第35回『笑う警官』(執筆者:加藤篁・畠山志津佳)

――北欧ミステリーの元祖にして警察小説の代表傑作の登場だ!


全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。


「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁
後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳


今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!


加藤:アメリカ大統領にトランプさんが就任してはや1ヶ月。なんだか慌ただしいというか、話題にこと欠かない毎日でしたね。


 ノッケから分かる人にしか分からない話で申し訳ないのですが、トランプ大統領マルティン・ベックシリーズに登場するグンヴァルト・ラーソンって、ちょっとキャラが被ってない?
 って、先日ツイッターでつぶやいたら、名古屋読書会のご意見番「びりい」さんに「ラーソンをトランプと一緒にすんなぶっ殺すぞ」(大意)って怒られました。
 でも、考えれば考えるほど似ている気がするんだよなー。
 いつも怒鳴っていて、金髪の毛むくじゃらで、俺様全開な大男。さらに上流階級の出身で嫌われ者ってところまで。
 うーん、こうしてみると救いがないくらい嫌な人間にしか思えないのに、なぜ僕らはみんなラーソンが好きなんだろう。
 トランプ大統領のことも、そのうち好きになれるのかな?


 さてさて、今ではブームというより、一つのジャンルとして完全に根付いた北欧ミステリーですが、そのきっかけを作ったのはスティーグ・ラーソン『ミレニアム』でしたね。
 いやあ、面白かった〜。あのときの感激は忘れられません。


 そして、その『ミレニアム』から遡ること30年以上も前に、世界を席巻したマルティン・ベックシリーズは、まさに北欧ミステリーの元祖であり、警察小説の傑作でした。


 そんなわけで、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」、今回のお題は、僕も大好きマルティン・ベックシリーズの第4作『笑う警官』。1971年のMWA最優秀長編賞(エドガー賞)受賞作です。こんな話。

刑事マルティン・ベック  笑う警官 (角川文庫)

刑事マルティン・ベック 笑う警官 (角川文庫)

10月の雨の夜、ストックホルム市内を走る2階建ての路線バスのなかで銃乱射事件が発生し、八人が犠牲となった。スウェーデン初の大量殺人事件である。そして、被害者の一人は殺人捜査課の若手刑事だった。非番だったはずの彼は、なぜ拳銃を携帯してそのバスに乗っていたのか。そして犯人の標的は誰だったのか。マルティン・ベックと部下たちによる地道な聞き込み捜査が始まる……。


 作者は、マイ・シューヴァルとペール・ヴァールー。この二人は夫婦と言われていましたし子供もいたのですが、籍は入れてなかったのだそうですね。奥さんのマイ氏は現在もお元気だそうですが、ペール氏はシリーズ最終作『テロリスト』を書き終えた1974年に亡くなりました。
 この二人が二人三脚で書いたのが、いわゆるマルティン・ベックシリーズ。
 ご存知、エド・マクベインの87分署シリーズと並ぶ警察小説の金字塔であります。
 1作目の『ロセアンナ』から10年間で10作が発表されました。

    1. 1965 ロセアンナ
    2. 1966 煙に消えた男
    3. 1967 バルコニーの男*
    4. 1968 笑う警官
    5. 1969 消えた消防車*
    6. 1970 サボイ・ホテルの殺人*
    7. 1971 唾棄すべき男*
    8. 1972 密室*
    9. 1974 警官殺し*
    10. 1975 テロリスト*

    *印は旧訳


 10作で終わったのはペール氏の死去が原因ではなく、もともと1作あたり30章、10作で300章からなるストックホルム警察殺人課サーガという構想だったそうです。


 このシリーズは世界中でヒットし、日本でも高見浩さんの訳で読まれてきました。
 そして、2012年に本国スウェーデンで新装版が出たのを機会に、柳沢由実子さんの新訳がスタート。その一発目がシリーズ第4作である本作『笑う警官』です。

 くわしくはこちらをどうぞ ☞【特別編】『笑う警官』新訳版のできるまで(角川文庫担当編集者G) - 翻訳ミステリー大賞シンジケート『笑う警官』新訳版のできるまで(執筆者・角川文庫担当編集者G)


 今回の柳沢由実子さんによる新訳の一番の意義は、なんといっても「スウェーデン語からの一次訳である」ということ。
 英語版からの二次訳であった高見浩さんの翻訳に、当時の僕は(おそらくほとんどの読者は)、何の不満もなかったものの、高見さんご本人は訳者あとがきで何度も不安な心境を漏らしておりました。
 英語版は章がまるごと抜けていたりするくらい信用できないシロモノだったのだとか。


 今ではミステリーの世界にも、スウェーデン語は柳沢由実子さんやヘレンハルメ美穂さん、ドイツ語の酒寄進一さんなど、英仏以外の言語もこなす素晴らしい翻訳者さんが沢山いらっしゃるけど、一昔前は大変だったようですね。
 戸川安宣さんの『ぼくのミステリ・クロニクル』に出てくる薔薇の名前の翻訳をめぐる話なんかは涙なくしては読めなかったもの。いつか全面改稿の文庫になるのを首長竜で待ってますよ、井垣さん!




