第32回『深夜プラス1』(執筆者:畠山志津佳・加藤篁)
――このラスト、マストリード!
全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。 「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁) 今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発! |
畠山:今年の流行語大賞に「黙れ、小童!」も「まずは君が落ち着け」もノミネートされていなくて、やや気分は盛り下がり気味。「斉藤さん」が誰なのかわかるまで5秒くらいかかるとか、「びっくりぽん」ってどこかの方言だと思ってたとか、ピコ太郎の動画は未だに笑うタイミングがわからないとか、なんだか世間に負けてこの街も追われそうな感じです。こんにちは、さくらと一郎です。
さて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』をテキストに、翻訳ミステリーとその歴史を学ぶ「必読! ミステリー塾」。今月は冒険小説の鉄板中の鉄板、ギャビン・ライアルの『深夜プラス1』です。こんなお話。
深夜プラス1 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 18‐1))
- 作者: ギャビン・ライアル,菊池光
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- 発売日: 1976/04
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ルイス・ケインは第二次世界大戦中のコードネーム「キャントン」の名前で呼び出され、実業家マガンハルトとその秘書をフランスからスイスを経由し、リヒテンシュタインまで送り届けるという仕事を請け負った。タイムリミットは3日後の零時ジャスト。1分たりとも遅れることはできない。護衛を兼ねた相棒にはギョーカイで3本の指に入る腕利きガンマン、ラヴェルが選ばれた。マガンハルトを追うフランス警察、謎の敵が送り込んでくるガンマン達の手を逃れながら目的地を目指す一行。果たして彼らは間に合うのか?
ギャビン・ライアルは1932年イングランドのバーミンガム生まれ。20歳前後の頃はイギリス空軍で少尉として従軍した経験があります。退役後はケンブリッジ大学で学び、その後記者やBBCのプロデューサーなどを務めました。
1961年に航空冒険小説『ちがった空』で作家デビュー。『深夜プラス1』は3作目にあたり、スティーブ・マックイーンが映画化権を買い、亡くなる直前まで映画化を考えていましたがついに実現しませんでした。
ライアルが比較的寡作なのは病的なほど技術的な部分の正確性にこだわり、時に実験までしていたため執筆に時間がかかったからだそうです。調査の結果はちゃんとパンフレットにまとめられているんですって。
当サイトでも『深夜プラス1』のガイドがいくつもあります。福田和代さんの「漢<オトコ>の教科書ベスト5」、♪akiraさんの「読んで腐って萌えつきて」、今年7月に行われた名古屋読書会レポートと推せ押せモード最高レベルです。
ちなみに2作目の『もっとも危険なゲーム』はコチラで取り上げられており、戸惑いを隠すことを放棄した東京創元社Sさんと諦念の域に入りでもしたかのような北上さんのコメントが非常に興味深いです。
『深夜プラス1』。まずこのタイトルがいいですよね。わかるようなわかんないような、でも妙にカッコイイ。夜中に一体何を「プラス」するのか。何か事件が起きるのか、それとも零時に一人出現するとか?(怖ぇよ)、あっ! もしかして夜のお伴みたいなこと? うなぎパイ的な? とか、まぁタイトルだけでどんぶり一杯目を軽く平らげられますね。
ページを開いて1行目で「あら、なんか素敵」と思いました。いきなりショッキングなことが起こるわけでもなく、むしろそのパラグラフにはほとんど情報がないにも関わらず、雰囲気がめちゃくちゃオトナの男の世界。
銃や車に興味がなかったら楽しめないのではないかと考えていたのは杞憂でした。
筋立てはごくシンプルで、「時間厳守で人を送り届ける」こと。敵と味方もわかりやすい。
