第13回:『暁の死線』(執筆者:畠山志津佳・加藤篁)
第13回:『暁の死線』――孤独な若い男女のタイムリミットサスペンス
全国15カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。 「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁) 今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発! |
畠山:杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』をテキストに、翻訳ミステリーとその歴史を学ぶ「必読! ミステリー塾」。今回もどうぞお付き合いください。
今回は“サスペンスの詩人”と呼ばれるウィリアム・アイリッシュの『暁の死線』。
こんなお話しです。
- 作者: ウィリアム・アイリッシュ,稲葉明雄
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1969/04
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 11回
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ニューヨークで夢破れダンサーとして孤独な生活を送るブリッキーは、ある夜、挙動不審な青年クィンと出会った。奇しくも彼は同じ町の出身、それもとても近くの家に住んでいたことがわかり急速に打ち解けあう。出来心で窃盗の罪を犯した彼に、明るみにでないうちに盗んだ金を元に戻そうと提案するブリッキー。すぐに現場の邸へと向かった二人だが、なんとそこには男の死体があった。このままではクィンは殺人犯にされてしまう。真犯人を見つけるべく深夜のニューヨークを駆け回る二人。タイムリミットは早朝までの4時間。
まずは作者ウィリアム・アイリッシュについて簡単に。
1903年ニューヨーク(NY)生まれで、本名はコーネル・ジョージ・ホプリー=ウールリッチ。作品の多くはコーネル・ウールリッチの名義で書かれており、一部がウィリアム・アイリッシュ、ジョージ・ホプリーの名義です。日本ではアイリッシュ名義で発表された『暁の死線』と『幻の女』(冒頭の名文で有名ですね)の人気が高く、ウィリアム・アイリッシュの名の方がピンとくる方が多いかもしれません。
映画化されたものでは『裏窓』(アルフレッド・ヒッチコック監督)、『黒衣の花嫁』『暗くなるまでこの恋を』(フランソワ・トリュフォー監督)などがあります。
山口百恵の赤いシリーズ最終作にして百恵ちゃん引退記念スペシャルドラマ「赤い死線」はこの『暁の死線』が原作だったんですねー。もちろん相手役は三浦友和。北海道襟裳の出身という設定でした。(ここで森進一の「襟裳岬」を熱唱するのが“チーム昭和”のお約束♪)
詳しくは、当サイトに掲載された門野集さんによる「初心者のためのウィリアム・アイリッシュ入門」と、東東京読書会で『暁の死線』が課題書になった際に門野さんがお寄せになったメッセージをお読みください。いずれもアイリッシュ愛に満ち溢れた素敵なガイドです。
●初心者のためのウィリアム・アイリッシュ入門
●読書会資料傑作選・第5回 『暁の死線』読書会へのメッセージ
さらに、佐竹裕さんの人気連載「ミステリー好きは夜明けに鍵盤を叩く」の記念すべき第1回はウールリッチ名義の「踊り子探偵」でした。
●「ミステリー好きは夜明けに鍵盤を叩く」 第1回「踊り子探偵」は忌み嫌えど
上記のリンクを読んだだけで高まる期待。ドキドキしながらページを捲りました。
章が変わるところには時間の流れを示す時計の絵が描かれていて、じわりじわりと迫る刻限とわずか数十分の間にとても濃密なやりとりが交わされたことを実感します。
しかし、実はこのタイムリミットは誰かに強制されたものではなく、あくまで主役二人が自分で決めたもの。ニューヨークという大都会で夢破れ行き場を失った二人がなんとか夜のうちに事件を解決して一緒に早朝のバスに乗って故郷に帰ろうとしているのです。
じゃぁその時間にそんなに囚われることないんじゃない? 遅れたら次のバスに乗ればいいじゃん……と思ってしまいそうなのですが、そこが作者の巧いところ。どうしてもそのバスに乗らないと彼らの未来、心の再生はないと読者に思わせるんですねぇ。
女優に憧れたけど箸にも棒にもかからなかったブリッキーのセリフ「都会は悪辣で、だれだって打ち負かしてしまうのよ。あたしは今、その都会に首根っこを押さえつけられて、身動きがならないの」。挫折と孤独。彼女が友と呼ぶのはパラマウント塔の大時計ただひとつ。時計は決して裏切ることがないから。その彼女が時間に追われる一夜を経験するのだから憎い演出だなぁと思うのです。
ブリッキーはもうNYから逃げ出したいけれど親に女優になったと嘘をついた手前、帰りたくても帰れない。不運が続いてすっかり食い詰めてしまったクィンも同様です。でも同じ田舎でお隣同士だった二人が出会うことで帰郷の勇気が湧いてきます。さぁ気まぐれな都会の罠にまた嵌ってしまわないうちに一刻も早く身ぎれいになって旅立たなくては……というこの心境、人口よりも牛の数の方が多いという町から札幌に出てきて苦労話には事欠かない私としてはよくわかるんだなぁ〜。だってさぁ、長年デパートとして親しんだ大きなお店のことを「それってスーパーじゃんwww」と笑われた時のあの恥辱。見て驚き聞いて驚き、話して驚かれたあの日。嗚呼、涙なくしては語れない田舎者残酷物語。
そうだよ、あんまり辛かったら勇気を出して「えへっ帰ってきちゃった♪」って言うのも悪くないんだよ、と若い二人にエールを送っている自分がいました。
さて、かつて「三河は愛知県の中でもニューヨーク寄り」という発言で、名古屋読書会の方々を軽く苛立たせた自称シティーボーイの加藤さんはどう読んだのでしょうか?
