翻訳ミステリー長屋かわら版・第16号

 田口俊

 ちょっとまえになりますが、同業者でおない年(還暦プラス1)の加藤洋子さんの話。
 パスポートの更新で、久しぶりに撮った写真を見て、びっくりなさったそうです。あまりの老け顔に。
 えええ! わたしってこんなお婆さんなの? ってわが眼を疑ったそうです。次いで、だったら毎日鏡で見てるあの顔はなんなのよ!!! って激昂されてました。
 でも、わかるんですよね、私もまったく同じ経験をしたことがあるんで。最近では娘の結婚式のビデオを見て愕然としました。誰、花嫁の腕を取って、緊張しまくって、よろよろ歩いてるこのお爺さん?——私でした。
 これって写真は客観で、鏡は主観ってこと? おれも枯れてきたなあ、なんてちょっと悦に入りながらも、やっぱりほんとは若くありたくて、その願望が鏡に映ってるってこと? あるいは、ただ毎日見てるから、変化に気づかないだけのこと? そうそう、マット・スカダー・シリーズのどこかに、人は年老いて自らのカリカチュアになる、なんて一節があったけど、それがほんとうなら、この食いちがいって、カリカチュアになんかなりたくないぞっていう老人の悲痛な叫び?
 しかしねえ、毎日鏡で見ている己が姿も信じられなくなる日が来るとはねえ。若い人にはどうでもいいことでしょうが、目下、私の最大の謎です。この謎が解明できれば、なんか心安らかな老後が送れそうな気がして。

(たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬とパチンコ)


 横山啓明

蒸し風呂に涙と汗が滴った。


家内の実家がある浅草に
よく行く蒸し風呂屋、今風に言えば、ミスト・サウナがある。
ミッチェル・スミスの『ストーン・シティ』を読んでいる時だから、
だいぶ前のこと、この作品世界を地で行くような体験をした。
(いいえ、刑務所に入ったわけではありませんよ)


その日は、近くの神社で祭りがあったのだが、
そんなことも知らずに、その風呂屋に行ったのだった。
早い時間だったので、誰もいない。のんびりと
サウナを独り占めしていた。
そろそろ出ようか、というとき、ドアがあき、
男が入ってきた。坊主頭、全身にみごとな彫り物が……。
タトゥーというのではなく、まさに、くりからもんもん。
あちらの筋の人であることは、一目瞭然。
うっ、すぐに出ていくのは、まずいんじゃないか。いかにも
避けているみたいで。
そこで、もうしばらく、がまんすることにした。
やがて、ひとり、またひとりと、彫り物だらけの人たちが、入ってくる。
(祭りが終わったのですね)。
怖い。怖すぎる。
数人のその筋の方たちが、無言で汗を滴らせている。
おれは出るタイミングを失ってしまって(いや、足がすくんで
動けなかったのかもしれない。情け無いですが)、ひたすら耐えていたのだが、
そろそろ限界に近づいていた。
そのとき、近くにいた坊主頭がおれの方を
向いて言った。
「兄さん」
「は、はい」(一オクターブ声が高かったのではないか)。
「がまん強いね」
「あああ、あははは、もう限界です」
おれはようやく、サウナを出て水風呂に飛び込んだ。


凶悪犯が収容されている刑務所に入れられた大学教授の恐怖の
片鱗をかいまみたわけだ。その後の読書の臨場感といったら!

(よこやまひろあき:AB型のふたご座。音楽を聴きながらのジョギングが日課。主な訳書:ペレケーノス『夜は終わらない』、ダニング『愛書家の死』ゾウハー『ベルリン・コンスピラシー』アントニィ『ベヴァリー・クラブ』ラフ『バッド・モンキーズ』など。ツイッターアカウント@maddisco


