藤原編集室通信(出張版) 第6回
悪魔のようなバンコラン
先日、ジョン・ディクスン・カー『蝋人形館の殺人』(創元推理文庫、3月下旬刊)を責了にしたばかりです。旧訳のハヤカワ・ミステリ版が1954年刊ですから、(児童向けのリライト版は数種あったものの)今回がなんと58年ぶりの新訳となります。初めてこの作品を手にするカー・ファンも多いことでしょう。
『夜歩く』『絞首台の謎』『髑髏城』につづくアンリ・バンコラン・シリーズ第4作にあたるこの作品、1970年代半ばに『夜歩く』『絞首台の謎』が新訳で創元推理文庫入りした際にも、なぜか収録から洩れてしまったのは、「タッソー夫人の蝋人形館のような見世物小屋の中で行われる殺人で、人形の殺人場面と、実際の殺人とのこんぐらかる不気味さだね。私の生人形趣味とソックリ同じなので、大いに同感したが、やっぱりあくどい方の作だね。トリックは大したものではない」(江戸川乱歩「カー問答」。1950年発表)といった評価があるいは影響していたのかもしれません。
しかし、この乱歩の評には、カーをトリック・メイカー、怪奇趣味の作家として見るバイアスが多分にかかっているように思えます。一方、カーの優れた評伝を書いたダグラス・G・グリーンは、「『蝋人形館の殺人』には不可能犯罪は出てこないが、おそらくバンコラン物ではプロットが最もしっかりしている。犯罪と背景が完璧に調和し、プロットは複雑で、謎は見事に構成されており、最後の解明は意表をつく」と本書を称賛し、「バンコランが最も興味深く描かれている」と評しています(『ジョン・ディクスン・カー/奇蹟を解く男』)。またカー研究本の著者S・T・ヨシも、本書を『夜歩く』と並ぶバンコラン物の代表作としています。
カーを密室ミステリ作家として「のみ」見ることに疑問を投げかけた松田道弘氏は、その「新カー問答」(1977-78年発表。『とりっくものがたり』所収/カー『ヴァンパイアの塔』に再録)で、カー最大の不幸は「当代一流のストーリー・テラーであるにもかかわらず、彼の職人芸としての小説技巧がまったく認められず」、密室ミステリ作家、オカルティズムの作家というラベルを貼られてしまったこと、と嘆いています。松田氏のこのエッセーは日本における以後のカー評価を一変させることになりました。
本書『蝋人形館の殺人』の読みどころも、犯人の仕掛けるトリックではなく、蝋人形館の恐怖ギャラリーで獣人の像に抱かれていた女の死体という魅力的な発端から、毎夜パリの上流人士が集う秘密の社交クラブでの冒険をへて、入り組んだ連続殺人の真相があかされるまでの、息もつがせぬストーリーテリングの妙にあります。事件発生、探偵の出動、関係者の尋問が機械的に展開していく、ある種の探偵小説の退屈さはここには微塵もありません。また、物語に巧みにはめ込まれた手がかりと、そこから導き出される意外な犯人には、カーの優れた職人技が光っています。
若き日のカーが遊んだ1920-30年代パリの雰囲気も活写され、その異様な熱気と一種享楽的なムードは後期作にはない独得の魅力を放っていますが、グリーンの指摘するとおり、本書はカーが創造した最初の名探偵、アンリ・バンコランのキャラクターが最もよく描き込まれた作品でもあります。
パリの予審判事という要職にありながら、みずから夜の街へ探索に繰り出し、ときに刃物をかまえた暗黒街の与太者とも渡りあうバンコランには、ひとつの伝説が囁かれていました。街に現れたバンコランが普通のスーツならばただの夜歩き、タキシードなら犯人を泳がせているしるしですが、これが燕尾服にシルクハット、銀の握りのステッキでビシッときめているときはご用心、犯人逮捕にやって来たとみて間違いありません。こういうときには、店のあるじは酒を出そうとはせず、給仕は緊張で受け皿を割り、気のきいた客はひと騒動始まる前に退散をきめこみます。
この「人狩り稼業のダンディ」は、作中でしばしばメフィストフェレスのような風貌と描写されていますが、その性格にも皮肉で嘲笑的、冷酷な一面があり、ある作品では容疑者を集めて精神的拷問にかけたり、また別の作では死体を前にして鼻歌をうたっていたりと、悪魔的な性格をうかがわせる場面にはことかきません。のちにカーが創造する名探偵、フェル博士やサー・ヘンリー・メリヴェールが身なりには頓着しない肥満漢で、愛すべき性格に描かれているのとは対照的です。
本書には、機略縦横、警察を手足のように使って精力的に事件を追い、ときに超法規的手段も辞さないバンコランが珍しく内省的になり、弱音を吐くシーンもあるのですが、物語のクライマックス、真犯人と対峙する場面では、その悪魔的な一面、サディスティックなまでの冷徹さを存分に発揮しています。初期のカーにはドラマティックなラストシーンをもつ作品が多いのですが、そのなかでもこれは屈指の名場面でしょう。
『蝋人形館の殺人』は、魅力的な発端、サスペンス溢れる中盤、意外な真相に、個性的な名探偵を擁し、小粒ながらもピリリと山椒のきいたカー初期の逸品です。なお、創元推理文庫では本書にひきつづき、『皇帝のかぎ煙草入れ』(5月刊)はじめ、カーの新訳を順次刊行予定とのことです。
ところで、本書に登場するオーギュスタン蝋人形館にはモデルがあります。1930年の訪仏中にカーも見学したグレヴァン蝋人形館で、マラー暗殺場面をはじめ、作中にある恐怖ギャラリーの描写はこのときの実見がもとになっています。現在も営業しているこの蝋人形館については、昨年末に出た加賀野井秀一『猟奇博物館へようこそ』(白水社)が一章をさいて紹介していますので、興味をお持ちの方はのぞいてみてください。
◇藤原編集室(ふじわらへんしゅうしつ) 1997年開室、フリーランス編集者。《世界探偵小説全集》《翔泳社ミステリー》《晶文社ミステリ》《KAWADE MYSTERY》と翻訳ミステリ企画をもって各社を渡り歩く。My Favorite John Dickson Carrは『火刑法廷』『ビロードの悪魔』『三つの棺』『ユダの窓』『緑のカプセルの謎』『魔女の隠れ家』。ツイッターアカウントは@fujiwara_ed。 |
本棚の中の骸骨:藤原編集室通信
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