最終回

 いきなりの内輪話で恐縮ですが、私はかつて、「87分署攻略作戦:第一回『警官嫌い』」の没バージョン、その冒頭で「87分署シリーズはキャラクター小説である!」と、こう書きました……まだ二冊しかシリーズを読んでいなかったのに。
 さて、シリーズをようやく1/4ほど読んだ今、改めて考えてみると、自分の発言がひどく怪しげに見えてきました。つまり、私の頭の中に渦巻いているのは次の疑問です。


「87分署シリーズって、キャラクター小説なのか?」


 誰もが当たり前のように、「87分署シリーズはキャラクター小説だよ」と語ります。果たしてそれは本当か? 今回はちょっと立ち止まって、そのちょっとした疑問について考えてみたいと思います。


 87分署シリーズには多くの警察官、そしてアイソラの街に住む人々が登場しますが、これらの登場人物のほぼすべては、キャラクターとしての掘り下げが浅い、深みが足りないと、臆面もなく書きます。
 前景に出てこないキャラクターは別にしても、特に気になるのはスティーヴ・キャレラの人間的魅力の薄さです。シリーズの主人公と言われることも多いキャレラは、大柄のイケメンで、捜査能力が高く頭も切れ、射撃も格闘もお手の物。美人の奥さんと子ども(双子)がいて、上司や同僚からの信頼も篤い。十五作品で三回くらい死にかけていますが、それも主人公たる所以か? ともかく無敵超人です。しかし、彼にはあまりにも弱みがなさすぎる。いい奴だし、ジョークも分かるんだけど、なーんか面白くない、と私なんかは思うのです。
 あと人気キャラというとコットン=ホースとかでしょうか? 個人的には、彼はキャレラ以上につまらないキャラクターだと思います。大柄イケメンのプレイボーイ。真面目なキャレラとチームを組んだ時には、軽口を飛ばして場面を盛り上げる、気のいい奴。でも、特に一人で動いている時(cf.「雪山の殺人」(『空白の時』))の彼は現実感が希薄で、きまりきった台詞を読み上げる、二流の俳優にしか見えません。最初に登場したときはすごくいいキャラクターに見えたのはなぜ?と思うほど。
 『クレアが死んでいる』でのクリングは、初期の軽薄キャラを脱して急成長を遂げましたが、この時点では単に大暴れしただけ。積極的には支持できません。『麻薬密売人』で、息子を逮捕するか悩む部長はなかなか良かったのですが、その後は87分署の「いいお父さん」に収まってしまい、メインを張る機会がない。あとはマイヤー・マイヤー辺りかな。我慢強いキャラなのはよく分かったので、そろそろ分別を無くしてもいいのではないかと思います。
 まとめると、87分署シリーズの主演役者たちは、いわばマネキンに様々な属性を張り付けた「分かりやすく」、「動的な魅力に乏しい」キャラクターばかりです(少なくとも第十五作の時点では)。もちろん分かり易さは大事ですよ。でも、意外性を内面に秘めてこそ、読書の喜び=驚きもあるのではないでしょうか。もっと裏切って欲しい、と思うのは私だけか?

 このようにけちょんけちょんに書いてきておいて何ですが、私はマクベインのことを「人間が書けないつまらん作家」とは思っていません。第十三回『死にざまを見ろ』で書いた内容をちょっと見なおしていただけるとありがたい。この作品に登場するアンディ・パーカーという悪徳警官は、最初は「プリティ・ボーイ」キャレラの裏返し、つまり「分かりやすいバッド・ガイ」として登場(@『キングの身代金』)、たちまち消えていくことが予想されながら、「人種差別」というテーマと激しく反応し、主役に抜擢された男です。
 この男が面白いのは、終始一貫してプエルトリコ人を侮辱し続けながら、物語が終わりに近づくにつれ、その態度がぶれ始めるところ。彼は「身勝手な男」という立場に居座ることによって、心配しながら嫉妬し、悲しみながらも涙を流さず唾を吐く。「刑事パーカーは悪い奴」という私の安っぽく一面的な理解を嘲笑いながら物語の幕を下ろしてしまいます。このある種の不明性は、マクベインが『被害者の顔』で、被害者の隠された面を書こうとしたことに通じるのではないでしょうか。いわば『刑事の顔』ですね。
 つまり、マクベインは書けないのではない。書かないだけなんです。書けるんだったら書くべきでしょう。なぜそこで敢えて筆を抑えるのか。それこそ、マクベインがこの87分署シリーズで書こうとしている「何か」に通じるというのが、現時点での私の見解です。では「何か」とは何なのか?


 と、引っ張っておいてなんですが、正直まだ分かりません。ただ、重要なキーワードが「アイソラの街」であるのは間違いないと思います。マクベインにとってアイソラという架空の街が、非常に愛着の深いものであるのは間違いないでしょう。「デフ・マン」が街に放火、爆破した『電話魔』を思い出して下さい。87分署の敵は街を破壊する者なのです。
 閑話休題。では、マクベインが「街」を描こうとするときに一体何が必要か。それは土地でも建物でもなく、ただ人間です。しかも出来るだけ多くの。街とは、そこに暮らす様々な人間の「顔」を寄せ集めたコラージュです。87分署シリーズを通してマクベインは、紙の上にそれを築き上げようとしました。その時、際立った個性を持った人間はむしろ邪魔です。そこに視線が集まってしまいますから。それゆえマクベインは、敢えて人物を「分かりやすく」書くのではないでしょうか。

 マクベインが何度もキャレラを殺そうとするのはきっとそこに由来する部分だと思います。一つには「キャレラ一人が死んでも街は変わらないこと」を示すため。あるいは街の均衡を崩すほどに、一人で読者の視線を集めてしまう邪魔者を消すため……?


 思わず妄想推理を垂れ流してしまいましたが、そろそろ私の第一の疑問に答えを提示したいと思います。

「87分署シリーズって、キャラクター小説だっけ?」
「キャラクターの魅力で読ませるシリーズという意見には反対。でも、多様な人物像の積み重ねによってもっと大きいものを描き出そうとする、キャラクターありきの小説だという指摘はしておきたい」


 ということで、今回は作品というよりもシリーズについての論を、お読みいただきありがとうございました。また、突然のことではありますが、87分署攻略作戦は、今回を持ちまして一旦終了、第一部完とさせていただきます。長らくのご愛顧ありがとうございました。

オレは
ようやく
のぼりはじめた
ばかりだからな

この
はてしなく遠い
108式坂をよ…

(未完)


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 三門優祐
えり好みなしの気まぐれ読者。読みたい本を読みたい時に。