 鈴木恵

 古書店主・関口良雄の随筆集『昔日の客』を読んでいたら、昭和11年に出た太宰治『晩年』(真砂屋書房版)についての記述が出てきて、ちょっとびっくり。著者が本を買い取りに作家の尾崎一雄の家を訪ねたら、そのフランス装の『晩年』が2冊あったというのだ。1冊はまだページが切られておらず、もう1冊は見返しに「オマエヲチラット見タノガ不幸ノ初マリ 太宰治尾崎一雄様」と墨書されていたとある。
 なぜびっくりしたかというと、そのすぐ前に三上延ビブリア古書堂の事件手帖で、『晩年』の初版本をめぐる物語を読んだばかりだったからだ。しかも、作中に登場する『晩年』もページが切られておらず、見返しには「自信モテ生キヨ 生キトシ生クルモノ スベテ コレ 罪ノ子ナレバ/太宰治」と墨書されているのである。
 もしかしたらこれ、尾崎一雄の蔵書がモデルになったのだろうか。偶然とはいえ、こんなふうに読書の輪がつながるのも楽しい。

(すずきめぐみ:文芸翻訳者・馬券研究家。最近の主な訳書:『ピザマンの事件簿2/犯人捜しはつらいよ』『ロンドン・ブールヴァード』『グローバリズム出づる処の殺人者より』。最近の主な馬券:なし orz。ツイッターアカウント@FukigenM


 白石朗

 ここ数年、1頁に章の最終行1行だけで改頁している本をぽつぽつ見かけます。昔は「みっともないからこの章で調節して2〜3行にするか前頁に収まるようにしてよ」と制作や編集の先輩に言われたものです。しかし時代が変わったんですね。とはいえぼくは校正で字数や行数を減らすのが好きなので、ゲラで章末が1〜2行ハミ出した頁があると、「この1頁を減らすぞ」と燃えたりします。行数を減らそうという目で訳文を見直すと、多少は訳文の贅肉を削る効果もあるような気がしますし。
 ロートルの繰り言はさておき、スティーヴン・キングアンダー・ザ・ドームの訳者あとがきでふれた「担当編集者氏が発見したカメオ出演者」の件、刊行後2か月半が経過したので以下に明かしておきます。未読の方は反転表示をしないでください。
【以下反転】該当箇所は下巻 224頁下段の「ジャック・リーチャー」。このリーチャー氏、リー・チャイルドという作家のシリーズ・キャラクターで、キングは憲兵という設定も引き継いでいます。講談社文庫の邦訳は四冊ですが、本国ではすでに16作を数える人気ベストセラー・シリーズ。ところで、キングがこんなふうに「他人がつくった架空のキャラクターを(架空としての言及ではなく)その作品内の人物として登場させた」例って、ほかにありましたっけ?【反転終了】
 あらためまして、担当編集者 @Schunag 氏の炯眼に感服。

しらいしろう:1959年の亥年生まれ。進行する老眼に鞭打って、いまなおワープロソフト「松」でキング、グリシャム、デミル等の作品を翻訳。最新訳書はキング『アンダー・ザ・ドーム』。ツイッターアカウント@R_SRIS


 越前敏弥

 前々回の〈かわら版〉でわたしがレギンスとトレンカについて書いたら、人のよい白石さんがわざわざ前回ボクサーショーツに話を振ってくださったので、これに礼を尽くすべく、最近の研究課題である「ペチパンツ」の話に持っていこうと思い、画像検索などしたんだが、ここにリンクを張るのはサイト全体の品位を落としかねないので、興味のあるかた、各自でやってください。実は「ペチパンツ」を検索して出てくる画像群と"pettipants"で出てくる画像群の雰囲気がまったくちがうんです。でも、ここ1、2年で日本でも一気に普及したペチパンツは、むしろ"pettipants"の画像に近いはず。つまり、画像検索がトレンドをつかみきれていないんだと思う。
 先月、ポレポレ東中野いまおかしんじ監督の〈若きロッテちゃんの悩み〉を観ていたら、ヒロインの辰巳ゆいが海岸でワンピースを気持ちよさそうに脱ぎ捨てて、ペチパンツ一丁になった。思わず、「あっ」と叫んでしまった。そう、あれがペチパンツなんです、と書いて、何人がわかってくれるだろう。これぞ究極の人生讃歌と言いたくなる大傑作だから、ぜひ観てね。
 ところで、「穿く」と「履く」の境目はどこなのか、とよく考える。「ズボン(スカート)を穿く」「靴(靴下)を履く」なんで、「穿く」のほうがかなり上のほうまで覆っているのはたしかなんだけど、ニーソックスはどっち? ガーターストッキングは? なんて考えてると、あやしうこそものぐるほしけれ。

