アガサ・クリスティー攻略作戦 第八十回(執筆者・霜月蒼)

 デビュー以来コンスタントに2年に1作以上のペースでノンシリーズ作品を刊行してきたクリスティーだが、前回の『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』と、今回の『殺人は容易だ』クリスティー文庫)のあいだには4年のブランクが空いている。創作意欲の低下ゆえではない――この4年間に、クリスティーは10作もの作品を発表しているからである。その10作すべてが(中編集『死人の鏡』を含む)エルキュール・ポアロもの。
 かくも長いあいだノンシリーズを書かなかったことは、これ以前にはなかった。



殺人は容易だ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

殺人は容易だ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)



【おはなし】

 植民地からイギリスに戻ったルークは、ロンドン行きの列車内でひとりの老女と会った。老女は、自分の住む小さな村で村人の死が続発している、それは他殺なのだと主張した。これからスコットランド・ヤードに直訴しにいくのだと。
 老女の話を聞き流したルークだったが、問題の老女が警察に着く前に自動車事故で死亡したこと、老女が「つぎの犠牲者だ」と言っていた村の医師が突然の敗血症で死亡したことを知り、真相を究明すべく、問題の村に赴いた。劇薬の誤飲、川への転落、高所からの転落……確かに村では変死がたてつづいていた。しかし被害者にも手口にも共通点はない。
 あの老女は言っていた――殺人は容易だ、その殺人者が誰にも疑われないような人間であれば。いったいそれは誰なのだろうか??


 ウェルメイドな本格ミステリ、という感じ。小さな錯誤が謎を生み出してラストの衝撃に結びつくクリスティーらしい手口である。この「錯誤によって謎が生み出されていること」自体がギリギリまで読者には不可視であって、それが見えた瞬間に急転直下で真相に到達する、というのも『邪悪の家』などに通じる。要するに「『ナイルに死す』以前のクリスティー」の流儀の作品(本作は『ナイル』以降の発表だが)。言い換えれば、「地味でちょっと退屈だけど騙しが小気味よいから満足感は残る」、そんな感じ。


 「地味でちょっと退屈」なのは、本作がこれまでのノンシリーズ作品(ウェストマコット名義を除く)とは物語のトーンがちがうからである。なんというか目がチカチカしそうなくらいカラフルでにぎやかだったあの感じが影をひそめ、非常に抑制された筆致なのである。ときどき、事件の舞台となる村に伝わる魔女伝説やら黒魔術の儀式やらの話が登場して、めずらしく(少しだけだけど)ダークな気配まで漂うのである。とはいえそこはクリスティー、良くも悪くもオカルティズムには踏み込まない。なので話の印象はひたすらモノトーンで地味、という感じになってしまうのだ。
 『茶色の服の男』から『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』まで、「元気さ余ってストーリーがとっちらかる」のがノンシリーズの持ち味だったのに本作でそんなムードが一変しているのは、主人公が比較的落ち着いた成人男性であるせいもあるかもしれない。いつもだったら主役を張るだろう若く知的な娘ブリジェットは脇役であって、終盤までほとんど活躍しない。しかもこれまでのヒロインたちと同じような性格を与えられていながらも、ブリジェットには屈託があって、自分を殺して退屈な結婚に甘んじるような女性なのだ。このあたり、これまでは気の向くままにおきゃんな娘を描いてきたクリスティーの成熟の気配を感じて面白い。


 さてミステリとして本作をみると、死因も年齢も性別も職業もまちまちな村人たちが次々に死んでゆき、いずれも殺人であることはわかりきっているから、「これはミッシング・リンクものだろ?」と(おれのような)焼きの回ったミステリおたくは考えたくなるはずだ。「同一犯によって多数の人間が殺されているのだから、そこには何か共通点があるはずだが、一見そう見えないので頑張ってつながりを探そう!」というのがミッシング・リンクというやつで、本格ミステリのパターンのひとつである。
 ところがクリスティーは「ミッシング・リンクの謎」を強調しない。例によって「謎」を魅力的に見せようという気がないようで、「たくさんの村人が死んでいるなあ、たぶんつながりが何かあるんだろうけどさ、ときに犯人は誰なんだろうネ?」という感じの緩い「謎」の意識のみを駆動装置として、本作はしずしずと進められてゆく。
 で、結局のところ「ミッシング・リンクもの」とは言いがたい仕掛けなのである。


 いちおう「全員をつなぐ、あるひとつのポイント」は存在する。のだけれどもそれは推理して導かれるのでなく情報として主人公に与えられるのである。「被害者同士の共通点」は、ひとつの手がかりにすぎないのだ。では、それを手がかりにしてたどりつく真相のキモは何であるか?


