翻訳ミステリー長屋かわら版・第24号
田口俊樹
首と腰の牽引に時々かよってる整形外科医院でのこと。
医院のまえにタクシーが停まっていました。その脇に自転車置き場があり、そこに自転車を入れようとした際、私の自転車のスタンドがタクシーの側面をこすったというか、まあ、かすったというか、したんですね。
すごく微妙で、気のせいにしてしまえばできるぐらいのものだったんですが、なんか感じたのは事実でした。
でも、素知らぬふりをしてそのまま医院の中にはいろうとすると、運転手が車から降りてきました。もうお客さんも乗ってるのに。
「おじさん、自転車ぶつけたでしょ?」
そんな強面の人でもなかったんですがねえ。私、とっさに言いました。
「えええ、嘘。どこどこ?」
はい、とぼけちまったんですね。
こういうときに人間性って露見しますよねえ。
見るかぎり、車体に疵はできてなかったけれど、どうして「いささかの感触を覚えたのは、確かにあなたの言われるとおりです。にもかかわらず、やり過ごそうとしたのは私の至らなさゆえです。その点はお詫びします。どれどれ、見てみましょう」とかさあ、紳士然と正直に堂々と言えなかったのか。
歳多ければ恥多し、連なる後悔の数々にまた一個加えてしまいました。
(たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬とパチンコ)
その昔、学生だった頃、渋谷の東急ハンズの向かい側に『ファクトリー』という喫茶店があって毎朝、ここでモーニングを食べて大学へ通っていました。つまり、いきつけの喫茶店。
当時は、オカサーファーというのがはやりで、その店も山下達郎なんかがかかっていて、その手の女の子が、よく来ていました。
ある日、大学の帰りに店に寄って読書をしていたところ、通路をはさんだ向かい側の席に可愛らしい女子のグループ、4、5人が座ったのですね。
はい、いきなり、目が活字の表面をなぞるだけになってしまいました。お見合いみたいに女の子たちと向い合ってしまったのですから、意識しないほうがおかしい。でもひたすら本を読んでいるふりをし、顔もあげずに手だけを伸ばして、アイスティーをつかんで口元へ。
いきなり、鼻から目、頭の先へと痛みが走りました。なにが起こったのかわからず、思わず顔をあげた。ストローが鼻の穴に入っていました。
向かい側の彼女たち、笑いをこらえています。ストローを鼻に突っ込んだ男が、いきなり顔をあげたんですからむりもありません。
恥ずかしいのなんの。このとき読んでいた本が、ポール・ニザンの『アデン アラビア』。かっこつけて読んでたわけです。内容は忘れてしまったけれど、一生忘れることのできない本になってしまいました。
さて、みなさんの今年の一冊はなんでしょう?
(よこやまひろあき:AB型のふたご座。音楽を聴きながらのジョギングが日課。主な訳書:ペレケーノス『夜は終わらない』、ダニング『愛書家の死』ゾウハー『ベルリン・コンスピラシー』アントニィ『ベヴァリー・クラブ』ラフ『バッド・モンキーズ』など。ツイッターアカウント@maddisco)
むかし《ハノイの少女》(1974)というベトナム映画を観たことがある。北爆下のハノイで撮影された反戦映画で、市内の高射砲陣地からB52に対空砲火を浴びせる様子などが生々しく記録されていた。それまではニュースでも映画でも、米軍側からの映像ばかり見ていたので、このシーンはちょっと衝撃だった。逆の側からものを見る面白さですね。
だから、ソ連の作家が書いたスパイ小説があると知って飛びついた。ユリアン・セミョーノフ『春の十七の瞬間(とき)』がそれ。ナチスドイツに潜入したソ連諜報員の物語で、ソ連ではテレビ・ドラマにもなったという。こういう舞台設定だと、英米の作家ならこれでもかとばかりにナチの非人間性を描くはずだけど、今のところ(まだ読んでる途中)セミョーノフはそれをしない。これがぼくには心地いい。はたしてこの先どうなるか。楽しみ。
(すずきめぐみ:文芸翻訳者・馬券研究家。最近の主な訳書:『生、なお恐るべし』『ピザマンの事件簿2/犯人捜しはつらいよ』『ロンドン・ブールヴァード』。最近の主な馬券:なし orz。ツイッターアカウント@FukigenM)
年末のお楽しみといえば、ぼくの場合(事情があって行けなかったことが一回だけありましたが)この十数年ずっと矢野顕子さんの「さとがえる」コンサート。毎回趣向が異なりますが、今年は、この数年何度かコラボしているジャズ・ピアニストの上原ひろみさんとのデュオでした。向かいあわせの2台のピアノから飛びだして弾け飛び、ぶつかっては重なりながらNHKホールの宙を縦横に舞う音に感激して帰宅の途につきました。
さて、例年どおり年末も年始も(あまり)関係なく仕事を進めます。でも、HDDやBlu-rayディスクに溜まっている映画やドラマ、ちょっとくらい見ても……決して……ばちは当たりませんよね?
