第一の刺客:ジル・チャーチル(その1)

 あるとき七福神の一人、川出正樹氏に尋ねられた。
「君、一番苦手な作家はなんだ」
 苦手……苦手な作家と言われても返答に困る。
 クロフツは、カーはどうだ、と言われる。どうにも妙な具合で作品数が多い古典本格ものの作家を挙げられるのだが、まあこの辺は私の読書嗜好がノワール、ハードボイルドに寄っているからだろうか。
 最終的に「ルー○・○○○ルですかねー」と答えると、川出正樹氏は笑いながら「それだ! 君じゃあ来月からシンジケートでルー○・○○○ル攻略作戦開始な!(ここでやっと霜月蒼氏のクリスティ攻略作戦の後釜企画を探しているのだと気付く)」と言う。
 待っておくれよおっかさん。こんな私に誰がした。いや、読むよ、読むのはいいけれど、○○○ルって明らかに面白くない作品も混じってるじゃない? クリスティと比べるとさすがに格が落ちない?*1 と次に会った際に渋りに渋る私に向かって、川出正樹氏はこう言い放つ。
「仕方ないなぁ。じゃあ君が読んだことのないものにしよう。 あれだよ、コージーだよ」
 こ、コージー
 コージーってもしかしてあれですか。なぜか必ず片田舎が舞台だったり詮索好きな近所のおばちゃん的な人が微妙なユーモアを言いながらいつの間にか事件を解決しちゃったり犬だの猫だのと畜生がワンニャン鳴いていたり料理やお菓子のレシピが載っていたり実写の女性の憂いた顔が表紙だったりするあれですか(多分に誤解を孕んでいる可能性あり)。
 それは読んだことがない。いや、ミス・マープルあたりをコージーに入れるとなると(よく知らないが入るのか?)読んだことはあるけれど、本屋に行ってもまず手に取らない類いのジャンルであることは間違いない。そもそも普段ノワールなんぞを好んで読み、「ぐへへ、この殺伐とした空気がたまらんのう」などとのたまっている人間に「紅茶とお菓子をどうぞ」というほうが無理があるのだ。
 それで私が小声で「いやーそりゃあ読んだことないですけども……」などと言っているところにこれまた七福神杉江松恋氏が追い打ちをかける。
「ガハハ、いいなそれは! 楽だな!*2
 そしていつの間にやら〈冒険小説にはラムネがよく似合う〉形式でいこうだの「本を選ぶのは当然俺だ」by杉江・コージー番長・松恋だのと色々なことが決まっていく。ああ、なんだかもう逃げられない。生きながらにして百舌のはやにえになったカエルってこんな気分なんだろうか。
「コーナー名考えないとな……」と、ふと真面目な顔で杉江松恋氏。「しかしあれだな、「コージー・コーナー」だけはやめてくれよ*3
 いやー、間違ってもそんな題には……。
 というわけでノワール好き20代半ばのボンクラ男子が杉江松恋氏が指定するコージー・ミステリーを延々読むことになったようです。うわー、何だこの企画……。


 前置きが長くなった。そんなこんなで初回に指定されたのは「主婦探偵ジェーン・シリーズ」の第一作、『ゴミと罰』ジル・チャーチルである。
 おお、これは知ってるぞ。有名な作品をもじった題名がついているので古本屋で見かけると気になって買ってしまうシリーズのやつだ*4。というかこれコージーだったのか!

ゴミと罰 (創元推理文庫 (275‐1))

ゴミと罰 (創元推理文庫 (275‐1))

【おはなし】
 夫に先立たれた三児の母、専業主婦ジェーンの一日は大忙し。子供の世話から送り迎え、ペットには餌、日曜日には親戚で食事をする約束があるし、さらには今夜お隣のシェリイの家で催されるパーティーに持っていくはずの人参サラダを作ってなかったとなれば! みかんジュース、みかんジュースはどこ!?
 料理をなんとか作り終わってやれやれ、と言っているところにシェリイから一本の電話が。
「ジェーン、すぐ来て! 掃除婦さんが死んでるの。死んでるのよ! うちの客用寝室で!」
 でもよく考えればこの掃除婦、パーティを前にシェリイが初めて呼んだ掃除婦で、シェリイの家で殺される理由もないはずなのだが……。


