藤原編集室通信(出張版) 第5回
殺人は出版する――黄金時代探偵小説の出版事情:セイヤーズの場合
『ジョン・ディクスン・カー/奇蹟を解く男』、『別名S・S・ヴァン・ダイン』と、ミステリ作家の伝記を手がけてきましたが、そこで明かされる当時の出版事情には、出版を生業とする者のひとりとしてとりわけ興味をそそられます。
たとえば『別名S・S・ヴァン・ダイン』には、『カナリヤ殺人事件』(1927)が発売1週で2万部、1ヶ月で6万部を超え、出版社は次作『グリーン家』(28)の初刷を6万部とし、たちまちそれを売り切った、というまことに景気のよい話が紹介されています。それでは大西洋の向こう側、ヴァン・ダインが探偵小説先進国と認めたイギリスでの状況はどうだったのでしょうか。大戦間の探偵小説「黄金時代」のイギリスで、探偵小説がどのくらい刷られていたのか、ピーター卿シリーズの作者ドロシイ・L・セイヤーズを例に見てみましょう。以下はジャネット・ローレンスのエッセー「黄金時代犯罪小説の出版」で紹介された、セイヤーズ作品の初刷部数のリストです。
『誰の死体?』(1923) アンウィン社。不明
『雲なす証言』(1926) アンウィン社。不明
『不自然な死』(1927) ベン社。1,000部
『ベローナ・クラブの不愉快な事件』(1928) ベン社。1,000部
《Lord Peter Views the Body》(1928 短篇集) ゴランツ書店。5,000部
『箱の中の書類』(1930 合作) ベン社。1,000部
『毒を食らわば』(1930) ゴランツ書店。5,000部
『五匹の赤い鰊』(1931) ゴランツ書店。4,000部
『死体をどうぞ』(1932) ゴランツ書店。5,000部
『殺人は広告する』(1933) ゴランツ書店。6,000部
『ナイン・テイラーズ』(1934) ゴランツ書店。6,000部
『学寮祭の夜』(1936) ゴランツ書店。17,000部
『忙しい蜜月旅行』(1937) ゴランツ書店。20,000部
《Hangman’s Holiday》(1937 短篇集) ゴランツ書店。3,000部
ピーター卿シリーズの第一作『誰の死体?』はいくつもの出版社から断られた後(その少し前、クリスティーも『スタイルズ荘の怪事件』で同じ経験をしています)、まずアメリカの出版社ボニ&リヴライトでの出版が決まり(こちらは初刷3,503部)、次にイギリス国内のアンウィン社との契約に漕ぎつけました。同社での2作の初刷は不明ですが、おそらくそれほど多くは刷っていないでしょう。1926年にアンウィン社がベン社に買収されると、セイヤーズ作品もそのまま同社に引き継がれますが、部数は1,000部と抑えた数字が続きます。
ちなみに英国ミステリ出版の老舗コリンズ社が1930年に創刊したクライム・クラブ叢書の記念すべき第1回、フィリップ・マクドナルドの《The Noose》の初刷が約5,500部と言われています。『アクロイド殺し』(26)出版後、例の失踪事件の宣伝効果もあって部数を伸ばしていたクリスティーも、『牧師館の殺人』(30)の頃にはすこし落ち着いていて初刷5,500部。出版後1年間の売上が1万部を超えたのは『三幕の殺人』(35)から、2万部に達したのは『五匹の子豚』(43)からだそうです。
いずれにせよ、セイヤーズの初刷1,000部という数字は、ライヴァルたちに比べてかなり見劣りします。「本を書くことは趣味ではなく仕事です、他の商売と同じような職業なのです」と断言する職業婦人セイヤーズは、ベン社の扱いにさぞもどかしさを感じていたことでしょう。
しかし、ベン社の編集責任者だったヴィクター・ゴランツが1927年に独立してゴランツ書店を創立すると、状況が変わります。セイヤーズを高く評価し、信頼関係を築いていたゴランツは、新しい会社に新作を望みますが、ベン社に三作の長篇を書き下ろす契約をすでに結んでいたセイヤーズは、すぐに動くことはできませんでした。そこでゴランツは彼女に探偵小説アンソロジーの編纂を依頼。1928年に出版された1200頁を越す大冊『探偵・ミステリ・恐怖小説傑作集』は大好評を博し、第二集、第三集も編まれました。
ゴランツはさらに、ベン社との契約に縛られない短篇集を同年に刊行、セイヤーズが契約から解放されると、『毒を食らわば』以降のピーター卿シリーズを次々に送り出していきます。初刷も5,000部と、大手コリンズ社に匹敵する部数からスタートし、シリーズ最終作『忙しい蜜月旅行』では初刷2万部に達しました。当時、クリスティーと人気を二分した、と言われるのが数字の上からもよくわかります。
セイヤーズをはじめ、クイーン、イネス、クリスピンらを擁するゴランツ・クライム・フィクション叢書はその後2,000タイトルに及ぶ一大シリーズに発展し、クリスティー、クロフツ、マーシュ、ロラックなどの人気作家を抱えたコリンズ社クライム・クラブ叢書とともに、ながく英国ミステリ出版界をリードしていくことになります。
一目で同社の出版物とわかるブックデザイン、派手な広告、独自の販売方法など、ヴィクター・ゴランツは優れたアイデアマンでしたが、シーラ・ホッジズ『ゴランツ書店』(晶文社)によると、『ナイン・テイラーズ』出版時の広告戦略も面白いものでした。
最初の広告では、「もし読者がそれほど馬鹿でなければ、この本は10万部は売れるだろう。しかし、そうはいかないので、おそらく5万部以上は売れないだろう」と読者を挑発し、翌週には「先週当社は、本書が10万部は売れないだろうと危惧して読者を侮辱した。だが、いまはもう確信がもてない」と前言を撤回、さらに第三週には「『先週の広告はセイヤーズの新作が10万部近く売れているという意味か?』とお尋ねになる方がいる。答えは否だが、しかし猛烈に売れています!」と畳みかけたのです。これを見たセイヤーズはゴランツのハッタリにあきれながらも、大いに面白がったといいます。
『ナイン・テイラーズ』は発売後わずか2ヶ月で10万部を越すベストセラーとなりました。
◇藤原編集室(ふじわらへんしゅうしつ) 1997年開室、フリーランス編集者。《世界探偵小説全集》《翔泳社ミステリー》《晶文社ミステリ》《KAWADE MYSTERY》と翻訳ミステリ企画をもって各社を渡り歩く。現在、H・R・ウェイクフィールド怪談集の出校待ち。企画本(ハードカバー)でいちばん売れたのはジャック・リッチー『クライム・マシン』。ツイッターアカウントは@fujiwara_ed。 |
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