2009年、私のベスト10暫定版第6回・その2(執筆者・中辻理夫)
同じことが2位のドン・ウィンズロウ『犬の力』にも当てはまる。メキシコの麻薬ビジネス撲滅を魂の底から目指す捜査官、犯罪組織、彼らのあいだで炸裂する闘争を、粘っこくもドライに描いている。怒りの絶え間ないぶつかり合いが、やはり三十年にも亘り繰り返されるストーリーはすさまじい。
リサ・ブラック『真昼の非常線』を『余波』よりも上の3位にしたのには、また別の理由がある。銀行籠城ものという、クライム・エンターテインメントではおなじみのパターン設定でありながら、サスペンス、バイオレンスの興奮で読者を惹きつけるのみならず、かなり緻密に構築された謎解きミステリーにもなっている贅沢感がいいのである。
今まで翻訳ミステリーに親しんでこなかった方にぜひ知ってもらいたいのは、この小説ジャンルが娯楽と感動の宝庫であり、サスペンス、バイオレンス、謎解きも、叙情も情動もすべて、犯罪という出来事をストーリーの主軸におきつついくらでも際限なく盛り込まれているところなのである。
5位のピーター・レナード『震え』、10位のトロイ・クック『州知事戦線異状あり!』は、強盗や殺しをなりわいとしている、いわば職業犯罪者たちのふざけた日常が大きな読みどころではあるけれど、それだけでは終わっていない。前者は悪党たちの魔の手から子供を救い出そうとする母性の強靭さがテーマであり、後者は、カリフォルニア州知事候補の一人からライバルを消して欲しいと依頼された殺し屋コンビがことごとく犯行に失敗し、それが腐敗政治批判の風刺劇となっているのだ。
6〜8位はいずれもSFだ。言うまでもなくすべての小説は空想世界であり、どういう設定にしようが作者の自由だ。奇想とテーマが固く結び付いていれば、必ず作品に説得力が生まれる。ジェイムズ・F・デイヴィッド『時限捜査』はタイムスリップ設定と、過去に対する悔恨というテーマが一体化しており、読んでいて何の疑問も湧いてこない。
9位のマット・ベイノン・リース『ベツレヘムの密告者』はパレスチナを舞台にしている。国際紛争を背景にしつつ、主人公は軍人や諜報部員ではなく五十代の歴史教師、彼が教え子殺害事件の謎を追う探偵物語となっている。今の時代に即した社会性、銃撃戦の迫力、そして歴史学者ならではの粘り強い主人公のキャラクター。本作もやはり贅沢な翻訳ミステリーである。
2009年、私のベスト10暫定版第6回・その1(執筆者・中辻理夫)
1『静かなる天使の叫び』R・J・エロリー(集英社文庫)
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作品に対し程好い距離を取りつつ、読書できる。これは翻訳ミステリーに接するときの魅力の一つであろう。
例えば、4位のピーター・ロビンスン『余波』は連続少女殺人とドメスティック・バイオレンスを物語の主軸に置いているのだけれど、舞台は北イングランドの田舎町で、季節の移ろいを感じさせる叙情的な風景描写も読みどころだ。残虐な事件が、この日本ではない、どこか別の場所で起きている、という安心感が私たちに心の余裕を与えてくれる。でありながら、その遠い国であっても、悲惨な状況に遭えば人は同じ思いを抱くものだとも感じる。ここが重要だ。
主人公のアラン・バンクスは警視代行という高い地位にあるのだが、感受性の強いデリケートな人物として設定されている。被害少女の家族に聞き込みをするとき、表面上はドライに接している。しかし内面では自身の少年期を回想したり、娘について思いを馳せたりと、目まぐるしく情動が波打つ。このあたりの心象風景に接すると、どこに住もうが、どこの国籍であろうが人は皆同じだ、と読者は感じずにはおれないだろう。
遠い場所に住んでいるけれども自分とさほどかけ離れていない人と小説のなかで出会う(あるいはその人に変身した気分になる)ことで、読者は空想上ではあっても日本を飛び出し、世界中、地球そのものと一体化したような解放感を得るのだ。これが本作に限らず、翻訳ミステリー全体にほぼ共通する魅力であり、国内ミステリーでは味わえないものなのである。
