扶桑社発のひとりごと 20111111(執筆者・扶桑社T)

 
第20回


 ごぶさたです。
「翻訳編集って、どんな仕事?」を解説しようという、なんだか自分の首を締めそうな話をはじめてしまったこのコラム、前回はゲラを作るところまで説明しましたので、そのつづきです。


 原稿をゲラにしたら、いよいよ肝心の、訳文のチェックです。いわゆる「校正」の作業ですね。
 通常は、編集者のほかに、専門の校正者がいて、この両者でゲラをチェックします(ほんとうは、校正をする人間は数が多いほどよいのですが)。
 ここで“チェック”といっているのは、気になる点や修正したほうがいいと思うこと、あるいは疑問などを、ゲラにエンピツで書きいれて、翻訳者さんに申し送りをする作業のことです。
 編集・校正の仕事はあくまでチェックであり、どう修正するかは翻訳者さん自身が決める、というのが原則です。われわれは、原稿を作成した翻訳者さんの修正作業のサポートをするという立場です。


 校正者と編集者では、チェックのしかたにややちがいがあります。
 乱暴な言いかたをすれば、校正者は表記を、編集者は表現と内容を重点的に見る、といえばいいでしょうか(もちろん、校正者も内容を見るし、編集者も表記を見ますが、校正者のほうがより詳細に用語・用字を点検するということです)。
 表記を見る、といってもわかりにくいですよね。たとえば、「クリスティー」という人名が、途中から「クリスティ」に変わっているなどということがあります。あるいは「クイーン」が「クィーン」になっていたり、「ディクスン」と「ディクソン」がまじったり。こういった表記は、きちんと統一しなければなりません。
 あるいは、「バーモント州」と「ヴァージニア州」という表記が混在していれば、「V」の音のカタカナ表記が「バ」と「ヴァ」で揺れていることになりますので、こういう点もチェックします。
 カタカナ表記だけではないですよ。ある箇所では「怒鳴る」と書かれていたのに、べつなところでは「どなる」となっていれば、これも不統一です。「三ヶ月」「三か月」「三カ月」「三ヵ月」なども、表記の揺れですね。
 また、「剥」「噂」「噛」「躯」「嘘」など、略字と真字の問題もあります。初期のDTPでは、真字の処理がうまくできなくてトラブルもありました。編集作業がすべて終わった最後の段階で、真字がすべて消えてしまうという、とんでもないことも経験しました。告白すると、わたしも一時はあきらめて、略字をそのまま通してしまった時期もあり、その当時作った本を見ると気が滅入ります(ちなみに、こんなことは出版社の基準ではあってはならないことです。すみません、反省してます)。現在ではDTPのソフトが整備され、そんな問題はほぼ解消されました。
 当然ながら、誤字・脱字もチェックします。シンジケートのコラムでも話題になりましたが、見のがしやすいのが誤変換。字面がちゃんとしているだけに、ついついそのまま読んでしまいがちです(「麺棒」と「綿棒」はさすがに気づくでしょうが、意外な見落としをするものなのです)。


 以上のような校正者の仕事とくらべ、編集者は、さらに踏みこんで、文章の言いまわしや表現方法、ときには書かれている内容についても積極的にチェックしていきます。
 翻訳は、百点満点の正解が存在しない作業です。できあがった原稿も、その訳者さんが、自分にとっての正解にいちばん近い訳文を模索した成果だと言えます。それだけに、読む人によって、受ける印象がちがってくることがあります。
 編集者は、そのバランスを取るために介在するのです。


 翻訳とは、原文の意図をくみ、それを日本語で再現していく仕事といえるでしょう。つまりそこには、原文の意図をくむという「原著者に対する責任」と、それを日本語に再現するという「読者に対する責任」との両面があるのです。
 その過程において、ときに原文に寄りすぎることで日本の読者に通じにくくなったり、逆に読者に寄りすぎて原文から大きく離れてしまったりすることがあります。それはそれで、訳者さんが精魂こめて取りくんだ結果であり、尊重すべきものです。
 しかしながら、ここで第三者の立場から訳文を確認し、両者の間を取りもつ編集者が出てくるわけです。
 編集者は、訳文と原文をくらべながら、気になる箇所にチェックを入れていきます。翻訳者の筆がすべりすぎだと思えば「表現がくだけすぎでは?」などと確認をしたり、文章の流れが悪いと思えば「〜を補っては?」と書きこんでみたり、はたまた「この部分は意味が取りにくいです」などと注文をつけたり。
 その過程で、原文と翻訳で意味がちがってしまっているのを見つけることもあります。世に言う「誤訳」ですね。誤訳というと目くじらを立てる向きもありますが、これは避けえないことです。日本語の文章でも意外と読みちがえることがあるのを考えれば、おわかりいただけるのではないでしょうか。
 誤訳は避けえないものだとしても、それをそのまま活字にしてしまうのは、編集者の責任です。ただ、経験に即していえば、意味を取りちがえた誤訳は気づきやすいものです。文脈がヘンなので、読んでいて引っかかるのです。逆説的に言えば、読んでいて気づかれないような誤訳は、誤りとはいえないのかもしれません。だって、それはそれで文意がとおっているわけですからね(えーと、誤訳はひじょうにむずかしい問題なので、これ以上踏みこまないことにします)。
 むしろ誤訳よりも多かったりするのが「訳ヌケ」です。パラグラフをまるまる訳し落としたりすることが、じつはけっこうあるのです。これも読者の皆さんには驚かれるでしょうが、しかし、作業上しかたのないことなんです。こういったミスに対しても、編集者が防波堤になる必要があります。


 というわけで、編集者が書きこんでくるチェックは、翻訳者さんにとっては小うるさく感じられることもあるでしょう。なにしろ、苦労して作りあげた訳文にケチをつけられるようなものですから。
 しかも、編集者の書きこみはぶっきらぼうになりがちです。チェックを入れるのには、もちろんそれなりの理由があるのですが、時間に追われ、説明もけっこう面倒だったりして、ついついぞんざいな書きかたになってしまいます。そのため、訳者さんから見ると、なぜこんなチェックをされるのかわからない、という場合もあるし、自分の仕事が正当に評価されていないという気持ちにもなるでしょう。さらには、編集者に対して不信感を持ってしまうことにもなりかねません。
 わたし自身も翻訳者さんからお叱りを受けた経験があり、そういう立場ではひじょうに言いにくいのですが、それでも、編集者はよりよい作品づくりを目ざしてやっているのだと申しあげておきたいと思います。
 編集者がチェックを入れたということは、とりもなおさず読者も引っかかる部分かもしれません。それであれば、とりあえずは文章を再考してみよう、というふうに捉えてもらえるとよいのですが。表現の問題は、人によって加減がちがいます。そのうえで、なるべく多くの人に受け入れられやすいものになるよう、編集者はゲラを読むのです。

 校正作業についてお話ししていたら、予想どおり、ずぶずぶになってきました。それでも、次回もこの話題をつづけます。


扶桑社T

扶桑社ミステリーというB級文庫のなかで、SFホラーやノワール発掘といった、さらにB級路線を担当。その陰で編集した翻訳セルフヘルプで、ミステリーの数百倍の稼ぎをあげてしまう。現在は編集の現場を離れ、余裕ができた時間で扶桑社ミステリー・ブログを更新中。ツイッターアカウントは@TomitaKentaro


●扶桑社ミステリー通信

http://www.fusosha.co.jp/mysteryblog/