偵察任務#04・早川書房編集部編『ミステリアス・ショーケース』(執筆者・矢口誠)

 

ミステリアス・ショーケース (ハヤカワ・ミステリ)

ミステリアス・ショーケース (ハヤカワ・ミステリ)

 
タイトルをご覧いただければわかるとおり、今回とりあげる作品は短篇集である。しかも、個人短篇集ではなく、企画物のアンソロジー。そのため、参加翻訳家も7人にのぼる。しかし、勘違いしないでほしい。これは「一冊読むだけで7人もの翻訳家を一気に偵察できるお手軽企画」などでは断じてない。そもそもわたしは、田口俊樹先生や伏見威蕃先生の翻訳を云々するつもりは毛頭ない。わたしがこの短篇集を購入した理由はただひとつ、青木千鶴の翻訳作品が2本収録されているからだ。そう、ここだけでの話だが、わたしはいま青木千鶴にハゲしく恋をしているのだ!
 
と書くと、「ヤグチさん、年末恒例のミステリー忘年会で一目ボレか?」とか、「なら、山田久美子とはもう破局したのか?」とか、「でも、ヤグチさんの奥さんって、佐々木希よりカワイイって話だろ? なんで浮気なんか……」とか、根も葉も1ミクロンもないような噂が飛び交うに違いない。しかし、ここではっきり断言しておく。わたしは青木千鶴に会ったことは一度もないし、年齢も知らなければ、どんな人なのかもまったく知らない(ついでに言うなら、山田久美子とは〈い・け・な・いルージュマジック〉さえしたことがない)。わたしが恋をしているのは、純粋に青木千鶴の「訳文」なのである。
 

 
ちなみに、わたしが訳文に恋をした翻訳家はチヅリン(←命名=矢口誠)が最初ではない。ただし、中原裕子や松下祥子など、その数は決して多くない。というのも、恋とは不思議なもので、すでに「あの人は翻訳がうまい」と定評のある人には、なぜか恋心が芽生えないからである(わたしが中原裕子や松下祥子に恋をしたのも、お二人がまだ訳書をそれほど出していない頃だった)。たとえば、わたしは田中一江や池田真紀子の翻訳を読むと、「ほんとうまいよなぁ」と思う。しかし、決して恋はしない。恋には「ハッとしてグッとくるような不意の出会い」が必要なのだ!!(←トシちゃんかよ)
 
では、わたしがはじめて読んだチヅリンの訳書はなにか? じつは恥ずかしながら、これがデイヴィッド・ゴードンの『二流小説家』なのだった。昨年の各種ベストテンで軒並み1位にランクされたあの作品を読むまで、わたしは不勉強にもチヅリンの存在を知らなかったのである。しかし、おそらくだからこそ、出会ったときの衝撃は大きかった。
「この訳文、ちょっとヤバくね? マジでオレの好みじゃね?」
そこでわたしは、チヅリンが訳したブルース・ダシルヴァの『記者魂』もすかさず読んでみた。そして、こっちの訳文にも恋をした。大袈裟にいうならば、この2作を読了したときのわたしは、『戦火のかなた』を観たときのイングリッド・バーグマンもかくやという盛り上がりぶりだったのである(若い人は知らないかもしれないが、ハリウッドの大女優だったバーグマンは、イタリア映画『戦火のかなた』を見て深く感激し、夫と子供を捨ててイタリアへ飛び、監督のロッセリーニと結婚してしまったのだ)。
 

 
では、わたしはチヅリンの訳文のどこに恋をしたか? まずひとつは、ギャグを訳すセンスだ。『二流小説家』も『記者魂』も要所要所にギャグがちりばめられているのだが、これが声を上げて笑っちゃうくらいおかしいのである。
わざわざ説明するまでもないだろうが、翻訳物の場合、ギャグが面白いかどうかは原著者の力量による。しかし、それが笑えるかどうかは、ほぼ100パーセント訳者の力量にかかっている。ここで重要なのは、落語とおなじで、文章の「呼吸」だ。たとえば、つぎの例を見てほしい。
 

【1】「ねえ、チヅリン。あしたのデートはどこに行く?」と誠は訊いた。すると千鶴は答えた。「どこでもいいわ。でも、まんだらけだけはイヤよ」
【2】「ねえ、チヅリン。あしたのデートはどこに行く?」と誠は訊いた。すると千鶴は答えた。「まんだらけでなければどこでもいいわ」
【3】「ねえ、チヅリン。あしたのデートはどこに行く?」と誠は訊いた。すると千鶴は、「どこでもいいわ。でも、まんだらけだけはイヤよ」と答えた。

 
この【1】から【3】、お読みいただければわかるが、文章的な違いはほとんどない。しかし「呼吸」は明らかに違う。わたしがいちばん優れていると思うのは【1】だ。【2】は最後のセリフがもたつき気味だし、ちょっと説明的すぎる。【3】は、セリフの中身よりも「答えた」に力点が寄りすぎている。そのため、笑いのポイントに焦点が合っていない。
 