しかし、主人公ケインはすでに一線からは退いていてなぜ今頃お呼びがかかったのかイマイチ釈然としないような感じだし、相棒のラヴェルはなんとアル中で手が震えている始末。つまり危なっかしい二人なのです。それでもそこは昔取った杵柄、ひねくれたセリフを吐きながら目的に向かってひた走る。不器用さもみせるその姿がカッコいいを通り越えて愛おしさすら感じます。
さて、加藤さんは先日都内某所で行われた「『深夜プラス1』をディープに語る読書会」に参加したのよね? 私は参加かなわず残念でした。どどど、どんな話をしたの? 教えて、教えて。
加藤:菊池光さんの翻訳で長く親しまれてきた『深夜プラス1』。
今年4月になんと半世紀ぶりの新訳版が出されました。
そして、このタイミングで新訳と旧訳を読み比べながら、改めてこの本の魅力を語り尽くそうという読書会が11月某日、都内某所で開かれました。題して「『深夜プラス1』をディープに語る読書会」。
なんたって、そのメンツからしてディープでした。
この読書会の言い出しっぺである元菊池番編集者の翻訳家N口氏。
菊池さんの愛弟子で同じく翻訳家のOK村氏は、大阪から駆けつけてくださいました。
そして、田口俊樹門下の隠れキクチストとして有名な(隠れてないじゃん)KG山氏とTK山氏。
さらに、「大切なことは競馬シリーズとスペンサーに教わった」という一人文春砲ことNG嶋氏。
うーん、深い。深いというか濃い。いずれ劣らぬ菊池光訳『深夜プラス1』愛に溢れる方々です。
ここに畠山さんがいないのが残念というか、むしろ菊池光さんがいないことが不自然とすら感じる魔空間。
本会の世話人でもあるKG山氏が用意したA4で10枚を超える「新旧対訳表」がこれからのディープな時間を予感させます。
そして、この顔ぶれを前に、小田原に参陣したときの伊達政宗もかくやという神妙な面持ちで登場したのが、新訳版の翻訳者・鈴木恵さん。
……ざわざわ……よく顔を出せたな……あの名作を新訳とは……身の程知らず……どうしてくれよう……C・J・ボックス『狼の領域』よろしくネ……なぜ今それを言う……まずはドラ焼でも……ざわざわ……
とまあ、そんな不穏な空気だったかというと決してそんなわけではなかったのですが、きっと鈴木さんは生きた心地がしなかったに違いありません。
話題は新訳と旧訳と原書の間を行ったり来たりし、多岐にわたったというか脱線しまくったというか(読書会とはそういうものだと最近わかってきた)、なかでも印象に残った二つの話題をご紹介しましょう。
- その1/原書は英語とフランス語が入り混じっている!
主人公ルイス・ケインは、元はといえば大戦中にイギリス情報部からレジスタンス支援のために送り込まれた工作員。現地の人たちとの会話は当然フランス語です。
旧訳では、英語と仏語の区別はありませんでしたが、新訳では、仏語での会話がそれとわかるようにルビ付きで記されました。
「ライアルの意図を酌んでいて素晴らしい」「ルビや注釈を多用するのは勇気がいるけど、うまくいっている」と一同高評価。
- その2/主人公2人の名前表記について
今回の新訳の何に驚いたって、主人公2人の名前が実際の発音に基づいて変えられていたこと。
「ムッシュ・カントン」は「キャントン」に、「ハーヴェイ・ロヴェル」は「ハーヴィー・ラヴェル」に。この2人を心のヒーローとして生きてきたコアな旧訳ファンは、なかなか受け入れられないかも知れません。
「もちろん反発は予想していました。僕も『深夜プラス1』ファンとして旧訳には愛着があるけれど、正すところは正さないと新訳の意味が無い」と鈴木さん。
うーん、確かにそうだ。古いファンに気を使って、新しい読者に古い情報を押し付けて良いはずがありません。久しぶりに浜名湖より深く反省。※何度も言うが、浜名湖の平均水深は5メートルである〔編集部〕
ちなみに主人公のコードネーム「キャントン(CANETON)」は本名のケイン(CANE)にTONを付けただけという安直さ。中国語の「広東」とは関係なく、フランス語のアヒルちゃんです。
そんなこんなで、あっという間に時間が過ぎ去っていったディープ読書会。
ほかには菊池文体の変遷とか、菊池さんのエレガントな主語のすっ飛ばし方とか(N口さんがうっとりしながら語られていたのが印象的でした)、マニアックな話題が飛び交ったのですが、それはまた別のお話。
畠山:いやーナント豪華な顔ぶれ!