加藤:シティーボーイって言葉を久しぶりに聞いたわ。もしかしたら札幌では働く女性のことをまだBGと呼んでるんじゃないかって疑っちゃうよ。この人に自由に喋らせるのは危険ですよ、札幌の皆さん。
田舎へ帰るといえば、20代の後半をバブル真っ盛りの東京で過ごした僕が、異動で地元に戻ったときのことを思い出すなあ。異動初日、大井町のマルイで買ったJUN MENの紫のダブルのスーツを着て出勤したら、偉い人に「ちょっと来い」と言われて小一時間説教されたっけ。ああ懐かしい。
そして今、僕は『暁の死線』を読み終えて少々戸惑っておるところです。
なんだろう、このツッコミどころの多さと無防備さは。うーんこれは困った。きっとワナに違いない。ワナじゃなければフリなのか。もう、熱湯風呂の上に四つん這いになっている上島竜兵の絵しか浮かんでこない。
押すべきなのか、無視するべきか、それとも自分も一緒に熱湯に落ちればいいのか。もう何が正しくて、皆が何を望んでいるのか分からない。僕は今そんな気持ちです。
ちなみにアイリッシュは『幻の女』以来で2作目でした。
『幻の女』といえば、本作と同じ稲葉明雄さんの訳による出だしの一文が有名ですよね。
夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。
このフレーズが僕の脳内ではいつもチャーリー浜の口調で再生されるって話はしたっけ?
『暁の死線』も出だしは情感たっぷりというか、やや華美で難解な文章で始まるわけですが、前出の門野さんの「初心者のためのウィリアム・アイリッシュ入門」によれば、アイリッシュはミステリーではなく文学を志向した人だったのですね。なんとなく納得です。
ところで、この『暁の死線』って邦題はどうなのでしょう。多くの人はクールでノワールでハードボイルドチックな物語を想像して読み始め、「あれ? なんか違うぞ」ってなると思うのです。
原題は『DEADLINE AT DAWN』。むむむ、なるほど、「死線」はDEADLINEなのか。
って、直訳やないかーーーい!
いや、こういうのを直訳とは呼ばないのか。いずれにしても、普通「死線」といわれたら「死線をかいくぐる」とか「死線をさまよう」というような、生と死を分かつ一線を想像しません?
ちなみに、かの有名なエキサイト翻訳に『DEADLINE AT DAWN』を日本語化してもらったところ『夜明けの締め切り』とのこと。意外と普通でガッカリです。
でも、何といっても本作の最大のツッコミどころは、あまりといえばあまりにも無理のある設定そのもの。なかでも死体を発見してから解決までのタイムリミットを4時間としたところは凄いとしか言いようがありません。
畠山さんも書いてるとおり、その根拠もまた苦しい。
死体と遭遇した午前2時の時点で、被害者の素性も人間関係も知らないうえに、容疑者さえいないのです。それでも真犯人を警察に突き出したうえで6時のバスに乗ることを誓う主人公たち。
何故アイリッシュは、こんな強引で説得力に乏しくリアリティーを疑われるような舞台をあえて用意したのか。そして、タイムリミットの根拠である田舎へ帰るバスは何を意味しているのか。
謎は深まるばかりなり。
畠山:BG! 加藤さん、いつの時代の人? バドガールじゃないよね?