スケール感の大小、と言ってもいいかもしれない。『余波』を1位にしなかったのは、このスケール感と関係していて、つまりもっとパワフルな感触のものを上位にしたのだ。1位のR・J・エロリー『静かなる天使の叫び』はアメリカ・ジョージア州が舞台の中心で、やはり連続少女殺人を扱っている。犯人捜しのプロセスが三十年以上にも亘るのである。この間、探偵役を務める主人公は作家志望の少年から本当の作家に成長する。自身が絶望の淵に何度も立たされながら必ず這い上がる執念深さと捜査プロセスが重なり合い、つまり地理的なものにとどまらず、時間の積み重ねによる主人公の情動のうねりに多くの読者は圧倒されるに違いない。
初心者のためのスティーヴン・キング(執筆者・白石朗)
ここでいう初心者とは、本サイトをごらんになるほど読書好きなのに、なぜかキング作品にふれたことのない方や、そびえるキング山脈を見あげてボリュームに圧倒され、手を伸ばさずにいた幸運な方々のことです。そんな方々にキング作品を薦めるのは、ある意味でとびきりの毒を処方するようなもの。ですからここでは、初心者のあなたにあえておすすめしないキング作品を三作品だけ選びました。
たとえば『ミザリー』。キャシー・ベイツ主演の映画で物語のアウトラインはご存じでしょうし、キング作品のなかでは手ごろな一冊本なので、うっかり手にとる方がいるかもしれません。熱狂的ファンの中年女性の手で冬山の一軒家に幽閉され、新作執筆を迫られた作家が体験する想像を絶する体験も、映画館やテレビで映像を見ているだけなら、作家の苦しみや痛みに同情しつつ鑑賞しているだけです。あのとびきり「痛い」シーンで一瞬びくんと飛びあがっても、すぐ映画館の座席やリビングの居ごこちのいいソファでゆったりできるでしょう。しかし――
――しかし、キングの原作は活字の力で、あなたとあなたの想像力を物語に引きずりこみます。自分の想像力から逃げられる人はいません。あなたは大怪我でベッドに縛りつけられて身動きのとれない作家になり、作家が足首に感じる言語に絶する痛みを、あなたもわがこととして感じてしまうのです(作家の足首を見舞う「凶器」は映画と小説では異なっています)。こんな痛い思いをさせる作家の本は二度と読んでやるものか、という人を増やすのは本意ではありません。
キューブリックによる映画化で知名度も高い初期の傑作『シャイニング』も、初心者がうかつに手を出すと危険です。とりわけ旅行に出る予定のある方が、長めの本なので移動中の時間つぶしにいいかな……と手を出せば、雪に閉ざされた山奥の由緒あるホテルに管理人として住みついた親子三人を襲う怪異と恐怖のつるべ打ちに読むのをやめられず、静まりかえった夜中のホテルでの貴重な睡眠時間をあらかた奪われるのは確実です。
またホテルにとり憑く悪霊と一家族との壮絶な戦いを描いた本作は、夫婦や親子の関係の闇を容赦なく抉る一面もそなえています。あなたが子をもつ親であれば、あなたに家族があれば、なおのこと『シャイニング』というホテルにチェックインしないほうが幸せかもしれません。「心の闇」は、テレビの犯罪報道の決まり文句にしておいたほうがいい。自分の心にも闇があることをあなたに否応なく気づかせるこの作品は(『ペット・セマタリー』とならんで)、かけがえのない心安らかな日々の敵になる取扱注意の本なのです。
クローネンバーグによって映画化されただけではなく、TVシリーズ化もされているので知名度もあり、上下本ながらそれほど長くないため、やはり手にとりやすい『デッド・ゾーン』も危険な本といえます。交通事故後に五年近く昏睡状態にあり、目覚めると超能力が身についていた青年教師の物語には、人が羨む能力があっても、かならずしも現世的な幸せには結びつかない、むしろ呪いのようなものかもしれないという沈鬱な通奏低音が流れています。中盤から衝撃的なクライマックス、そして索寞たる終幕まで突っ走るベクトル感覚はキング作品中でも屈指。脈搏を上昇させ、手の発汗現象をうながし、時間感覚をうしなわせるばかりか、読後にはあなたの胸に冷たい、しかしどこか懐しい風を送りこんでしまうおそれがあるのです。
かくも危険なキング読書体験をお薦めしない理由、少しはわかっていただけましたか。けれども「舌が痺れるのもフグの味、読書もそうでなくちゃいけない」という好奇心にあふれる本好きのあなたを引き止めるような不粋な真似は慎みます。どうか自己責任で毒味を……じゃない、味見をなさってください。キング作品には強烈な中毒性がありますが、かりに依存症になったところで、邦訳作品も多いため、しばらくは禁断症状に悩まされる心配のないことをつけくわえておきます。
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