鈴木さんはいっそケイン気取って水鉄砲に「モーゼルC96」って書いて携えてくるとか(ケインの愛用銃。イマドキそれ? とラヴェルに散々バカにされる)、もしくはラヴェルに学んで一杯ひっかけてから会場入りするとよかったのにww
『深夜プラス1』で興味深かったのは、男性と女性で生きる姿勢みたいなのが全然違っていること。ケインもラヴェルも新しい時代に馴染めていなくて、今回の仕事を引き受けたのは不謹慎ながら大戦中のハラハラドキドキを味わいたい、あの情熱の日々よもう一度! みたいなところがあります。
でもケインの元恋人ジネットやマガンハルトの秘書ミス・ジャーマンは、かなり現実への適応度が高い。危険がいっぱいな状況でも、泣きわめいて縋りつくことはしないのです。
女性陣の「しょうがねぇな」的な割り切りと受け入れの姿勢に比べると、男性陣の方がごにゃごにゃと立ち止まってるように見えます。
そのなんとも言えない戸惑いが一気に姿を変えるのが、かの有名なラストシーン。
彼らがその時何を思ったのかはきっと読んだ人の数だけ解釈があるのでしょうね。
単純にカタルシスとも言い切れないあの“ほろ苦さっぱり”感を味わうために長旅をしてきたといっても過言ではありません。嗚呼、読んでよかった…! と思える瞬間でした。
鈴木さんのお話しで新訳を手がける際の翻訳者さんの意気込み、覚悟の一端をチラ見させていただいたように感じます。今は空前の(?)新訳ブーム。往年の名作が翻訳者さんの熱い想いでお色直しされて書店に並んでいるわけです。これは贅沢! せっせと楽しまなきゃソンですね。
加藤:数ある翻訳冒険小説のなかでもトップクラスの人気を誇る『深夜プラス1』。
そりゃもう面白いに決まってるんだけど、何がどう面白いのか説明しようとすると、これが意外と難しかったりするのです。
あらすじを読むと手に汗握るタイムリミットサスペンスみたいだし、行く先々に何故か待ち伏せている敵の存在は大きな謎として物語を引っ張っているように思えるけど、読み終わってみると本作の読みどころはそこではなかった気がしてくる。
実際、既読の方でも『深夜プラス1』というタイトルの意味すら思い出せない人も少なくないと思うのです。
そこに謎が存在することも、時間に制限があったことさえも忘れるくらい目の前のシーンに引き込まれ、登場人物たちに入れ込んでしまうのが、この『深夜プラス1』の凄いところ。登場人物一人ひとり(男も女も)立場や目的は微妙に違うけど、その生き様、関係性、そしてプロの矜持に心を打たれる。
ちなみに僕がその昔、菊池光さんの旧訳を読んだときには、主人公のキャントンことルイス・ケインではなくて、サブキャラのアル中ガンマン、ハーヴィー・ラヴェルにただただ痺れました。クールでニヒルなプロフェッショナル。
ルパンⅢ世の相棒・次元大介の元ネタに違いないと(きっと誰もが)思ったのですが、調べてみると『深夜プラス1』の初訳が1967年、モンキー・パンチ氏の漫画の連載が始まったのも同じ1967年なので微妙なところみたいです。
でも今回、より原文に忠実な新訳で読むと、ケインがメッチャ格好良くてビックリしました。彼のちょっとひねくれた分かりづらいハードボイルド的ユーモアや、様々な葛藤がよく伝わってくる。ケインとジネットの二人のシーンなんて全部いい。全部です。もう最高。
やはりこの話の主役はケインなのです(当たり前だけど)。
旧訳ファンも是非ご一読をお勧めしたい。
そして、最後にもう一つ。
畠山さんも触れているけど、『深夜プラス1』が名作中の名作といわれるのは、本筋とはほとんど関係ない最後のシーンがあるからだと僕は思う。
最初に読んだときの衝撃は今も忘れられません。こんな結末アリなのか。
あれをこれから味わえる未読の方が羨ましい。
同じく本筋とはぜんぜん関係ないラストシーンが強く印象に残る(とてもくだらないことが起こる)ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』とは奇しくも2大アル中カタルシス&再生小説として讃えたいです。
本書『深夜プラス1』のケインやラヴェル、ミス・ジャーマンやジネットといった魅力的な登場人物のその後はもちろん気になるけど、決して誰かが書いた続編なんか読みたくないとつくづく思うのでした。
■勧進元・杉江松恋からひとこと
『マストリード』編纂時にギャビン・ライアルは外せない作家でした。単純明快な筋立てを心躍る冒険物語へと仕立てる。その膂力の秘密はお二人に語っていただいた通りかと思いますが、ミステリーの魅力がプロットのみに存在するのではなく、その叙述の仕方にも秘訣があるということを如実に示すのがライアルの初期作品だと考えていたからです。その意味で個人的な贔屓は『もっとも危険なゲーム』なのですが、当時本が品切だったので選択の余地はなく『深夜プラス1』に。鈴木恵氏の新訳が読める現在の環境は、ミステリー・ファンにとってはとても幸せなことだと私は考えます。もっと他の作品も復刊、もしくは新訳してくれればいいのにな。単発作品もいいのですが、冒険小説と探偵小説の要素を兼ね備えた『影の護衛』以下のマクシム少佐シリーズも私はお薦めしたいと思います。
さて、次回はロス・トーマス『冷戦交換ゲーム』ですね。この小説巧者をどう評されるのか、楽しみにしております。
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加藤 篁(かとう たかむら) |
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愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。 twitterアカウントは @tkmr_kato |
畠山志津佳(はたけやま しづか) |
札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?) twitterアカウントは @shizuka_lat43N |
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