ググってみると「職業婦人」を示す流行語は大正時代に遡り、丸ビル小町→モダンガール→サラリーガール→ビジネスガール(BG)→オフィスレディ(OL)と変遷したようです。ちなみにBGは直訳すると「商売女」なので東京オリンピックの前年(1963年)に放送禁止用語になっています。
話しを戻しましょう。
タイトルが『夜明けの締め切り』じゃ、出版関係者が泣き崩れちゃってボツになったでしょうねぇ。門野さんの資料によると先に『バスで帰ろう』という短編があったそうです。長編に書き直したいうことで……『バスで帰ろうEX』! いや、これでは最終バスを目標に残業するリーマン物語か。それはそれで涙なくしては読めないかもしれないが。
「ミステリ的にあり得ん!」という加藤さんの気持ちもわかるっちゃわかるんですよ。
夜中の2時近くにブリッキーが「朝6時のバスに乗りましょう」と言った時には「ちょ、待っ……」ってつぶやいたわ、私も。電波少年かよ! と。
その時点では盗んだお金をこっそり返すことだけが旅立つ前のミッションだったとはいえ、それで済まされないことくらいは読者もわかっているわけですからね。
だからかなり“ありえねー!”な設定だし、単純な仮説でいとも簡単にそれらしい人にぶち当たるのは都合のよすぎる展開だし、読んでて「4時間ってどんだけ偉大なのよ!?」と思ったりもするし。
そういう無理で強引な設定でありながらもあまり怒る気にはならず、まぁそう固いこと言わず勘弁してあげなさいよ、まだ将来のある若者たちなんだから……とかばいたくなるようなある種の親心みたいなのが生まれちゃうんですよ、この作品。
前述の通り私自身が田舎者で、ホームシックや小さな挫折を経験しつつもやがては馴染み、次第に故郷が遠くなってしまったことに幾ばくかの後ろめたさを感じたりしているから、主人公の二人を応援したい気持ちが強いのかもしれません。
途中に挟まれるちょっぴりハートウォームなエピソードなんかは素敵ですよ。NYで何一ついいことのなかった彼らが、再生への一歩をかけた短い時間の中で小さな(当事者にとってはかなり重大な)“いいこと”に出会ったり、時として彼ら自身が図らずも“いいこと”を演出することになったり。時間が迫っているのも忘れて温かい気持ちになれるシーンがいくつかありました。
そんな不思議な雰囲気でなんとなく「ありえねー感」を忘れさせてしまうこれって……そうか、わかった! これはファンタジーだ!(等々力警部の口調で言うと眉唾っぽくなるが)
都会に疲れた若者がそこを去る前の一夜に試みる奇跡の物語。現代のお伽話のような趣があると思うなぁ。結果がどうなるかは読んで確かめていただくこととしてね。
門野さんも「(アイリッシュは)登場人物にリアリティを与えることにはあまり関心がなかったのではないか」と仰っています。それに『幻の女』では「ニューヨークという都会が、そう短時間に人をさがしだせるような場所でないことは、承知していたのだ」なんて『暁の死線』の設定を真っ向否定するかのような一文がありますから、本作で書きたいところは別にあったのということなのかも。
充分に惚れ込むことができる雰囲気たっぷりのお話なのでオールオッケーじゃない?
