アガサ・クリスティー攻略作戦 第九十七回(執筆者・霜月蒼)

 クリスティーの小説、これにて攻略完了。次回は『アガサ・クリスティー自伝』であることを予告しておきます。


 さて最後の小説は『フランクフルトへの乗客』クリスティー文庫)である。本連載をあたたかく見守ってくださっているかたがたが異口同音に「最後に残ったのが『フランクフルトへの乗客』だなんて……」とつぶやいて、まるで死亡フラグの立った人間の背中を見るような目つきでおれを見るのが気になっているのだが、まあいいや! もうクリスティーのスリラーにも慣れたし!




【おはなし】

 外交官スタンフォード・ナイの乗った旅客機が、濃霧ゆえにフランクフルトに着陸した。やむなくロンドンへの便を待つナイに、ひとりの女が声をかけた。今回のアクシデントで予定が狂った、このままロンドンに戻れば自分の命は危険にさらされるかもしれない、だからあなたのパスポートを貸してもらいたいと女は言う。果たして女の顔はナイとよく似ていて、フードつきのマントを着れば入国審査をパスできそうだった。
 それを承諾、翌日に無事にロンドンに戻ったナイは、謎の女が無事にイギリスに帰国できたと知ったが、あちこちから不穏な情報が届きはじめる。世界各地で起きている若者たちの叛乱。その背後で糸を引く者がいるらしいというのだ……


 これは凄い。よくも悪くもクリスティーらしいスリラーかと思っていたが、そんなお上品なものではなかった。こんな小説は読んだことがない。老境のアガサ・クリスティーだからこそ世に問うことのできた作品。唯一無二の。
 これはもはやアウトサイダー・アートである。


 上のあらすじにまとめたように、本作はクリスティーらしい謀略スリラーとして幕を開ける。いつものように、緩いといえば緩いけれど、ケーリー・グラントとかジェイムズ・スチュワートなんかが出ていそうな古き良き巻き込まれ型スリラー映画くらいのミステリアスな魅力がある。とくに、序盤で登場して物語上でも重要なカギを握るレディ・マチルダという老女が、いかにもクリスティーらしくていい。また、ワーグナーの演奏されるロイヤル・フェスティヴァル・ホールでの一幕なども(70年代の作品にしてはあまりに古臭くはあれど)クリスティーのスリラーとしてあたたかく読むことが可能だ。
 しかし、このワーグナー演奏会以降、物語は妙な方向に横滑りしはじめる。そして謀略の存在が明かされるのだが、その核心となるのは、『死への旅』と同じく、「志を持つが世慣れていない若者を操って世界に仇をなす陰謀」。『死への旅』での陰謀は、あくまで計画の準備段階にとどまっていたが、ここでは一歩進んで、すでに邪悪なる大陰謀は実行されている。


 本作の発表は1970年。クリスティーが本書を執筆したのは、この直前の時期だろう。
 この頃、先進国では、それぞれに理由を違えつつも学生運動が盛んであり、例えばアメリカではヴェトナム反戦運動ウッドストックとヒッピー文化、ブラック・パワーの隆盛、といった動きがあった。南半球では1960年代後半、とくにイギリスの統治下にあったアフリカや東南アジアの植民地が雪崩を打って独立を果たした。
 ひとことでいえば、植民地主義に象徴される「ヨーロッパ的=白人的」な秩序が、急速に崩壊していった時期である。ミステリの文脈でいえば、ジェイムズ・エルロイが《アンダーワールドUSA三部作》で扱った時間枠とぴったり重なる。
『フランクフルトへの乗客』は、こうしたさまざまな反=白人エスタブリッシュメントの動きの核となるのが「悪の組織」による煽動である、という陰謀小説なのである。主人公はその正体を探り出し、目論見を阻止する任務を与えられて動きだす。なんとブラックパワーもアフリカの独立運動学生運動もヴェトナム反戦運動もヒッピー文化も、さらにはネオナチまでも、まとめて全部「悪にあやつられた暴力」ってことで一緒くた。マジですか。
陰謀論」というのは「悪い組織が世界をあやつっていると考えることで、自分に不都合で理解困難な世界を理解可能なものに変換する」営みである。だから『フランクフルトへの乗客』は陰謀論そのものなのだ。


 さて、そんな陰謀が進行しているのだぞ、というレクチャーを受けて主人公たちは任務のために旅立ち、「第二部」に突入するわけである。
 ここで物語は、さらなる異様な横滑りをみせる。魁偉な容貌の大富豪の屋敷で催される祝宴。筋骨隆々たる美青年たちが列をなして、ジャバ・ザ・ハットのような巨体の女富豪の前で刀をアーチ状に掲げてみせたりするのだ。それまでのスリラー的なリアリティは、ここで跡形もなく溶解する。
 主人公たちがいうように、「第二部」はまるで『不思議の国のアリス』だ。すると本作は、「世界的陰謀のネットワーク」を導きにして、さまざまな異様な世界を旅する物語なのだろうか。――と思うと「第三部」で、物語はさらに斜め上に飛翔するのである。主人公が(何の説明もなく)姿を消して、若者の蜂起によって全世界が無政府状態に陥っていることが短いシーンを切り替えて描かれてゆく。
 この第三部以降が『フランクフルトへの乗客』の真骨頂である。


