会心の訳文・第十九回(執筆者・白須清美)
三浦玲子さんから執筆のお話があったときにも申し上げたのですが、恥はかいてもエッセイなんてとても書けないこの私……しかし、来るものは拒まずがフリー翻訳者の性ということで、しばしお付き合いを願います。
こういうお仕事をしていると「これ使いたい!」という日本語の単語や表現がいろいろとあるものです。でも、翻訳は原文あってのお仕事。みだりに使うことはできません。いいな、と思った言葉や言い回しは大事にしまっておいて、いつか使えるときを待っている(そしてときどき、ここぞというところで出てこなかったりする)わけですが、そんな言葉を使うチャンスが巡ってくると本当に嬉しいものです。
そういう意味での会心の訳文は『処刑と拷問の事典』の一節。ミステリでなくノンフィクションで恐縮ですが、このサイトをご覧になっている方ならこんなのもお好きでしょう(と勝手に決める)。当時、うら若き女性翻訳者4人で共訳した思い出深い本ですが、その中の「振り子」という項。ポーの作品にも出てくるあの拷問のクライマックスです。
…the arc which will surely glide sinuously over his palpitating flesh, tracing thin blood-red lines along its path as it swings, scything deeper and deeper, little more than a millimetre at a time, slicing through muscle, tissue and bone, until, eventually, his chest cavity gaping and ruptured, the implacable blade skims across his very heart…
(前略)弧を描く刃は確実に、滑るように、わななく肉体の上を通って細い血の筋を刻みつけ、大鎌のように徐々に深く切り裂き、一度に一ミリくらいずつ筋肉や組織、骨を切り刻んでいき、最後には胸に大きな裂け目を作り、情け容赦なく心臓をかすめていくだろう……。
今読むと突っ込みどころ満載の訳ですが、ここで使いたかった訳語はズバリ「わななく」でした。一度使ってみたかったんです、「わななく」。
訳語が適切かどうかは皆様の判断にお任せしますが、自分ではノリノリで訳した覚えがあります。それが伝わったのか(?)この一節は本の帯にも引用されていますので、書店で見かけることがありましたらぜひ帯に注目してみてください。
さて、訳文の工夫は翻訳家の腕の見せどころでもありますが、原文がすばらしいとほぼ直訳でオッケーということも。
そんな例として、今年改題文庫化した『タイムアウト』の作者、デイヴィッド・イーリイの「昔に帰れ」という短編の一節を挙げておきます。文明を拒み、昔ながらの自給自足の暮らしをしようとする若者たちが、徐々に商業主義に追いつめられ、逃げ場を失う物語。ラスト近くの絶望的な、とても印象深い場面です。
Victor lurched against these naked trunks; they were light as cardboard, and went toppling slowly down with a soft sighing sound.
ヴィクターはよろめいて、裸の幹にもたれかかった。幹はボール紙のようにもろく、ため息のような音をたててゆっくりと倒れた。
すみません、そのまんまで。
でも、この「ため息のような音をたてて」のところに、どうにもならない絶望ぶりを込めたつもり。ちなみに、ここには挙げませんがラストの一文もほぼ直訳になっています。
本作が収録されている『大尉のいのしし狩り』は『タイムアウト』に劣らぬ傑作揃いで、とても好きな作品集です。この「昔に帰れ」のような狂気をはらんだ物語、失われたものへの哀惜、怪奇譚など、イーリイの魅力がたっぷり詰まっています。
晶文社よりハードカバーで刊行されていますので、『タイムアウト』でイーリイの魅力を知った方には、ぜひこちらも読んでいただきたいと思います。
次回は翻訳学校時代からの長いおつき合いである、とってもキュートな翻訳家、森沢くみ子さんです。お楽しみに。
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