進中の脳には少々きつかったというのもたしか。こういうのこそ、電子版で本文から系図や人物表にジャンプできるとかやれるようになるといいな、なんて思います。いや、邪道だとおっしゃる向きもかならずいらっしゃるでしょうけど。

(えちぜんとしや:1961年生。おもな訳書に『解錠師』『夜の真義を』『Yの悲劇』『ダ・ヴィンチ・コード』など。趣味は映画館めぐり、ラーメン屋めぐり、マッサージ屋めぐり、スカートめくり[冗談、冗談]。ツイッターアカウント@t_echizen。公式ブログ「翻訳百景」 )


 加賀山卓朗

 会う人会う人激賞する『レ・ミゼラブル』。誰かが嗚咽しはじめると、もうみんな安心したように泣き濡れるそうですね。別に泣くことが目的ではありませんが、私も見たい(悶)。でもまだしばらく無理。どうかそれまで上映が続きますように。
 とか言いながら、2週間前のNHK「沢木耕太郎 推理ドキュメント」はしっかり見ました。ダイオウイカにはあまり興奮しなかった私(見てるじゃん)ですが、これはとてもおもしろかった。「崩れ落ちる兵士」は本当にロバート・キャパが撮ったのか。その1枚で世界的な名声を手にしたあと、なぜ彼は取り憑かれたように危険地帯に飛びこんでいったのか。物証と心理洞察を取り混ぜた、まさに推理小説の醍醐味。してみると、"The Falling Soldier"というタイトルにも含意があるように思えますね。

(かがやまたくろう:ロバート・B・パーカー、デニス・ルヘイン、ジェイムズ・カルロス・ブレイク、ジョン・ル・カレなどを翻訳。運動は山歩きとテニス)


   上條ひろみ

 松田青子の『スタッキング可能』を読んでいたら、登場人物のひとり(ベテランOL)がうんざりする日常から逃避するための「最強の武器」として「コージーミステリ」をあげていた。あまりに感動したので、ちょっと長くなるけど引用させていただく。

(以下引用)
 そしてコージーミステリには、これまでの人生でD山が大人げないほど読み漁った海外ミステリに出てくる、謎とは別の部分でD山の心を打ちまくった要素が抽出され、濃く煮出されていた。アフタヌーンティークロテッドクリームとジャムを添えたスコーン。主人公が経営する小さなお店。小花柄の壁紙。銀器。朝食付きホテル。田舎町。主人公といい感じになるハンサムな隣人。かりかりベーコンと卵料理。(中略)コージーミステリは、ゼリーのプールにダイブインするみたいに、一瞬でその世界に沈めた。
(引用終わり)

 同志よ!!本を読んでこれほど激しく共感したことがあっただろうか。さらにこのあとD山は、コージーミステリはシリーズがたくさんあってすばらしい、製造中止になったらもう自分は終わりだ、とまるまる一ページにわたってコージーミステリを絶賛しつづけ、「ディズニーランドよりも強力なファンタジー」とまで言ってのける。D山、きみは正しい! しかも「ゼリーのプールにダイブイン」て、なんてキャッチーなフレーズなんだ! 思わぬところでコージー愛を目の当たりにしてコーフンしてしまいました。
 ちなみにD山のお気に入りのコージー作家はローラ・チャイルズで、今は〈卵料理のカフェ〉シリーズを読んでいるらしい。

(かみじょうひろみ:神奈川県生まれ。ジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ・シリーズ〉(ヴィレッジブックス)、カレン・マキナニーの〈朝食のおいしいB&Bシリーズ〉(武田ランダムハウスジャパン)などを翻訳。趣味は読書とお菓子作り)
 
 

これまでの「長屋かわら版」はこちら


カサブランカ [Blu-ray]

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償いの報酬 (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)

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ミステリマガジン 2013年 03月号 [雑誌]

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007 白紙委任状

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