畠山:マルティン・ベックのシリーズはずーーっと昔に加藤さんにオススメされたのですが、その時にはすでに入手が難しい状況で、辛うじて『笑う警官』と『ロゼアンナ』(確か旧訳はロアンナでしたよね?)だけ読みました。
 内容はすっかり忘れたのですが(おい!)、慣れない人名に手こずったのと、それまで抱いていた「北欧」のイメージ(牧歌的かつ社会制度の行き届いた明るく暮らしやすい国)とまるでかけ離れていて驚いたことを覚えています。
 そもそも警察小説自体をあまり読んだことのがなかった私にとって「刑事モノ=太陽にほえろ」でして、懐の深い上司、走る若手、カツ丼で自供する犯人と、華々しい殉職……と刷り込まれていたものですから、派手さの一切ないマルティン・ベックにはいささか面食らったものです。


 マルティン・ベック班は、はっきり言ってナイスガイには程遠い、癖のある人たちぞろいです。ベック自身も全然ヒーローっぽくはありません。いつも体調悪そうだし、嫁とはうまくいってないし、追い打ちをかけるように天気も悪くて陰鬱なカンジ。ちょっと気の毒になるくらい。でもそんな中で被害者の一人である若手刑事の心情に寄り添おうとする姿勢(しかもあんまりベタついてない)は素敵だなぁ。
 彼らの地道な捜査と観察力が、バス襲撃事件から過去の未解決事件へ繋がる糸を見つけ出し、膠着した事件が一気に展開しはじめていく。その過程は実にリアルで後半は読むスピードが一気に上がりました。いつしかクセモノ捜査員たちにも惹かれるようになります。
 加藤さんはグンヴァルト・ラーソン派のようですが、私は人間記憶装置フレドリック・メランデルが好きですね。


 それになんといってもこのタイトルが秀逸。一体どんな場面で警官が笑うのか、警官が笑うと何が起こるのか。知りたい、知りたすぎるもの!
 映画化もされた佐々木譲さんの道警シリーズ『笑う警官』は、もともとマルティン・ベックへのオマージュとして書かれたそうです。元のタイトルは『うたう警官』だったのですが、わかりにくいという理由で改題になったとか。でもこれは絶対元のタイトルの方が良かったなぁ。大体『笑う警官』だってわかりにくいでしょ!?




加藤:確かに『笑う警官』ってタイトルは不思議だよね。なんだかちょっと楽し気でさえある。基本的に陰鬱な話なんだけど。


 思えば、あの頃の警察小説は分かりやすかった気がします。
 今の主流はフロスト警部シリーズみたいな、いわゆる「モジュラー型」ってやつじゃないですか。
 複数の事件や人間ドラマがダイナミックかつパラレルに進行し、場合によっては現在と過去さえ同時進行みたいな、もう絶対いろいろ無理〜ってところからラストに向って収斂してゆく感じ。


 対して、マルティン・ベックの時代は、もうちょっとシンプルで、読者は常にギリギリ視野のなかで物語全体を見渡せているイメージだった気がします。
 そこでは、捜査員を含めた登場人物たちの日常が切り取られ、当時の世相や社会考察が描かれる、問題提起型の社会派ミステリーの側面も持っていたりもしました。
 当時も今も、世界でトップの社会福祉を実現している彼らは、常に自国の問題と真摯に向き合ってきたのかも知れませんね。


 そして、ここにきて嬉しい情報が飛び込んできました!
 な、な、なんと!
 ラ・ラ・ランド
 新訳『笑う警官』から3年半が経つ来月3月に、シリーズ3作目『バルコニーの男(仮題)』が出されるとのこと!
 これで目出度く第1作『ロセアンナ』から第4作『笑う警官』までの初期4作品が揃うことになりました!
 まさに快哉! ちなみに、この第3作は、マイ氏が「シリーズ中もっとも気に入っている」という作品で、冒頭で僕が「トランプ大統領とキャラが被る」と書いたグンヴァルト・ラーソンの初登場作でもあります。


 そんなわけで、このシリーズを未読の方は、是非これを機に1作目の『ロセアンナ』から順に、まずは『笑う警官』まで読んでいただきたい!
 もちろん各話は独立しているので、どれから読んでもOKなんだけど、このシリーズは続けて読んできたから分かる、積み重なった人間関係が理解できるからこそ泣けたり笑ったりできる、読者サービスというか心憎い趣向がいっぱい用意されているのですね。


 きっと『笑う警官』まで読んだあとは、まだ続きが6冊もある喜びに打ち震えるに違いありません。
 そして、その6冊も全て面白いのだから驚きます。(個人的には『密室(旧題)』からのラスト3作が悶絶するくらい好きなのですが、それを語りだすと長くなるので泣く泣く割愛)


 代表作は『笑う警官』かも知れないけど、シリーズ10作が全部面白いって凄くない?