 うん、やっぱり料理が出てきた。ついでに言うと犬と猫も、挙句の果てにはハムスターまで出てきた。私の先入観もあながち間違ってないじゃないか。わっはっは*5
 この辺は生活感を演出する小道具でもあるし、特に料理のほうは主人公がシェリイの家に訪れたときにパーティーに持ち寄られるどの料理が冷蔵庫に入っていたかで、どの容疑者がどの時間に訪れたかを計るというプロットと密接に関係してくるところになる。
 ミステリー的な興味の引き方としては「初めて呼んだはずの掃除婦がなぜシェリイの家で殺されたのか」というホワイダニット、そしてそこからジェーンの家で起こった出来事によってスムーズにフーダニットに移行するあたりが実にうまい。主人公が素人探偵をやってしまったがために殺人の動機となるような近隣住民の秘密を暴いてしまった挙句に、主人公に関する事実が明かにされる場面もひとつのクライマックスを生んでいる。先の料理の件も含め、この辺の設定が謎解きに直結する部分にも感心させられるところ。
 ちなみに本書の裏表紙のあらすじには「本格ミステリ」、訳者あとがきには「ドメスティック・ミステリ」と紹介されていて、「コージー」という単語は使われていない。多分ドメスティック、の部分が今のコージーにあたるのかな。


 というわけでミステリーとしては満足である。特に何か新しいことを何かしているわけではないしアッと驚く結末が待っていたりするわけではないが、よく練られた良作であることは間違いない。いちいち主婦視線のあれやこれやと小粋な会話が挟まるので展開のテンポはお世辞にもいいとは言えないが。このあたりのいかにもコージーっぽい部分の評価については企画が進むにつれて自らが楽しめるよう調教されていくはずなのでまだまだ待っていただきたい。


 ただなあ……この作品、すんごい違和感があるのだ。
 別にペットが出てくるのも、思春期の子供との会話に始終するのも(「お母さん私髪染めたい!」「ダメよ!」とか)、素人探偵を演出するのも(「あたし、推理小説をたくさん読んでるから、動機には詳しいの」ってオイオイ)、やたらとお買い物をしたり、お母さん方がうわさ話をしているのも、事件でやってくる刑事とロマンスを予感させたりするのも――別にいい。コージーとしての味だろうし、それなりには楽しいし、本書のメインターゲットであろう方々には感情移入するポイントなのかもしれないし。
 でもこの点だけは違和感を拭えない。つまりその……近隣住民が異様に仲が良すぎるのだ。仲が良いというのは言い過ぎかな。近隣地区は皆知り合い、くらいか。友達だと思っていた近隣住民がもしかすると殺人犯かもしれない、ということがページを繰らせる一つの要素にはなっているのだが、それにしてもご近所づきあいがものすごい。
 そもそも事件の発端となるパーティーはチャリティー活動の一環で近隣住民が集まってパーティーをするという……いやいや、ちょっと待ってくださいよ。私の実家は住宅地の戸建てだけどもそんなことは一度たりともしたことないですよ。極めつけがシカゴの街中で刑事をやっているジムおじさんと主人公ジェーンの会話。

(前略)鍵はどうなってる? 近所の人の鍵を預けたりしてるか?」
ジェーンは自分の手を見下ろした。どうやって打ち明けたものだろう? そっくりぶちまけてしまうのが一番かもしれない。「ほとんどみんなに預けてるわ。スティーヴが死んでからしばらくの間、スーパーの試供品みたいに、手当り次第に渡してたから。(中略)だっていろんな人がしょっちゅう寄って、手伝ってくれたんだもの。お料理届けてくれたり、犬や何かの世話してくれたり(中略)でも鍵を預かってるって点じゃ、みんなお互い様なの。学校に呼び出し食った時なんか、近所の人に渡してくのが普通なのよ」


