第一だらだら「構文解析とは鑑識である」
もう振り返るのもいやになるほど長いことエンターテインメント翻訳を生業にしているのだが、仕事の時に心がけていることとか、今ごろになってやっと気がついた(汗)こととか、だらだらと書いてみようかと思う。お付き合いいただければ幸いです。
翻訳をする際に絶対に避けて通れないもの、そのひとつが原文の構文の解析だ。例の too...to... とかいう類のやつだ。構文の解析というのは避けて通れないばかりか、遠回りのやり方はいくらでもあるが、省略したり近道したりする方法は全くない。英文法に王道無し、ね。今作った言葉だが。
わたしはいちおう二流私立大学の英文科をなんとか出て、翻訳専門出版社で翻訳小説専門の編集者として六年間を過ごし、稲葉明雄、深町眞理子、永井淳、村上博基、浅倉久志、伊藤典夫、吉野美恵子といった錚々たる名翻訳者の生原稿を見て、その翻訳テクニックを盗み取ろうとして見事に失敗した人間だが、翻訳者として独立した時は、まず大学入試の英文法の参考書を買ってきたもんね、いやホントに。そして、翻訳作業をしながら、どうにも分からない時は、主語、述語、修飾語、といった具合にそれぞれ暗記カードみたいな紙切れに原文の一部を書き出して、それを並べ替えたりして、構文例文集と首っ引きでなんとか理解しようとした。
いわゆる名翻訳者と言われる人たちはその作業を頭の中だけで、しかも短時間でやり遂げてしまう能力を持っている。そういう能力のないわたしのような凡人は頭の外で、あらゆる道具を駆使して、時間をかけて彼らの作業をシミュレートするしかない。わたしは最初の頃、大学ノートに一行空きに訳文を書いていって、何度も見直して空き行に朱を入れ、それを清書していた。時間と手間はかかるが、凡庸な人間が人並みの翻訳をするにはそれしか方法はなかった。断わるまでもないが、まだワープロすら生まれていない頃の話だからね。今はワープロ、パソコンが発達したから、その並べ替えと朱入れをカット&ペーストという形でディスプレー上で何度でも繰り返し、訳文を推敲することができる。今の人は幸せだよ、年寄りみたいな言い方だが……あ、年寄りか。
翻訳ではその文法の解析(と訳文の推敲)という作業が絶対に必要なのだが、ありがたいことに、経験を重ねるごとに頭の中に自分なりの構文集が蓄積されていく。そうして、原文を見たと同時に、頭の中でパタパタパタ(あくまで比喩ですよ)とシナプシスが繋がっていって、原文が楽に読み取れるようになっていく。だから、翻訳の修行をはじめた方は、今は面倒でもあとで(いつになるかは知らないが)必ず楽になる時が来ると夢を持ち続けていてください。わたしだって何時かそうなるかもしれないし。
気をつけなければいけないのは、構文の解析と意味の把握は(警察の鑑識が証拠を分析するのと同じように)ある程度の見通しを立てて作業を進めなければならないという点だ。よく分からないなりに、おそらくこんなことを書いているのだろう、と大雑把な見当をつけて作業を進めていくということ。テレビドラマ『CSI:科学捜査班』を観た方はピンと来るだろうが、鑑識なら、犯人はこちら側から車に乗りこんだはずだから、このドアのあたりや、シートベルトに指紋や皮膚の断片が付いているかもしれない、と考えてそこを中心に採取するというようなことだ。そうしなければ、鑑識も翻訳も作業量が膨大になりすぎて、手に負えなくなってしまう。
見当をつける手がかりは、小説の流れ、これに尽きるだろう。ここで人物Aを登場させたのだから、このあたりの文章はAの怖さを描いているはずだろうとか、この描写はどうも伏線くさいなあとか、小説を読み慣れていれば、そんなことがなんとなく頭に浮かぶだろう。小説であるからには(作家それぞれの個性はあるにしても)ある種の共通の小説作法で描かれているはずだし、作者が何をどう書こうとしたのかが分かれば、文章の解読も容易になるはずだ。
ただし、流れと言ってもあくまで作業仮説に過ぎない。証拠を取捨選択して無理矢理に仮説に合わせたりするのではなく、仮説に合わない証拠が出てきたら軽視せず、躊躇せずに新しい仮説を立て直すことが重要だ。犯人はこちらから乗りこんだのではないかもしれない、犯人は手袋をしていたのかもしれない、犯人などそもそも存在していなかったのかも知れない、というような感じ。そうしないと、思いこみだけで突き進んでとんでもない冤罪(誤訳)事件ができあがることになるかもしれない。
悲しいことにうまく訳せた部分は他人には気がつかれないのに、誤訳だけはよく目立ってしまうものだ。
翻訳でも鑑識でも、あくまで客観的に、冷静に、というのが基本。
構文の解析では絶対にある程度の時間が必要になる。では、慣れない翻訳者は絶対に早く翻訳できないのか、というとそうでもない。いくつか方法がないわけでもない。次回はそのあたりのことを。
鎌田 三平
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