原書にジョークやギャグがある場合、翻訳家はこうした微妙な文章調整をしながら「笑える訳文」をつくっていくわけだが、最終的に笑えるか笑えないかは、文章の呼吸ひとつにかかっている。そして、チヅリンの場合は、この「呼吸」がじつに見事なのである。
 



 
チヅリンの訳文に恋したもうひとつ理由は、文章のリズムにある。わたしは自分で翻訳をするとき、どうしても文章のリズムが気になる。ゲラで訳文をチェックするときには、訳文の正確さよりも文章のリズムを重視してしまうほどだ。
たとえば、「グレンはオープンカーに乗りこむと、波川を抱き寄せてキスをした」という文章があったとしよう。するとわたしは、ゲラを読むときに、まず「タタンタ・タータンタータ・タタタタタ」とリズムを確認する。そして、そのリズムが気に食わないと、果てしのない長考に入ってしまう。
これは、他人の訳した小説を読むときでもそうだ。文章のリズムがよくないと、どうしても作品世界に入っていくことができない。その点、チヅリンの訳文はこのリズムがすばらしい。たとえば『二流小説家』の冒頭を例に挙げると――
 

小説は冒頭の一文が何より肝心だ。唯一の例外と言えるのは、結びの一文だろう。結びの一文は、本を閉じても読者のなかで響きつづける。背後で扉が閉じたあと、廊下を進むあいだもこだまが背中を追ってくるように。だがもちろん、そのときには手遅れだ。読者はすでにすべてを読み終わってしまっている。

 
どうだろう? わたしなどはこうした文章を読むと、そのなめらかなリズムに、生理的な快感を覚えてしまうのだが……
 
ただし、ここできちんと断わっておくが、わたしは「青木千鶴の翻訳は非常に優れている」と言っているわけではない。連載の第1回でとりあげた「文章の語尾」の問題などとは違い、文章の呼吸やリズムは、善し悪しの線引きがむずかしい。好みだって十人十色だ。そもそも、このわたしに文章の呼吸やリズムを語る資格があるのか、という問題もある。わたしが「すばらしいね」と言ったからといって、本当にすばらしいかは別問題なのである。
しかし、だからこその「恋」なのだ。他人の意見は関係ない。わたしには、チヅリンの文章のリズムがグッとくるほど心地よく感じられる。肝心のはそこだ。恋とは、いついかなるときも、当事者ふたりだけの問題なのだ。
 
重なり合う、ボクと千鶴の呼吸。
ひとつに溶け合っていく、ボクと千鶴のリズム。
そのリズムはだんだんと速度を増していき、やがて千鶴が熱い吐息を漏らす。
「あぁ、ヤグチさん。あたし……もう……イッ……イッ…………」
い、いったいオレは何を考えているんだぁぁ!!!
 


『ミステリアス・ショーケース』の話をしないといけないんだったね。しかし、今回は短篇集ということもあり、とくに語りたいことはあまりない。肝心のチヅリンが訳した2本はともに『二流小説家』のゴードンの作品だが、水準以上の作品とはいえ、大傑作というわけではないし。
ただ、一翻訳家としては、トマス・H・クックの「彼女がくれたもの」(府川由美江訳)の翻訳に大きな衝撃をうけたことだけは言っておこう。この作品には、「ストリートに人けはなかった」とか、「彼女はアパートメントのドアをあけ、中に入ってライトをつけた」とかいった文章があるのだ。従来、こういうのは「通りに人けはなかった」「明かりをつけた」と訳したものだ。しかし、いまや時代は変わったのである。個人的には、「粉雪の舞う夜空の下、おれはニューヨークのストリートを歩いていた」とか訳すと、なんか佐野元春的すぎて気恥ずかしいのだが……それはたぶん、わたしがジジイになったということだろう。文章を書く仕事をしていると、いちばん怖いのは「自分の日本語感覚が古くなる」ことである。そうした危機を回避するためにも、新しい翻訳小説をつねに読みつづけることは大切だと思う。
 

 
ということで、今回の偵察任務は終了である。しかし、なんか最後は話が脇にそれてしまったこともあり、わたしの言いたいことをチヅリンにうまく伝えられなかった気がする。そこで、最後にわたしの気持ちをハッキリ伝えておこう。
千鶴、オレと結婚してくれ!!(←おまえは塩谷瞬かよ)
あれ? チヅリン、なんかドン引きしてないか? だけどオレは真剣だぜ。矢口誠はシンケンジャー、なんちって(←塩谷瞬ハリケンジャーだって)。
 
矢口 誠 (やぐち まこと)

1962年生まれ。翻訳家・特撮映画研究家。光文社「ジャーロ」にて海外ミステリの書評を3年間担当。主訳書はレイ・ハリーハウゼン大全』河出書房新社刊)。最新訳書はアダム・ファウアー『心理学的にありえない』文藝春秋)。好きな色は赤。好きなタイプの女性は沢井桂子(←誰も訊いてねぇーよ)。
 
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