(えちぜんとしや:1961年生。おもな訳書に『夜の真義を』『Yの悲劇』『ダ・ヴィンチ・コード』など。趣味は映画館めぐり、ラーメン屋めぐり、マッサージ屋めぐり。ツイッターアカウント@t_echizen


 加賀山卓朗

「冬ソナ」が始まるずっとまえに、友人と竜平(ヨンピョン)スキー場に行ったときのこと。
 ロケにも使われた豪勢なレストハウスはまだなくて、たいそう地味なレストランで食事をしていたら、給仕担当の若い兄ちゃんが来て、日本語を教えてくれと言う。日本人観光客とのやりとりで使いそうなフレーズをいろいろ訊いてきて、こちらが(あちらの韓国語を理解できた範囲で)教えると、ノートに一生懸命書き留めていた。
 その彼もたぶんいまは40代。見るからに熱心な人だったから、どこかで道を誤っていなければ、スキー場の重役にでもなっているかもしれない。え、ただのバイト?
 ともあれ、念願の平昌オリンピック、おめでとうございます。

(かがやまたくろう:ロバート・B・パーカー、デニス・ルヘイン、ジェイムズ・カルロス・ブレイク、ジョン・ル・カレなどを翻訳。運動は山歩きとテニス)


 上條ひろみ

 暑いですね〜。脳みそがとけそうです。もともととけかけていたのに、こう暑くては腐ってしまいそう。そこで、おでこに「冷えピタ」を貼って仕事をしてみました。なかなか快調です。たまに冷えすぎて頭がしびれてきますが。「首もとひんやりベルト」なるものも愛用中。仕事中の姿はとても人さまにはお見せできません。
 ところで、自分の訳書の宣伝で恐縮ですが、コージーミステリの新シリーズが出ました。ジェン・マッキンリーの『ウェディングケーキにご用心 カップケーキ探偵1』(RHブックス・プラス)です。友人とカップケーキ・ベーカリーを営むヒロインが殺人事件に挑む、レシピつきのおいしいミステリ。
 レシピものコージーの場合、校了まえの最終打ち合わせのとき、編集者さんにうちに来てもらって、レシピの試作品を食べてもらったりするのですが、今回は編集者さんとふたりで合計十種のカップケーキを持ち寄り、カップケーキ・パーティになってしまいました。カップケーキというのは見ているだけでもかわいくて、妙に気分が上がるものです。わたしだけかもしれないけど。食べ比べたり写真を撮ったりと、なんとも楽しい打ち合わせでした。さすがにふたりでは食べきれず、最終的にはもうカップケーキは見るのもイヤ、と思ったけど、冷凍しておいて後日おいしく食べました。冷凍&自然解凍でも味が変わらないカップケーキはえらい!

(かみじょうひろみ:神奈川県生まれ。ジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ・シリーズ〉(ヴィレッジブックス)、カレン・マキナニーの〈朝食のおいしいB&Bシリーズ〉(武田ランダムハウスジャパン)などを翻訳。趣味は読書とお菓子作り)
 

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ストーン・シティ〈上〉 (新潮文庫)

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ストーン・シティ〈下〉 (新潮文庫)

ストーン・シティ〈下〉 (新潮文庫)

昔日の客

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晩年 (角川文庫)

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晩年 (新潮文庫)

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アンダー・ザ・ドーム 上

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アンダー・ザ・ドーム 下

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ウェディングケーキにご用心 カップケーキ探偵1 (RHブックス・プラス)

ウェディングケーキにご用心 カップケーキ探偵1 (RHブックス・プラス)