 家を留守にするときも君たちは鍵をかけないしな……え、何なの? 村か? 村なのか? 農村か何かの話なのか!? 今日なよか大根なとれたけん持っかんねー、ってそんなノリなのか!? 
 という感じでシカゴから車で一時間半の郊外住宅地が舞台のはずなのだが、住民たちには妙な共同体意識がある。互助意識が高いというか防犯意識がゆるゆるというか……。
 アメリカの郊外が舞台と聞いて例えばホームドラマ奥様は魔女』のような整然と並んだ住宅、一戸建てで芝生があって犬を飼っていて、というイメージ*6で読むと、そこはそのまま正しい。だが、この「郊外」というライフスタイルの一面、ムラ社会的な共同体意識にはほぼ初めて触れたもので、集合住宅に住んでいても隣の住人の顔も知らないという生活を普段している者としては違和感の嵐である。うーむ、小さな田舎町が舞台、と言われれば違和感はなかったかもしれないけどなあ*7
 このあたりはコージー、素人探偵ものならではの違和感か。主人公の興味は殺人そのものがメインではなく、自分の生活である。つまり読者は殺人という興味に引かれつつも、より鮮明に登場人物のライフスタイルを覗き見ることになる。そういう意味では面白いジャンルなのかもしれない。主人公が警官だったりすると第三者として事件関係者に接するからこういう文化や生活面からくる違和感って結構見過ごしちゃうのよね。もちろん警官や私立探偵が主人公であっても捜査を通じて多くの人間と出会い、間接的に都市や街の全体像を提示することはあるけれど。
 いやーしかし日本の脱・地域社会化、個人主義化が進んできた部分はなんとなくアメリカナイズドの結果だと思っていたけれど、ここで描かれている極々一般的に見えるアメリカの郊外の家庭、地域像が(多少の誇張はあれど)本当ならばそれは全然違うというか勘違いだったのかしら。なんか不思議な気分である。
 というわけで、そういった郊外への妙な違和感を都会住まいのジムおじさんが代弁してくれているのでそこを引用して今日は終わり。

「(前略)問題は場所でな。郊外ってやつさ。こんなに――広くっちゃ。整然としすぎてるし」
「おじさんには健康的すぎる?」
 ジムは笑った。「そういうこったろうな。こんな場所じゃ、おれみたいな男には用がない。芝生なんてどうでもいいほうだから、庭なんてあってもみんな枯らしちまう。これが都会なら必ず、ぐちゃぐちゃになった事態や夫婦げんかがあったり、ごろつきがいたりするから、おれでも何かする機会がある。いいことしてやれる時もないわけじゃない」


 うむ、私も都会で猥雑な感じのほうが好きだな……って都会派なコージーって少ないんだっけか。

コージーについて今回まででわかったこと

  1. コージーの主人公は主婦で素人探偵。
  2. コージーの主人公はパーティのために料理を作る。
  3. 人参サラダを作るときにはみかんジュースが必要。
  4. コージーの主人公は犬と猫とハムスターを飼っている。
  5. コージーの舞台は郊外の住宅地。
  6. アメリカ郊外の主婦はご近所づきあいをする。
  7. 小財満のコージー知識はWikipedia程度。
  8. コーナーのタイトルに深い意味はない。


そして次回でわかること。
それはまだ……混沌の中。
それが……コージー・ミステリー!

小財満判定:今回の課題作はあり? なし?*8

うーん……あり!

コージー番長・杉江松恋より一言。

 文中に出てくるドメスティック・ミステリというのは、家庭内で起きた出来事を題材とした作品のことで、特にコージーとは限らないのね。ジョルジュ・シムノン『猫』(創元推理文庫)なんかも、立派なドメ・ミス(という略称はない)。『ゴミと罰』刊行当時はコージーという用語がまだ一般的ではなかったので、編集部も配慮したのであろう。というわけで、ジル・チャーチルは気にいったみたいですね。そんでは主婦探偵ジェーン・シリーズは気に入ってもらえたみたいなので、同シリーズ第五作『忘れじの包丁』を次は読んでみましょうか。


小財満
ミステリ研究家
1984年生まれ。ジェイムズ・エルロイの洗礼を受けて海外ミステリーに目覚めるも、現在はただのひきこもり系酔っ払いなミステリ読み。酒癖と本の雪崩には気をつけたい。

*1:後に「ウェ○ス○ォード警部シリーズ以外が面白いんだぞ」と諭されてこの作家も現在攻略中。

*2:何が楽なのか具体的には語らないが、当サイトには【コージー!】杉江松恋の「私、辛党ですけど〈お茶とケーキ〉プリーズ!」【隔週連載】というコーナーがある。これがいつから更新されていないか確認してもいいかもしれない。

*3:有名洋菓子店の店名をもじった逢坂剛のエッセイ『剛爺コーナー』があるためだと思われる。

*4:ちなみに私の本棚……というか本の山を漁っていたらこのシリーズが五冊も出てきた。読みゃしないのに。

*5:ちなみに私、犬も猫も好きです。ハムスター……はそんなに好きじゃないかな。

*6:どうでもいいが私の「郊外」のイメージは映画『ブルーベルベット』の冒頭で老人が芝生に水を撒いているシーンである。あそこの演出好きなんだよなあ。

*7:今年の新刊だと『愛おしい骨』『湖は餓えて煙る』あたりはモロに小さな田舎町が舞台で、そういう類いの違和感はなかった

*8:この判定でシリーズを続けて読むか否かが決まるらしいですよ。その詳しい法則は小財満も知りません。