 主人公が姿を消したあとで物語前面に立つのは、世界のエスタブリッシュメントのひとびと、つまりは上流階級の老人たちである。彼らが安全な会議室やサロンで交わす会議や対話が事態を説明し、物語を動かしてゆく。地の文の描写はぎりぎりまで切り詰められていて、クリスティーの演劇趣味がよく出ているといえばいえる。
 その会話はおそるべき内容のオンパレードだ。何せ現代芸術や現代思想すらも悪の組織による陰謀のツールであると語られるのである。極左思想やナチズムを指してそう言うのならわかる。この時代だから共産主義をそう言うのもわかる。けれどもマルクスやマルクーゼとともにレヴィ=ストロースまで「悪の陰謀の産物」と呼ばれているのにわたしは驚いた。そもそも陰謀論は世界の複雑性や価値観の多様性を無造作に切り捨てる知的怠慢なくして生まれないものなわけだけれども、ここまでくると圧倒的である。
 しかも老人たちは事態の解決に大量破壊兵器の使用すら検討する。それを思いとどまるのは、それが非人道的だからではなく、「若者以外の者も殺してしまう」からなのだ!
 ここでわかるのだ、本作は社会諷刺小説といった可愛らしいものではないということが。これはほとんどヘイト・スピーチと言っていい。若者たちの事情など何ひとつ書かれない。ただひたすら、上流階級の老人たちが安全な会議室のなかで若者の危険性と愚かさを述べ立てるのみ。内戦状態のはずの世界の具体的描写すらなく、生ぬるい安全圏にいることの許されない庶民の姿も一切描かれない。ただひたすら、つめたい蔑みの色をたたえた差別的憎悪(hate)だけが、手を変え品を変えて綴られ、ついには世界最大の絶対悪アドルフ・ヒトラーまでひっぱりだして「正当性」を与えられ、主張されるのだ。
 それが最後に導き出す「B計画」のおぞましさは出色である。


『フランクフルトへの乗客』は、時間枠だけでなく、その主題もエルロイの《アンダーワールドUSA三部作》と共有しているのである――すなわち、己の安寧の崩壊にパラノイア的恐怖を抱く保守派白人の逆ギレだ。それをエルロイのような対象化をおこなわず、「逆ギレ」は憂国の義憤であるとして一片の疑いもなく朗々と謳い上げたのが『フランクフルトへの乗客』だ、ということができる。
 己の没落の予感に恐怖する白人の姿がここにはある。そして、そんな己の恐怖を正当化するために生み出された強引な物語と、その強引さゆえに壊れてしまった小説がここにある。老人が若者に向ける憎悪/持つ者が持たざる者に向ける軽侮/戦前が戦後に向ける恐怖/帝国が植民地に向ける侮蔑――それらの総体たるpure f**king hate。それが著者に充満し、理性を侵食し、物語を壊す。その結果物が『フランクフルトへの乗客』というアウトサイダー・アートなのである。
 エルロイの小説のなかでハワード・ヒューズらがばら撒く人種差別パンフレットと本作のあいだに本質的差はない。本作執筆時のアガサ・クリスティーと、エルロイの描くbad white menは、思想的な同志と言っていい。


 とはいえクリスティーらしい微笑ましさは本作にもないわけではない。『ゼンダ城の虜』に仮託された古きよきロマンティシズムへの郷愁だったり、随所でモチーフとなるワーグナーの楽曲、彼女の登場シーンだけ物語が生彩を帯びるミス・マープル調のレディ・マチルダなど、それだけを抜き出せば、クリスティーらしい典雅の匂いもあちこちにある。けれども、本作に満ちる「現在への呪詛」の文脈のなかに置かれた途端、これらは「趣味のよさ」ではなく「趣味の限界」を示すものにしか見えなくなる――「新しいものに目を閉ざす感性」の象徴として。
 だいたいワーグナーがでてくるのって、これがナチのサウンドトラックだからなんじゃないのかなあ。


 第三部以降の物語の壊れぶりはすさまじい。そして最後の数章を経て到達するエピローグ――そこにわたしは、まるで己の手を汚さずに敵を虐殺したあとの廃墟にレース編みのクロスを飾り、ワーグナーのレコードを聴きながら、心底から幸せそうに微笑む老女を見たような気がした。そこにあるのは静かで品のよいリネンに包まれた暗く孤独な狂気だ。


 衝撃のあまり長々と書いてしまった。つまり本作は――


 老大家クリスティーが己の信念を叩きこんだ作品である。
 害意の芽吹く世界への警鐘と言ってもいい。
 のんびり構えてなどいられない。
 ただ世界を座視することなどできぬという思い。
 わたしが本作に感じるのはその熱い脈動である。
 ごう引な物語でもいい、それを女王は世に問いたかったのだ。
 とんかつたべたい。
 

 なのだと俺は言う。


 ということで本作の衝撃をもって、クリスティー攻略作戦・小説編は終了である。


 ちなみに付記しておけば、笠井潔の《矢吹駆シリーズ》には、本作序盤で語られる「騒乱の種子となる人物に暴虐への指向性を吹き込むウイルスのような人物」というコンセプトを真剣に追究したような趣がある。本作では悪い冗談でしかない「ウイルスのような人物」というアイデアが、いかに恐ろしい人物として受肉しうるかを知りたい向きには、ぜひとも『バイバイ、エンジェル』や『サマー・アポカリプス』を読んで、ニコライ・イリイチという男に戦慄していただきたい。


アメリカン・タブロイド 上 (文春文庫)

アメリカン・タブロイド 上 (文春文庫)

アメリカン・タブロイド 下 (文春文庫)

アメリカン・タブロイド 下 (文春文庫)

アメリカン・デス・トリップ 上 (文春文庫 エ 4-13)

アメリカン・デス・トリップ 上 (文春文庫 エ 4-13)

アメリカン・デス・トリップ 下 (文春文庫 エ 4-14)

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アンダーワールドUSA 上

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アンダーワールドUSA 下

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バイバイ、エンジェル (創元推理文庫)

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サマー・アポカリプス (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

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