 「意外な犯人」である。


 ホワイダニットでもハウダニットでもなく、フーダニット。クリスティーはどんなときもそこで勝負する。本作も、すべてはそこから逆算されている。
 すでに何度か書いたように、クリスティーは、ミステリを読む者がどんなときにある人物を疑い、どんなときに容疑者から外すか、ということを非常によく心得ている。それを踏まえた小さな描写の積み重ねで読者をひっかけるのをクリスティーは得意とした。
 だが本作は、「あるひとつの箇所」での大胆な引っかけ一発でめくらましをやってのけているのだ。あとになって問題箇所を読み返すと、ギリギリのつなわたりをやっていることがわかってドキドキします。大胆きわまりない。


 けれども、地味であることは否定できないなあ。地味ですよ地味。謎解きのキレ味はすこぶるよいが、この地味さが本作についてあまり語る者がいない理由のひとつなのではないか。
 おれ自身はロス・マクドナルドとかで育ったミステリ者であるからリアリズムを導入したクライム・フィクションが好物ではあるものの、リアルならいいってものではない。単なるリアリズムは日常の退屈を写し取ったものにすぎない。『殺人は容易だ』のリアリズム/リアリティには、そういう退屈さを否定できない。
 だが、クリスティーは本作をもっとにぎやかなものにすることもできたのだ。さきに述べたブリジェットを昔のように活躍させればいいのだから。いつものようなおきゃんな話にすることは簡単だったはずなのだ。
 でもクリスティーはそうしなかった。消閑小説としての楽しさを敢えて犠牲にした。なぜか。


 犯人の内面のダークさを重視したせいではなかったか。


 ミッシング・リンクが判明し、そこからの逆転劇を経て、犯人が姿をあらわすことになる。前述したとおり、本作では「騙しのシャープさ」が冴えわたっているが、それはあくまで犯人の即物的な属性に関わる騙しであって、「動機」に代表される犯人の内面はそうした狭義のミステリ部分とは関係ない。大多数の謎解きミステリはそういうものだ。インプットとアウトプットの関係が定量化できない「心理/内面」は、ロジカルな操作になじみにくいからである。だから極端な話、「動機」なんて何でもいい。とりあえず、「人を殺す=謎を発生させる」という行為のエクスキューズになりさえすればよく、適当につじつまを合わせておけばいいのだ――そういう意味でも、謎解きミステリにおいてリアリズムの地位は低くていいわけである。所詮、エクスキューズなのだから。
 けれど『殺人は容易だ』の「動機」は過剰なのである。異常なのだ。
 「エクスキューズ」の域を明らかに超えて、読者に居心地の悪い暗い何かをもたらすディスタービングな「心」が、最後に鎌首を持ち上げる。これこそが本作最大のポイントだったのではないか。だからこそクリスティーは、この「恐ろしい歪みを持つ心」をきちんと描くために、リアリズムの度合いをあげたのではなかったか。『茶色の服の男』みたいなハッピーな世界には、こんなダークなものはふさわしくないからだ。


 さきに述べたように、最後に書いたノンシリーズ長編『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』から本作に至る期間の長編ミステリは、すべてポアロものだった。列挙してみよう(一部順不同)。


 ・サスペンスの語りが高速で物語をドライヴする『ABC殺人事件』。
 ・物理トリックを擁した謎解きミステリの標準形のような『雲をつかむ死』『メソポタミヤの殺人』。
 ・後年の大胆な演劇的トリックの嚆矢たる実験作『三幕の殺人』。
 ・オールスターキャストのファン・サービス『ひらいたトランプ』。
 ・コメディ・ミステリの快作『もの言わぬ証人』。
 ・クリスティーとウェストマコットの流儀を見事に融合させたブレイクスルーたる『ナイルに死す』と、その洗練形『死との約束』。
 ・最後に「殺人ミステリってこんな感じ?」とニヤリと笑うかのごとき稚気が閃く『ポアロのクリスマス』。


 おそるべきバラエティである。『雲』と『メソポタミヤ』、『ナイル』と『死との』が対になるくらいで、あとはものの見事に手口を変えてみせている。シリアスなもの、コミカルなもの、ニュートラルなもの。実験的なもの、スタンダードなもの、心理的なもの、物理的なもの。
 「ポアロ」という装置をそのままにしても、これだけのものが書ける、というのをクリスティーはこの時期に知ったのではないか。あるいは、「ポアロ」という装置をそのままに、どれだけのものが書けるか実験したのかもしれない。たとえこの「ポアロの連続」が出版社による要請といったような「大人の事情」によるものであったにしても、その結果、これほど多彩なミステリが生み出された事実は揺らがない。


 これ時期以前のクリスティーは、「ポアロ」「ノンシリーズ」「ウェストマコット」それぞれについて、自身で「枠」をはめるようにして律儀に作風を変えていたように思う。それはクリスティーがジャンルに自覚的な書き手だったせいでもあっただろう。
 しかしここでクリスティーは「解放」されたのではないか。解放と、その結果としての実験の軌跡が、このポアロ作品の並びにみえるように思う。そしてその結果としての『ナイルに死す』だ。


 そんな「ポアロによる実験」のあとで『殺人は容易だ』は書かれた。これはポアロをフィーチャーしたら成立しない仕掛けを擁した作品である。そしてさきに述べたとおり、これまでの「ノンシリーズの作風」では活かしきれないテーマを含んでいる。
 ポアロでは活かせないミステリ仕掛けと、ユーモラスな空気では活かせないテーマ。だから、クリスティーは仄かにダークなノンシリーズ・ミステリとして、これを書いた。
 「いかにして書くか」。「どう見せるか」。そうしたクリスティーの作家としての飛翔が本作に見ることができるのではないか――おれはそう思うのだ。


さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)