第二十五回はアン・ペリーの巻(その4)(執筆者・遠藤裕子)

 
 英国世紀末が好きで、その手の本を集めていると、本棚が暗めなタイトルで埋まり始めます。ヴィクトリア時代 ロンドン路地裏の生活誌』『ヴィクトリア朝の下層社会』『恐怖の都・ロンドン』『罪と監獄のロンドン』……。こうした本では貧しい人々が主役を演じることも多く、不衛生な住環境での超劣悪な暮らしぶりを読んでいると、思わず眉間に深々と皺が寄ってしまうほど。しかし彼らの生活には、生きることへの執念ともいうべき不思議な活気が満ちており、ある面では上流階級の生活事情よりも興味深いものです。私立探偵ウィリアム・モンク・シリーズ6作目の Cain His Brother(1995年)では、そんな彼らのテリトリーであるロンドン東部が主な舞台となります。

Cain His Brother: A William Monk Novel

Cain His Brother: A William Monk Novel

おもな登場人物

ウィリアム・モンク:私立探偵。元警察官。捜査中の事故で記憶を失っている。
ヘスター・ラターリィ:上流出身だが看護婦として身を立てている。ナイチンゲールの下、クリミア戦争従軍看護婦として働いた。
オリヴァー・ラスボーン:ロンドンの敏腕弁護士。
レディー・キャランドラ・ディヴィオット:上流階級の未亡人。夫は陸軍病院で高い地位にあった。ヘスターのよき友人であり、モンクのパトロン
 
 本作は、ひとりの女性がモンクのもとを訪れる場面から始まります。訪問者ジュヌビエーヴ・ストーンフィールドの依頼は、夫アンガスがもう3日も家に戻らないので探してほしいというもの。アンガスは誠実で穏やかな性格をそなえ、自分の会社を経営し、ビジネスも社員たちとの関係も良好です。上流の人々が住まうメイフェアに居を構え、ジュヌビエーヴとのあいだには5人の子どもがおり、夫婦間にも問題はないようです。
 ところが同家にもひとつだけ悩みがありました。アンガスは双子であり、片われのカレブは悪名高き乱暴者で、ロンドン東部の貧民街ライムハウスに暮らしているというのです。アンガスはカレブのもとを折に触れて訪れており、今回も会いに行くと出かけたきり、会社にも家にも帰らないのでした。
 ジュヌビエーヴは、アンガスがカレブに乱暴されたのでは、果ては殺されてしまったのではないかと恐れていました。アンガスばかりが華々しい成功を収めたせいで、カレブに憎まれているというのです。そして、夫にはもちろん生きていてほしいけれど、万が一のときには、自分が未亡人であることを法的に証明してほしい、さもないと妻には夫の財産に関する権利がないので、事業を続けさせるために後継者を任命することも、遺産を相続して暮らしを成り立たせていくこともできないと、おのれの窮状を訴えます。
 折しもライムハウス地区ではチフスが猛威をふるい、レディー・キャランドラ・ディヴィオットとヘスター・ラターリィが、医師クリスチアン・ベック( A Sudden, Fearful Death(1993年)に登場)や地元の女性たち、そして上流婦人ながら手伝いを申し出たレディー・イーニッド・レイベンスブルックとともに、急ごしらえの患者収容所で人々の看病にあたっていました。運悪くチフスに感染してしまったイーニッドの世話をするため、ヘスターはレイベンスブルック家にあがり、そこでモンクと鉢合わせします。イーニッドの夫、マイロ・レイベンスブルックは、偶然にもアンガスとカレブの養父だったのです。
 執念の捜査の果てにカレブが逮捕され、血のついたアンガスの衣服も発見されますが、本人の行方は杳として知れず、遺体も見つかりません。裁判は、「出来のいいアンガスに対する積年の妬みによる犯行」――タイトルから連想される「カインとアベル」の物語そのもの――という線で、検察側(おなじみオリヴァー・ラスボーンが担当)に有利な展開となりますが、モンクもラスボーンもなにか釈然としないものを感じます。この事件の裏にはまだなにかある――かねてより疑問を感じていたモンク、ラスボーンに加えて弁護担当のエベネゼル・グードまでもが、さらにはカレブとの面会中にナイフで襲われたという養父マイロの傷の浅さを不思議に思ったヘスターが、真実を突き止めようと再度奔走し、思いもよらない事実を探りあてます――。
 
 本作は、「アンガスの行方(遺体)探し」「貧民街での腸チフス蔓延」「カレブの逮捕劇」が柱となって、これらが絶妙に絡み合いつつ展開し、さらに途中から「モンクの過去探し」も加わります。捜査の過程で知り合った社交界の女性ドゥルーシラ・ウィンダムとの交流(華やかなロンドン西部のシーンが折々に挟まれて、アクセントを添えます)が、意外な道筋をたどって、モンクを失われた過去の記憶へと導きます。それと同時にモンクに大きな危機が訪れますが、ここで力になってくれるのが、警察官時代の部下であるジョン・エヴァン、そしてやっぱりヘスターなのでした。
 
 ヘスターといえば、前作でモンクとラスボーンが彼女をめぐってあれだけの大騒ぎをしたのに、はっきりした「答え」はまだ出ないよう。むしろモンクはヘスターに対して批判的で、ラスボーンはそんなモンクの態度に腹を立てますが、自分の気持ちについては言及せず・・・・・・。もう6作目なのに、とは思うものの、本作の舞台が1859年、第一作目の『見知らぬ顔』が1856年当時の物語なので、まだ3人が知りあって3年しかたっていないのですね。時代が時代ですし、キャラがキャラですし、まあ、こんなものなのでしょうか・・・・・?
 

遠藤裕子(えんどうゆうこ)出版翻訳者。建築、美術、インテリア、料理、ハワイ音楽まわりの翻訳を手がける。ヨーロッパ19世紀末の文学と芸術、とくに英国ヴィクトリア朝の作品が大好物。趣味はウクレレとスラック・キー・ギター。縁あってただいま文芸翻訳修行中。
 
ヴィクトリア時代 ロンドン路地裏の生活誌〈上〉

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ヴィクトリア時代  ロンドン路地裏の生活誌〈下〉

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恐怖の都・ロンドン (ちくま文庫)

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罪と監獄のロンドン

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見知らぬ顔 (創元推理文庫)

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A Sudden, Fearful Death: A William Monk Novel

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