畠山:ライアン・ゴズリングが加藤さんに脳内変換されてしまう呪いにかかりました。どーしてくれる!?)


 札幌読書会でもマルティン・ベックシリーズは「順番通りに読め」という提言があったばかりです。私も今回『笑う警官』の後に『ロセアンナ』の再読をしたら、このまま2作目、3作目を読んでもう一度『笑う警官』を読みたいと思いましたよ。
 しかも後半は悶絶するほど面白いとまで言われたら否が応でも期待が高まります。(その頃にはまた記憶がなくて『ロセアンナ』から出発する可能性大。一体何周するんだろうか)
 なんにせよまずは柳沢先生に頑張っていただかなくては! 栄養ドリンクでもお送りしようかしら? カニとかウニとかで納期が早まるなら考えてみなくもない(>ナニサマ!?)


『笑う警官』で興味深かったのは、応援で駆り出された市外の捜査員や外国人居留者などの視点からストックホルムという街を描き出しているところでした。大都市ならではの虚無感、そして移民労働者との軋轢や麻薬問題に性犯罪。
 特に性犯罪についてはテレサ・カマラウという未解決事件の被害者が忘れられません。彼女の人生に何が起こったのか思いを馳せずにいられない。
 じゃぁ救いようがないくらい暗いのかというとそうでもないんです。
 ちょっとした捻くれジョークや憎めないキャラが配されているので上手にガス抜きしながら読み進められます。やることなすこと全部ダメなお巡りコンビとか、ミントの爪楊枝を探し求めるモンソン刑事とかイイカンジですよ。送ってあげたかったなぁ北見のハッカようじ!(>なんでも送りたがる田舎のオバチャン)


 加藤さんが「問題提起型の社会派ミステリー」と言っていましたが、年代順に読んでいるこのミステリー塾で、刑事の群像劇&社会問題をガチで扱ったものは初めてじゃないかしら? そう考えるとマルティン・ベックはミステリー史の中でも重要な立ち位置にいるのかもしれません。
 ちなみに『ロセアンナ』の献辞は一昨年亡くなったヘニング・マンケル、2作目の『煙に消えた男』の献辞は『3秒間の死角』『熊と踊れ』のアンデシュ・ルースルンド&ステファン・トゥンベリのお二人。こうして全作にスウェーデンを代表する作家たちの献辞が載るそうです。この豪華さはすなわち刑事マルティン・ベックの偉大さでありましょう。これはもうマストリード中のマストリード、キングオブマストリードと言っても過言ではないかも!?


(※この文章を書いている時にアンデシュ・ルースルンド氏と共に『制裁』『ボックス21』『死刑囚』そして大傑作『三秒間の死角』を生み出したベリエ・ヘルストレム氏の訃報が入りました。享年59歳。残念でなりません。心からお悔やみを申し上げます)


勧進元杉江松恋からひとこと


シューヴァル―&ヴァールーの夫妻(事実婚かもしれませんが、二人は立派なカップルです)は、変わりゆくスウェーデンの姿を見て、福祉国家としての母国がこのままの形を維持するのは難しいだろうという暗い予感に突き動かされ、変わりゆく10年を小説の形で記録しようと考えたといいます。こうした現在を見る姿勢は、現在に至るまでスウェーデンを中心とした北欧圏ミステリー作家の中心にあるものです。そこから、外国人読者ゆえの思い込みを正されるような作品に出逢ったり、作家本人から自身の独自性、作家群の多様性について蒙を啓かれるような教えを受けたりして私は現在に至ります。現時点での認識は、自身の属する社会に対する批判的な視点を有する作家が北欧圏には多く存在し、その見聞したものを娯楽小説の形に落とし込むのが巧かった作家が広く人気を至ったのだ、というような緩いものに変わっています。社会と個人の対立関係を犯罪小説として描く手法において、北欧圏ほど名手が集中して輩出する地域は珍しい、という言い方に替えてもいいのですが。
『笑う警官』は、シューヴァルー&ヴァールー作品の代表作と見なされる小説です。英訳されてMWAを受賞したという事情も大きいのですが、作品の柄の大きさ、エロティックな要素を含めたフックの多さなど、マルティン・ベック・シリーズを好きにならずにはいられない数多くの要素が含まれる作品です。ぜひとも本書を読んでいただき、次は第1作『ロセアンナ』に溯ってシリーズ全作を味わっていただきたいと思います。警察小説にはこんなに様々な書きようがあり、刑事というキャラクターはこんなに魅力的だったのか、と発見されることと思います。ここから出発して次に読む作家としては、クルト・ヴァランダー捜査官シリーズの作者、ヘニング・マンケルが最右翼でしょう。両シリーズを併読すると、時の経過によってミステリーというジャンルが負わなければならなくなった変化が見えてきて興趣が高まります。
 さて、次回はデイヴィッド・イーリー『タイム・アウト』ですね。楽しみにしております。

[asin:4309463290:detail]


加藤 篁(かとう たかむら)


愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。 twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)


札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?) twitterアカウントは @shizuka_lat43N

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