(しらいしろう:1959年の亥年生まれ。進行する老眼に鞭打って、いまなおワープロソフト「松」でキング、グリシャム、デミル等の作品を翻訳。最新訳書はデミル『ゲートハウス』、キング『アンダー・ザ・ドーム』。ツイッターアカウント@R_SRIS)
久々にパソコンを買い替えて、いまさらながらワードやIMEを使いはじめたり、これまでとは別のSNSへ顔を出したり、ごちゃごちゃやっていると、あっという間に時間が過ぎていく。なかなか本にも映画にも手を出せないなか、移動の電車で東京創元社の《ミステリーズ! VOl 50》に読みふける。有栖川有栖、北村薫、中村有希の3氏による鼎談、クイーンへの愛がビシビシ伝わってきて、ファンは必読。そのほか、当サイトの関係者が何人も寄稿しています。
かわら版はこれが今年の最終号。ちょっと早いですが、来年もどうぞよろしく。あ、新刊『解錠師』もよろしく。
(えちぜんとしや:1961年生。おもな訳書に『夜の真義を』『Yの悲劇』『ダ・ヴィンチ・コード』など。趣味は映画館めぐり、ラーメン屋めぐり、マッサージ屋めぐり、スカートめくり[冗談、冗談]。ツイッターアカウント@t_echizen )
井上ひさし『日本語教室』を読んでいて、アフガニスタンのペシャワール会の人たちが、ソ連軍の残した火薬やキャタピラを使って井戸を掘った話のところで涙腺決壊。ちょうど中華料理屋のカウンターでチャーハンを食っていたのだが、隣の人にどう思われたことやら。
ジョン・ル・カレ『ミッション・ソング』が発売になりました。これまで3作訳して、ようやく巨匠の思考パターンが読めてきたような(殴)。アフリカ諸語に堪能な通訳が、コンゴをめぐる陰謀に巻きこまれて奔走するという、ル・カレにしては非常にストレートなスリラーです。最後の場面が美しい。お時間があったらぜひ手に取ってみてください。
(かがやまたくろう:ロバート・B・パーカー、デニス・ルヘイン、ジェイムズ・カルロス・ブレイク、ジョン・ル・カレなどを翻訳。運動は山歩きとテニス)
グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツの『シャンタラム』がウワサどおりすごい。
ごく普通のバックパッカーのような顔をしてボンベイ(ムンバイ)にやってきた青年は、実はオーストラリアの刑務所を脱獄してきた犯罪者。やがて彼は数奇な運命の星に導かれるまま、スラムへ、刑務所へ、マフィアの懐へ、アフガンへと流れ流れてさまざまな人に触れ、人間として成長していく。これが自伝的作品というのだから、すごい人もいるものだ。ちょっと長いけど、お正月休みなどにじっくり腰を据えて読めば、至福の読書体験ができること請け合いです。
いちばん好きなシーンは、ガイドのプラバカルと彼の故郷の村に行くところ。おおらかで誇り高い人びととともに暮らすうち、主人公の心がふっと軽くなっていくのがわかる。
少しまえに、日本人タブラ奏者U-zhaan(ユザーン)のツイッター本『ムンバイなう。インドで僕はつぶやいた』を読んで、ムンバイの人びとの突き抜けたお気楽さに、思わず腰が砕けそうになったが、あのお気楽さの奥にはこんな深淵な哲学があったのかと思ったしだい。いやなことがあったときや、殺伐とした気分のときにこの『ムンバイなう。』を読むと、なぜかすごく楽になれるんだよね。
(かみじょうひろみ:神奈川県生まれ。ジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ・シリーズ〉(ヴィレッジブックス)、カレン・マキナニーの〈朝食のおいしいB&Bシリーズ〉(武田ランダムハウスジャパン)などを翻訳。趣味は読書とお菓子作り)
■翻訳ミステリー長屋かわら版・バックナンバー■
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