加藤:なるほど、「これはファンタジーだ!」ってか。確かにその通りかも知れないって気がしてきた。
畠山さんの言う通り、アイリッシュが本当に描きたかったのは、若い男女の再生の物語であるとすれば、数々のミステリーとしての無理な設定も仕方ないのかも知れません。
そもそもタイムリミットの根拠も強引だけど、もっと凄いのは物語の始まりから終わりまでを真夜中に設定したことではないでしょうか。午前2時や3時はどう考えたって、殺人事件の捜査に適した時間ではありません。人の家のドアをノックするにも、電話をかけるにも、こころよく協力を得られるとは思えない。
それでもあえて、アイリッシュは主人公たちにそれをさせるのですね。昼間の話にすれば、もっと楽に書けただろうし、もう少し強引感も薄かったに違いないと思うのだけど。
そして僕が出した結論はこう。アイリッシュはふたつの別の物語を混ぜるのを潔しとせず、入れ子構造で成立させちゃったのではないでしょうか。
都会の生活に倦み疲れた男女が、全てを清算して夜明けとともに出発するバスで田舎に戻り、再起を期すというのが核の部分。
そして、その途中で思いがけず死体と遭遇し、身の潔白を証明するために真犯人を探すという泥棒探偵みたいな話が別のレイヤーに存在する。
おそらくはアイリッシュが書きたかった文学的なテーマを、商業的に必須だったエンタメ要素でコーティングし、タイムリミットサスペンスとして完成させた。
結果、ツッコミどころは共通だけど、読み終わったあとに残るものは人それぞれに大きく違う、深くて不思議なミステリーになったのではないでしょうか。今回はその掴みどころのなさに翻弄されて終わった感じです。
そして最後にひとつお願いを。
今年も翻訳ミステリー読者賞の募集が始まっております。
投票要項はこちら→●第3回読者賞のお知らせ(全国翻訳ミステリー読書会連合)
2015年の翻訳ミステリーランキング1位を総なめにしたピエール・ルメートル『その女アレックス』がやはり勝つのか。それともケイト・モートン『秘密』が雪辱を果たすのか。さらに札幌読書会が猛烈にプッシュする ロバート・クレイス『容疑者』の追い上げも気になります。
投票の締め切りは3月31日。プロの方もアマの皆さんも、誰でもご投票できるのが読者賞のいいところ。是非ご投票ください。
宜しくお願いいたします!
■勧進元・杉江松恋からひとこと
アイリッシュ=ウールリッチは『幻の女』がたいへんに有名ですが(江戸川乱歩が大いに持ち上げたため)、あの作品は着想と構成が齟齬を来たしている面があり、個人的には作家の代表作とはちょっと認めがたい。むしろウールリッチ名義に秀作はたくさんあります。原題に「黒」を意味する語を含んだ一連の作品は特にお薦めしたい。『黒いアリバイ』は記憶喪失の人物を主人公に据えたスリラーの大傑作で、後続作品の原型にもなりました。有名なのは、オムニバス形式で話が進んでいく『黒衣の花嫁』(一時期ハヤカワ・ミステリ文庫では、二時間ドラマ化された際に主演した十朱幸代の表紙になっていました)と『喪服のランデヴー』で、これは甲乙つけがたい。オムニバス形式ですから構造は単純なのに引き込まれてしまう。各章のエピソードに力があるのはもちろんですが、個々の登場人物の淋しげな肖像がいいのです。特に私が偏愛しているのは『恐怖の冥路』、原題はThe Black Path of Fearですから、これも「黒」のシリーズです。登場人物は数名しかいないのに、実にサスペンスフルです。そして、壮絶なほどに読者の感情を励起するあのラスト。一度読んだら絶対に忘れられなくなります。残念ながら品切なので『マストリード』には収録できなかったのですが、何か1冊アイリッシュ=ウールリッチを、と言われたら私は迷わず『恐怖の冥路』を推すでしょう。
『暁の死線』についてはお二人のご意見にほぼ賛同します。そもそもデッドラインの設定が変。でも、そういう作家なのです。『黒衣の花嫁』/『喪服のランデブー』が単なる芋つなぎの連作にすぎなくても読まされてしまうのは、各章に横溢するロマンティシズムがあるから。『恐怖の冥路』が単純な話なのに後に忘じがたい印象を残すのも、無視できない、絶対に共感したくなるような人間観、人生観が仄見えているからです。『暁の死線』に文句を言いつつも最後まで読んでしまった(きっとそうなるはずです)方は、ぜひ他の作品にも手を出してみてください。あ、創元推理文庫他から出ている短篇集もお薦めです。長篇の尺が必要ではない分、より切れ味の鋭い物語が短篇では楽しむことができるはずですから。
さて、次はジョン・フランクリン・バーディン『死を呼ぶペルシュロン』ですね。あの難敵をどうお読みになるか。楽しみにしています。
加藤 篁(かとう たかむら) |
---|
愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。 twitterアカウントは @tkmr_kato |
畠山志津佳(はたけやま しづか) |
札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?) twitterアカウントは @shizuka_lat43N |
どういう関係? |
15年ほど前に読書系インターネット掲示板で知り合って以来の腐れ縁。名古屋読書会に参加するようになった加藤が畠山に札幌読書会の立ち上げをもちかけた。畠山はフランシスの競馬シリーズ、加藤はハメットやチャンドラーと、嗜好が似ているようで実はイマイチ噛み合わないことは二人とも薄々気付いている。 |
■「必読!ミステリー塾」バックナンバーはこちら
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